昼下がりの陽光が大理石の床を照らし、金の装飾が施された巨大なシャンデリアが美しい輝きを放つ。ここは王宮の大広間——国王や貴族たちが集い、重要な儀式や舞踏会が行われる場所である。その壮麗な空間に、今や多くの視線が一点に注がれていた。
視線の先に立つのは、王太子アルバート・フォン・グラディス殿下。そして、彼の隣に控えているのは、平民の出であるという小柄な娘リリィ・ハートフィールド。さらに少し離れた場所に、プラチナブロンドの髪を持ち、まるで高貴な薔薇のごとき気品を放つ一人の侯爵令嬢——レティシア・フォン・リュミエールの姿があった。
レティシアはひとつ息をつく。生まれたときから仕込まれてきた淑女の嗜みと、高貴なる者の余裕を感じさせる姿勢。それはまさに、完璧な令嬢の見本と言えよう。彼女の透き通るような白い肌と、宝石のようにきらめく紫水晶色の瞳は、一目見た貴族ならば誰しも心奪われるほどの美しさだ。
そんな絶世の美女とも称されるレティシアが、今まさに場の中心で、王太子アルバートの口から告げられた言葉を受け止めている。
「……俺は、お前との婚約を破棄する。もう、お前を王太子妃として迎えるわけにはいかない」
その言葉は、広間にいる全員の耳にしっかりと届き、同時に重々しい沈黙をもたらした。最初に驚きの声をあげたのは、他ならぬ貴族たちだった。
「な、なんと……」「レティシア様との婚約を破棄するなんて……」「馬鹿な、あのレティシア様を……?」
小声の囁きにもなっていない、明らかに聞き取れるほどの動揺が大広間に渦巻く。もっとも、それは当然の反応だった。リュミエール侯爵家はこの国の中でも指折りの名門であり、歴代にわたって王家の政治や外交を支えてきた名家である。現当主であるリュミエール侯爵は国王からの信頼も厚く、そして何よりレティシア自身は幼い頃から「未来の王妃」としてふさわしい教育を受け、才色兼備であることで知られていた。
しかし、アルバートはそんな周囲の反応など気にかけるそぶりもなく、彼の隣には、まだあどけない雰囲気の平民出身とされる少女リリィが控えている。リリィは緊張した面持ちではあるが、王太子の腕をぎこちなく抱き寄せ、必死に隣に立とうとしている。その姿を見た一部の貴族が唖然とした表情を見せるのも無理はない。
平民の生まれの娘を愛すると堂々と宣言する王太子。その結果が、レティシアとの婚約破棄。誰もが「これは尋常ではない事態だ」と感じていた。
しかし——。
当のレティシアは、アルバートから告げられた「婚約破棄」を前に、驚きのあまり絶句するどころか、ほんのわずかに微笑んだかのように見えた。それは決して愛しい人を失った悲しみからくるものでも、恐慌からくる取り乱しでもない。むしろすがすがしいほどの落ち着きと余裕を漂わせている。
アルバートの言葉を反芻し、少しの沈黙のあと、レティシアは会釈をしながら口を開いた。
「……そう、でございますか。殿下のお気持ちは、よくわかりましたわ」
広間にいる人々は耳を疑った。なぜなら、通常であれば、婚約破棄を突きつけられた令嬢は慟哭し、王太子に縋りつくか、あるいは激昂して悲嘆の声をあげるものだろう。ましてやレティシアのような立場であれば、王族や貴族の体面に関わる問題ゆえ、一大スキャンダルになりかねない。
ところが、レティシアはそれすら容易く受け流し、微笑みのままで続ける。
「殿下は平民のリリィさんに、本物の愛を見出されたのですね。とても素晴らしいことと思います。おめでとうございますわ」
王太子と並んでいるリリィは、その言葉を聞いてパッと表情を明るくした。一方で、アルバートは少し驚いたように眉をひそめる。想定外の反応だったに違いない。
彼はもともと、レティシアが泣き叫び、絶望のあまり取り乱して自分を責め立てるだろうと予想していた。完璧な令嬢であり、プライドの高いレティシアだからこそ、なおさら自分の決断を受け入れずに騒ぎ立てると思い込んでいたのだ。だが、その予想は見事に裏切られた。
「……レティシア、お前……怒らないのか?」
アルバートは戸惑い半分、困惑半分といった様子で問う。彼にとっては、今のレティシアの態度が何よりも不可解なようだ。
