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第35話 彼にもう一度ベッドに押し戻されて


美咲の心臓が大きく跳ねた。

健一はすでにシャツのボタンを全部外し、上半身があらわになっている。

薄暗い灯りの中でも、その鍛えられた筋肉のラインははっきり見え、広い肩と引き締まった腰のバランスが完璧だった。

美咲は強い逃げ出したい衝動に駆られ、頭の中で必死に逃げる方法を思い巡らせていた。

しかし、男はドアの前を塞いでいる。たとえ逃げても、またすぐにベッドに押し戻されるだけだ。

今、美咲の心にはこの男への憎しみしか残っていなかった。愛情など微塵もない。

「今夜は体調が悪いの。自分の部屋に戻って。」

美咲は冷たく言い放った。


暗闇の中、健一が急に一歩前に出る。

美咲の心臓がまた高鳴り、どこか見知らぬが漂ってきた。

彼女は思い切り彼を突き飛ばした。

「健一!離して!」

美咲の力はまったく通用せず、あっという間に両手を頭の上に押さえつけられてしまった。

美咲は焦り、涙を流した。

「バカ!放してよ…触らないで!もう嫌なの!」

彼女は本気で彼を憎んでいた。

男の息遣いが一瞬止まり、彼は彼女の手を離した。

両腕で美咲の体を挟み込むようにベッドの両側につき、身をかがめてじっと彼女を見つめる。

美咲は怯えた小動物のように身体を丸め、震えながらすすり泣いた。

本当に怯えているようだった。

暗闇の中、健一のいつもは落ち着いている瞳に苛立ちが浮かんでいるのがはっきりと分かった。

彼は何かを必死に抑え込み、やがて立ち上がった。まるで爪を引っ込めた猛獣のように、すべての感情を押し殺して。

そして、そのまま部屋を出て行った。


しばらくして、ドアの外から壁を殴る激しい音が響き、扉越しでもその衝撃が伝わってくる。

美咲は起き上がり、涙をぬぐいながら、少しずつ落ち着きを取り戻した。

また、なんとかやり過ごせた。

でも、こんな不安な日々はもう一日たりとも過ごしたくない。絶対に早く離婚しなければ。


週末の二日間、美咲は佐藤家で娘と過ごした。

健一は姿を見せなかった。夜になって雅子が電話すると、仕事の接待で外にいると言う。

日曜の夜になってやっと、美咲が栞奈とテレビを見ていると、健一がスーツ姿で帰ってきた。

「パパ!」二日ぶりに会う栞奈は嬉しそうだ。

健一はしゃがんで娘の頭をなでた。「パパに会いたかった?」

「うん!」

「パパも会いたかったよ。」健一は娘の額にキスをした。

「ママ、パパ帰ってきたよ!」と栞奈が振り返って言う。

美咲は「うん、分かった」とだけ返した。

その夜、栞奈は健一の部屋で長いこと遊んでいた。

美咲はベッドで十一時近くまで待っていたが、健一は娘を連れてこなかった。

美咲は布団をめくってベッドを降りた。明日は学校があるのに、もうこれ以上遊ばせておけない。

美咲は健一の部屋の前まで行き、そっとドアノブを回した。中には薄暗いランプが灯っているだけ。ベッドのそばまで行くと、父娘はすでに寝入っていた。


翌朝、美咲は娘を学校に送り届け、その足で医科大学へと向かった。

小林太郎がチームのメンバーにIDカードを配っていた。彼は美咲にも一枚手渡した。

「美咲、これが君の分だよ。」

「ありがとうございます、小林先輩。」

美咲は省吾のチームに配属された。

省吾のグループメンバーは美咲、晴子、田中で、それぞれにアシスタントがついている。


トイレの中。

美咲が個室に入ったばかりの時、外から足音と会話が聞こえてきた。

「明日、誰かに実験室をしっかり掃除させよう。私は清潔で整った環境が好きなの。」晴子の声だった。

「はい、はい!鈴木先輩についていけるなんて、本当に光栄です!」と媚びる声が続き、さらに「でも、鈴木先輩、これからは実験のとき気をつけてくださいね」

「何を気をつけるの?」

「美咲ですよ!」

晴子はくすっと笑った。「彼女がどうしたっていうの?」

「彼女、きっと先輩の成果を横取りしたり、実験結果を盗んだりしますよ!大学すら卒業してないのに主任検査技師なんておかしいです。私はちゃんと大卒なのに!」

晴子は気にもとめず、「実力ってのは、欲しがっただけで手に入るものじゃないわ。私はやめておけって言ったけど、彼女は聞かなかった。失敗して恥をかくのは自分よ」

「その通りです!先輩のような天才の頭脳は、誰にも盗めませんから!」

個室の中で美咲は口元をわずかに上げた。二人が出ていくのを待ってから、そっとドアを開けて出た。


実験室に入ると、省吾がすぐに美咲と晴子を呼んで会議を始めた。

感染症対策課の医師が最近流行しているウイルスについて説明した。

新型の球状ウイルス「RT303」が発生しているという。

現在、横浜市で流行しており、基礎疾患を持つ患者の容態が急激に悪化して重症化し、すでに八例の死亡例も報告されている。

美咲はウイルスの分析レポートに目を通した。彼女のこれまでの研究成果の中に、このウイルスに対抗できる案がちょうどあった。

もともとスイスで流行していたタイプで、かなり強力なウイルスだ。

市販薬もあるが、効果は今ひとつだという。


「私、このタイプの症例を研究したことがあるから、最短で有効な薬を見つけられる自信があります」晴子は自信満々に言った。

「それは素晴らしい!今まさにこの薬が必要なんです。どこの病院も待ち望んでいますよ!」感染症対策課の医師が興奮気味に答える。


美咲も口を開いた。「私にも実現可能な案があります」

晴子は嘲るように口元を歪めた。

「美咲、無責任なことは言わないで。病気相手に大口叩いたって意味ないわ」

省吾が言った。

「鈴木、今はとにかく多方面からアプローチすることが大切だ。君と美咲、それぞれ自分の方法で研究を進めて、成果が出たらまた一緒に検討しよう」

会議が終わると、省吾は美咲と並んで歩きながら聞いた。

「美咲、本当に新薬開発の目処があるのか?」

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