美咲は冷ややかに振り返り、「白川夢乃、驚いてるふりしても、あんた自分でわかってるでしょ」と言った。
「どういう意味?まさか夢乃さんに罪をなすりつけるつもり?」詩織が憤然と声を上げる。
「詩織、もういい」健一が低い声で制し、席を立った。
詩織はすぐに口をつぐむ。健一は美咲の前に歩み寄り、「大丈夫か」と小声で尋ねた。
美咲は視線を外し、「平気」とだけ答える。
「夢乃さん、やっと風邪が治ったばかりなんだから、そっちのほうが心配でしょ」と詩織が割って入る。
「咳……大丈夫です、ちょっと水を飲み込んだだけ」と夢乃は口元を押さえ、小さく咳き込みながら弱々しく答えた。
健一は不安そうに夢乃を見てから、美咲に向き直り、「家まで送るよ」と言う。
「必要ないわ」美咲はきっぱり断り、ウェイターに濡れた服の対応を頼むと、バッグを手に取り田中陽太のほうへ歩いて行く。「ありがとう」
美咲がちょうどドアの前に着くと、夢乃が額に手を当ててふらつきながら「健一、ちょっと頭が……」と訴えた。
振り返ると、健一はすでに夢乃をしっかりと腕で支えていた。
田中陽太が健一の肩を軽く叩き、「俺はそろそろ失礼するよ」と言った。
「まだ食事中なのに!」詩織が名残惜しそうに叫ぶ。
「家に客が来る予定でね」と田中は軽く返し、そのまま店を出た。
詩織は夢乃の側に寄って、「夢乃さん、すぐ病院に行ったほうが……?」と気遣う。
「大丈夫、休めば治るから」と夢乃はゆっくり首を振る。
「健一兄さん、早く夢乃さんを送ってあげて!」と詩織が促す。
青ざめた夢乃の顔を見て、健一は優しく頷き、「行こう」と静かに声をかけた。
夢乃はふと思った。もし自分と美咲が同時に水に落ちたら、健一はどちらを先に助けるのだろう、と。
今日、その答えがはっきりした。
彼が迷わず助けるのは、間違いなく自分だ――。
美咲は冷たい風の中、ホテルが用意してくれたカットソーとセーターだけを着て車を待っていた。二月の寒風の下、街灯の光に震えている。
そんな彼女の前に、銀色のベンツが静かに止まり、窓が下がる。「美咲さん、送るよ」と田中陽太が声をかけた。
「大丈夫、ありがとう」と美咲は微笑んで断る。
「今日はタクシーもなかなか捕まらないみたいだよ」と陽太が言う。
美咲が街を見回すと、確かにタクシーの姿はなかった。
「それじゃあ、お願いするね」
住所を伝えると、陽太は「健一と同じマンションに住んでるんだ」と笑った。
美咲は驚いたように目を瞬かせる。車内に静寂が流れ、陽太は暖房を強めて音楽をかける。美咲は何も言わなかったが、心の中が少し温かくなった。
家に着き、陽太の車を見送ってから部屋に入る。熱いお湯に浸かりながら、夢乃が自分を水に引きずり込んだあの冷酷な目を思い出す。人前では上品なピアニストの顔をしているが、その本性はまるで毒蛇のようだ。
こんな女が栞奈の母親になるなんて、絶対に許せない。
美咲は母に「今夜は帰らない」とメッセージを送った。十時ごろ、玄関のドアが開く音がして、健一が帰宅した。
彼女は部屋のドアに鍵をかけ、顔を合わせたくなかった。外で足音が止まり、ドアノブが一度押されてから、また静けさが戻る。
その夜は悪夢ばかり見た。翌朝、額に手を当てると熱かった。
なんとか身支度をして、解熱剤をデリバリーで注文する。こめかみを揉みながら頭痛を紛らわせていると、電話が鳴った。
「奥様、お薬が届きました」
上着を羽織って薬を取りに行くと、ちょうど袖口を直しながら出かける準備をしていた健一と鉢合わせた。彼は美咲の手の中の薬袋に気づく。
「すぐ病院に行く?」と声をかける。
「大丈夫、自分でなんとかするから」――つまり、放っておいて欲しいという意思表示だ。
その時、健一の携帯が鳴り、彼は「家のことがあるから今日は行けない」と相手に伝える。
美咲は眉をひそめ、早く出て行ってほしいと願う。
薬を飲もうと水を用意していると、
「空腹で薬を飲むとよくないよ。何か作るから」と健一が言った。
美咲は頭痛に耐えながら、薬だけを無理やり飲み込み、娘のために用意していたパンを持って重い足取りで階段を上がる。
「美咲、いつまでそんな態度を取るつもりだ!」背後から怒りの声が飛ぶ。
美咲は深く息を吸い、怒りに満ちた健一をきっと見つめた。
「私のことなんて、あなたには関係ないでしょ?」と冷ややかに言い放つ。
健一の顔色がさらに険しくなり、「昨日のことは、説明できる」と言った。
美咲は頭痛を我慢して、「説明なんていらない。誰を助けようがあなたの自由、私はどうでもいい」と言う。
「なぜ先に彼女を助けたのか、知りたくないのか?」健一の声はさらに低くなった。