しかし、レティシアは相変わらず、穏やかな微笑みを浮かべている。まるで厄介な縁が断たれたことを内心喜んでいるかのようにすら見えた。
「怒る……そうですね。もし殿下が私の財産や権力目当てだけで婚約を結んでおられたと知ったら、怒っていたかもしれませんわ。ですが、殿下は真実の愛を求められたのでしょう? 私に無理矢理すがられても、きっと殿下はお幸せではない。そうではありませんか?」
その物腰と真意を測りかねて、アルバートはさらに言葉を失う。彼はレティシアについて、無表情で冷淡な女だと思っていた。愛よりも格式や名誉を優先する、貴族の典型的な令嬢だと。しかし、その令嬢が何の恨み言も言わず、むしろ祝福すらしてくる。
「……な、なんだ、それは。まるで……お前にとって俺との婚約など、大した問題ではなかったみたいじゃないか」
「私にとって大切なのはリュミエール家の名誉と、国の安寧ですわ。個人的には、殿下のお幸せをお祈りしています」
レティシアはそう言って頭を下げる。その振る舞いに、貴族の中には感嘆すら覚えている者もいる様子だった。なぜなら、大勢の前で屈辱とも言える婚約破棄を言い渡されながら、涼しい顔で対応する。これはなかなかできることではない。
一方、リリィは安堵の息を吐き、アルバートの腕を再びぎゅっと掴むと、しがみつくように嬉しそうに微笑んだ。傍から見れば、まるで子猫が飼い主に甘えているかのような姿だ。
「殿下、よかったですね……! レティシア様は怒っていないみたいですし、私たち、堂々と結婚できますよね?」
その言葉に、アルバートは得意げな顔を取り繕うものの、どこか表情には釈然としないものが残っている。レティシアが最後に見せたその微笑みは、確かに心からの祝福のように映った。しかし、その奥底に、どこか彼を見下すような冷ややかさが潜んでいるような気がしなくもなかったからだ。
「……まあ、そうだな。俺は自分の心に素直に生きることを決めたんだ。レティシア、お前のような冷たい女と過ごしても、愛など感じられない。それだけは確かだ」
負け惜しみのようにも聞こえる言葉を残し、アルバートはリリィの肩を抱いて踵を返そうとする。その場にいる貴族たちは、もはや呆れ果てている者も多い。なかには肩をすくめて「これは大変なことになるぞ……」と囁き合う者たちもいた。
そんな騒然とした雰囲気の中、レティシアは最後まで完璧な礼儀作法で一礼し、優雅な足取りで自分の立ち位置に戻っていく。ひとまず婚約破棄の宣言は、王宮の公衆の面前で確定した形となった。
後には、ざわめく人々の声だけが残る——。
王太子と令嬢、それぞれの思惑
大広間での一件がひと段落すると、レティシアは王宮を出る準備を進めていた。もはや、王太子妃になるための行事に出席する意味もない。彼女は手近な侍女たちを連れ、あらかじめ用意していた馬車に乗るべく王宮の廊下を歩いている。
「レティシア様……本当に、婚約破棄をこんなにあっさり受け入れられるのですか?」
侯爵家から仕えている侍女の一人が、思わず震えた声で問いかける。彼女もまた長くレティシアに仕えてきた人物であり、幼い頃からともに行動してきた親しい存在でもあった。
レティシアは「そうですね」と一つ息をつき、微笑みを浮かべたまま答える。
「私にとっては、とても好都合な話ですわ。殿下の御覚悟も確認できましたし、何より私が自由になれる。こんなに嬉しいことはありませんでしょう?」
その言葉を聞き、侍女たちは安堵しつつも驚きを隠せない。普通なら令嬢として王太子との婚約が破談になったら大問題だ。周囲からの同情や噂話に悩まされ、時には一族の恥だなどと責められる可能性もある。
けれど、レティシアの場合はリュミエール侯爵家という揺るぎない地位を持ち、かつ国王からも深い信頼を得ている当主の娘だ。そう簡単に周囲から蔑まれることはないだろう。むしろ、今後は「どこか別の国の王子が求婚してくるのでは?」といった形で、新たな縁談の噂が飛び交うかもしれない。
廊下を歩く彼女の足取りは実に軽やかで、まるで鬱陶しい重荷から解放されたかのようだ。それを眺めていた侍女たちも、次第に「レティシア様なら、この非常事態をしっかり乗り越えられる」と確信し始める。
やがて中庭へと出る大きな扉をくぐると、暖かな風がふわりと彼女の長い髪をなびかせる。そこには、美しい馬車が待機していた。車体にはリュミエール家の紋章が刻まれており、御者も礼儀正しく帽子を取ってレティシアに挨拶をする。
「お待ちしておりました、レティシア様。すぐにお屋敷へお戻りになりますか?」
「ええ、そうしていただけるかしら。今日の予定はすべて取り消しですものね」
そう言って、レティシアはすらりとした動作で馬車に乗り込む。侍女たちも続いて馬車に乗った。こうして、一行はリュミエール侯爵邸へと帰路につくのであった。
一方、その頃の王太子アルバートとリリィはどうしていたか。
広間を後にしたアルバートは、リリィを伴って自分の執務室へと戻っていた。もっとも、王太子と言えども若干十八歳という若年。執務室とは名ばかりで、実際には書類仕事の多くを父王の側近たちが行っているため、まだ彼には大して責任ある仕事が与えられてはいなかった。
しかし、その執務室で彼はリリィと二人きりになり、「婚約破棄」を堂々とやり遂げた直後の開放感に浸っていたのだ。
「リリィ、これで堂々とお前を隣におけるな。レティシアとの婚約も解消した。俺はお前を愛しているし、お前こそ俺の運命の相手だ」
アルバートは椅子に腰かけながら、リリィの手を取って言う。リリィは頬を赤らめ、目を潤ませながら嬉しそうにうなずいた。
「はい……わたくしなんかが殿下のお側にいて、本当にいいんでしょうか。わたくし、まだまだ礼儀作法も覚束ないですし、周りの人に認めてもらえるか……」
「そんなもの、俺が認めてやれば十分だ。周りの奴らなど気にするな。いずれ皆、お前の魅力に気づくさ」
リリィは感激のあまり、アルバートの手の甲にそっと唇を寄せる。二人はすっかり愛に酔いしれ、先ほどのレティシアとのやり取りなど忘れたかのようだ。
だが——。
アルバートの脳裏には、先ほどのレティシアの微笑みがこびりついて離れない。
(……あいつ、あんなにあっさり引き下がるとは思わなかったな。もっと取り乱すと思っていたのに。まるで、どうぞご自由にと言わんばかりだった)
何か腑に落ちない。そう感じてはいるが、彼はそれを深く考えようとはしなかった。考えてしまえば「自分が何か見落としているのでは?」という恐れが芽生えてしまうからだ。
愛しのリリィと結ばれるという夢が今まさに叶おうとしている。ならば、余計な雑念は捨てればいい。アルバートはそう自分に言い聞かせた。
冷静なる令嬢の帰還
リュミエール侯爵家は、王都の中心部から少し離れた場所に広大な敷地を有している。その邸宅は歴史を感じさせる重厚感がありながらも、手入れの行き届いた庭園が美しく、まさに高貴な雰囲気を漂わせていた。
馬車が邸内に入ると、玄関前には執事やメイド長など、家を預かる面々がすでにずらりと並んでレティシアを出迎えている。一行が馬車を降りると、執事のグレイアムが一歩前へ進み、恭しく頭を下げた。
「お帰りなさいませ、レティシア様。本日は王宮の方へ行かれるとのことでしたが、早いお戻りですね。何かございましたか?」
レティシアは微笑んだまま、声のトーンを抑えめに答える。
「ええ、少々事情がありまして……。大したことではありませんよ。いずれ父と話し合う必要がありそうですが、今はまだ何も言わなくて結構ですわ」
執事のグレイアムはレティシアの些細な表情の変化を見逃さない。彼は長年リュミエール家に仕えており、まだ幼い頃のレティシアの世話をしていた時期もある。レティシアが何かを隠そうとしたとき、あるいは大事にならないよう取り繕うときの顔つきだということをすぐに察した。
しかしながら、当主である侯爵が今は屋敷におらず、王宮の執務に呼ばれている最中だ。事が事だけに、一刻も早く報告すべきかどうかを迷いつつ、グレイアムは侍女の一人に目で合図を送り、何かあった場合の迅速な対応を求める態度を示した。
一方のレティシアは、侍女たちを伴いながら館内を進み、自室へと戻っていく。大きな扉を開くと、そこには優美な調度品や、色とりどりの花で飾られたテーブル、そしてうっとりするような香りが漂う部屋が広がっていた。
「すぐにお茶を用意いたしますね、レティシア様」
「お願いするわ。ゆっくりとしたい気分なの」
レティシアはふう、と静かに息を吐き出した。まるでずっと緊張の糸を張っていたかのように、その吐息には微かな疲労が混じっている。とはいえ、先ほど王宮で見せたあの堂々たる態度に比べて、ほんの少し気が抜けたようにも見える。
やがて、侍女がさっとティーセットを用意すると、香り高い紅茶が白磁のカップに注がれた。レティシアはそれを一口含み、ほっとしたように微笑む。
「……やっと、解放されましたわね」
何気ない独り言のように呟かれたその言葉に、侍女たちは複雑な表情を浮かべる。しかし、ある一人の侍女——幼少期からレティシアに仕えている者が、おずおずと口を開いた。
「レティシア様……婚約破棄は、本当にこれでよかったのですか? リリィという平民の娘が殿下に取り入ったという噂は聞いていましたけれど、本当に殿下はあの子を愛しているのでしょうか」
レティシアはカップを置き、椅子に深く腰掛けながら静かに答える。
「殿下の真意が何であれ、私たちはもう関係のないことですわ。リリィさんが本当に愛されているのか、それとも別の打算があるのか……。私が気にする必要など、どこにもございませんわ」
その言葉には、嘲りや怒りといった感情は含まれない。むしろ透き通るような無関心にも近いものだった。そして、彼女の冷静な瞳には、まるで次なる行動を考えているかのような光が宿っている。
レティシアはさらに続けた。
「私はこの国の政治や外交に携わるため、ずっと努力してきました。そうして得た知識や人脈は、別に王太子妃になるためだけのものではありません。リュミエール家の名誉を守り、場合によっては父の手助けをして国に貢献する——。それは、私がこれからも続けることですわ」
婚約破棄によって周囲の目がどう変わろうとも、彼女の本質は揺るがない。貴族としての責任と誇り、そして自らの意思がある。王太子妃という肩書がなくとも、レティシアはレティシアであり続けるのだ。
侍女たちはその決意を感じ取り、表情を和らげながら頭を下げる。
「……私どもも、レティシア様にこれからもお仕えいたします」
「ええ、よろしくお願いしますわ。私も皆さんの助けが必要ですもの」
レティシアはそう言って、再び微笑みながら紅茶を口に運ぶ。
噂と波紋
さて、レティシアのもとに王太子アルバートからの婚約破棄が通告されたという話は、瞬く間に王都全体に広がっていった。
「リュミエール侯爵家の令嬢が婚約破棄されたらしい」
「しかも、相手は平民の女を愛しているとか……」
「まさか、王太子殿下があろうことか貴族の令嬢を捨てるなんて」
こうした噂は貴族の屋敷から平民の居住区に至るまで、一気に人々の口の端に上るようになる。中には面白おかしく話を盛り上げる者もいれば、「王太子は正気か」と眉をひそめる者も多かった。
そして、リュミエール侯爵家の当主にも、当然この報せは届いた。国王と面会していた侯爵は、その場で急ぎ宮廷を後にし、愛娘レティシアのもとへ戻ろうとしたが、国王から「慌てるな。これは王太子の独断だ。私も詳しい話を聞くから、お主も落ち着いて対応するように」と止められたらしい。
リュミエール侯爵本人は娘を溺愛している面もあり、今回の件は看過できない問題であると憤慨していた。しかし、同時に王宮内でのパワーバランスを崩すわけにもいかず、しばし沈黙を保つしかなかったのだ。
いずれにせよ、これから先の展開は波乱含みになるだろうことは誰の目にも明らかだった。何しろ、レティシアの存在は王宮の要とも言える。彼女が担当していた仕事の一部は、貴族や官僚たちからも「彼女でなければ務まらない」とまで言われているものもあった。たとえば貴族たちの利害調整、隣国との外交文書の草案、さらには社交界の行事の企画運営など、多岐にわたっている。
実際、レティシアはその美貌だけではなく、卓越した知識と判断力を持ち合わせている。幼い頃から様々な学術書に親しみ、多言語を習得し、父である侯爵の政治を間近で学んできた結果だ。
だからこそ、王太子アルバートがレティシアを退けることは、その恩恵を失うことと同義なのである。今はまだ、アルバート自身はそこまで深く考えてはいないようだが、いずれ痛感する時が来るだろう——そう噂する者たちも少なくなかった。
隔てられた二人の行く末
王太子アルバートは、リリィを伴って正式に「王太子妃候補」として迎え入れる手続きを進め始めた。宮廷の一部の者たちは、平民出身の娘がそんな急な格上げを受けるのかと困惑するが、アルバートは頑固に自分の意思を通そうとする。
「これは俺が選んだことだ。父上が何と言おうと、リリィを愛している。この愛を否定されるいわれはない!」
その情熱的な態度がもとで、家臣たちは大いに振り回される結果となった。宮廷内の行事においても、リリィを紹介するために早々にパーティーなどを企画してはどうか、とアルバートは考えているようで、その調整は一筋縄ではいかないだろう。リリィ自身、礼儀作法の訓練などをほとんど受けておらず、王太子妃候補として振る舞えるだけの下地が整っているとは思えない。
だが、アルバートはそんな周囲の苦言に耳を貸さず、リリィの粗相を「可愛らしい失敗」と笑って許し、その失敗を責める者たちに対しては「古い貴族の慣習に囚われすぎだ」と罵声を浴びせる。
まるで何かに取り憑かれたかのように、彼はリリィを甘やかし、強引にでも地位を上げようとする。それがかえって反発を招き、宮廷や社交界の空気を険悪にしていることに、当のアルバートは気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか。
一方のレティシアは、侯爵家に戻ったあとも淡々と日常を送っていた。家の用事や書類仕事に追われながらも、時折優雅にティータイムを楽しむ。そんな彼女の姿を見て、屋敷の使用人たちは口々に言う。
「レティシア様が普段通りなので、かえって安心しました」
「まるで何も変わっていないかのような、いつも通りのお姿です」
けれども、彼女が何事もなく受け止めているわけではない。心の奥底には、複雑な思いが渦巻いているかもしれない。しかし、それを表に出すことは決してない。実際、レティシアの瞳にはどこか冷厳な光が宿っており、「私の真価を思い知らせてあげますわ」と静かに決意しているかのようにも見える。
婚約破棄は、彼女にとって人生の大きな転換点ではあるものの、取り乱すような性格ではない。むしろ、これを機に新たな展開を見据えているようだった。
夜の来訪者
その日の夜遅く。レティシアが執務机に向かい、書類の整理をしているところへ、ノックの音が響く。
「失礼いたします。こんな遅い時間に申し訳ございませんが、外にお客様が——」
侍女が扉を開け、消え入りそうな声で告げる。珍しいこともあるものだ、と思いながら、レティシアは手にしていた羽根ペンを置いて立ち上がった。
「こんな夜更けに……どなたかしら? 父ではないのね?」
「はい、侯爵様ではなく……。王宮の方からいらした馬車のようです。詳しいことは私どもにも……」
どうやら突然、宮廷からの使者が来たらしい。レティシアは日頃の習慣でドレスを整え、身嗜みを正す。いくら夜中とはいえ、相手が宮廷関係者ならば失礼のないようにせねばならない。
案内された客人は、王宮の官吏を名乗る青年だった。黒髪を短く整え、シンプルな礼服を着ている。緊張の面持ちでレティシアを見ると、深く一礼する。
「夜分遅くに申し訳ございません。私は王宮に仕える官吏のカイルと申します。実は、王太子殿下が……レティシア様に一度お話を伺いたいとのことで……」
レティシアはわずかに眉をひそめた。
「王太子殿下が? 私にどのような用件でしょう。婚約は解消したはずですが」
「は、はい。それは重々承知しておりますが……。最近、殿下が新たに打ち出された方針について、周囲が猛反対しており、緊急の協議が開かれることになりました。そこで、レティシア様の知見をお借りしたいと……」
王太子殿下の新たな方針。それが何であるか、レティシアは推測するに難くない。おそらくリリィを正式な王太子妃候補として迎え入れるための政令を出したか、あるいは平民のための改革案と称して急進的な政策を持ち出したか。いずれにせよ、現状を無視して独善的に突き進もうとしているのだろう。
「なるほど。ですが、私と殿下はもはや何の関係もございませんわ」
「承知しております。ですが、殿下や宮廷の方々は、レティシア様の助言がなければまとまらないと……。どうかお力添えをお願いしたいのです」
カイルの声には切実さが滲んでいた。恐らく彼自身も王宮内の混乱に巻き込まれ、右往左往しているのだろう。アルバートがレティシアを手放したことによる弊害が、早くも出始めているようだった。
しかし、レティシアは微かに笑みを浮かべる。
「光栄なお話ですね。私に協力を求めるほど、王宮は困っているのですね?」
「……はい。大変申し上げにくいのですが……今まではレティシア様がまとめていた案件が滞っていて、殿下が署名すべき書類も山積みなのです。それらの対応を殿下や周囲が試みるのですが、なかなか進まず……。皆、レティシア様のお知恵を必要としております」
相手は必死だ。夜更けにもかかわらず、こうして直接訪ねてきたことがその証明でもある。
一方、レティシアは内心で、やはりという思いと、ほんの少しの優越感を感じていた。かといって、それを表に出すほど下品ではない。むしろ、冷ややかに口元を引き結び、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私は、この国に災いが降りかかることを望んではおりません。王太子殿下が私に何をしたとしても、この国に恩を返すことはリュミエール家の責務ですから。お力添えできることがあれば、検討しましょう」
「ありがとうございます……! それでは、近日中に開かれる協議に、ぜひご出席を——」
「ただし。これはあくまで私個人の行いとしてです。もう“王太子妃”という立場ではありませんから、当然、私に相応の扱いをしていただく必要はありませんわね?」
その問いかけに、カイルは一瞬だけ戸惑った。もともとレティシアは王太子妃候補として召されていたため、宮廷内では最上級の扱いを受けてきた。しかし今や婚約は破棄され、その立場は消滅している。もし出席するとしても、いったいどのような形で招けばよいのか。
「そ、それは……私にはわかりません。ただ、殿下の相談役という形でご参加いただくのが最も円滑かと……」
「そうですか。まあ、そちらで判断してくださいませ。私としては、国のことを想って動くのみです」
そう言って、レティシアはにっこりと微笑む。しかし、その笑みにはどこか冷ややかな輝きが宿っているようだった。かつての「王太子妃候補」であった立場を捨て、今後は「リュミエール侯爵家の令嬢」として己の力を示す。たとえ公式の肩書がなくとも、彼女の周囲には動かしがたい信頼や実績が存在するのだ。
そして、今後アルバートがどのような失態を犯そうとも、レティシアは自分の進むべき道を見失わないだろう。むしろ、王宮の混乱と共に、その存在感はさらに増していくに違いない。
「ざまあ」の序章
こうして、王太子アルバートによる婚約破棄は、周囲にさまざまな波紋を投げかけながら幕を開けた。
レティシアは表向きには何も動揺した様子を見せず、むしろ自由を得たかのように穏やかに振る舞っている。一方、アルバートとリリィは愛を謳歌しているつもりだが、その背後では宮廷の仕事が滞り、人々の不満が高まっている。
王太子とその愛人となる平民娘の行く末は果たしてどうなるのか。そして、レティシアは何を思い、どのように動いていくのか。
今はまだ誰もが胸に不安や疑念を抱えながら、しかし目を逸らすことのできない事態として捉えている。まさに、国の今後を左右する大きな変革の始まりのように。
レティシアが最後にあの大広間で微笑んだとき、彼女の瞳には静かな決意が映っていた。
「さようなら、王太子殿下。あなたの好きになさればいいわ。もっとも、後になって私の価値を思い知っても、もう遅いでしょうけれど——」
誰に向けたとも知れぬその想いは、まさにこれから始まる「ざまあ」の幕開けを暗示しているかのようだった。