東京の朝。
山手線の電車は、いつも通りの混雑ぶりだった。
近藤弘一、三十五歳。
どこにでもいるような某中堅企業のサラリーマンは、今まさに人波に押しつぶされそうになっていた。
しわくちゃのスーツが汗ばんだ体にぴったりと張りつき、曲がったネクタイが喉元を締めつける。
額には細かな汗がにじみ、呼吸すらままならない。
彼は必死に吊り革を握り、揺れる車内でなんとか体勢を保とうとする。
だが、背後からの押し合いが容赦なく続き、思わず顔をしかめた。
「くそっ、また遅刻かよ……」
小さくつぶやきながら時計に視線をやり、内心で毒づいた。
その時だった。
突然、電車が急ブレーキをかけた。
「うわっ!」
近藤はバランスを崩し、前方に倒れ込んだ。
顔面が真正面の人物の背中に激しくぶつかる。
鼻先をくすぐったのは、ふわりと漂う上品な香水の香り。
そして、その奥に感じるのは、上質な布地の滑らかな感触だった。
「す、すみませんっ!」
慌てて顔を上げて謝る。だが――その瞬間、体が硬直した。
そこにいたのは、九条琉璃。
直属の上司であり、社内では“冷徹の麗人部長”の異名を持つ、社内で畏れられる存在だった。
黒のスーツをきりっと着こなし、シュッとしたラインが雰囲気をさらに引き立てていた。
髪はきちんとまとめられ、美しく露出したうなじにさえ隙がない。
冷ややかな瞳、きゅっと引き締められた赤い唇――全身から近寄りがたいオーラが立ちのぼっている。
微動だにせず、九条は冷たい眼差しで弘一を刺していた。
遠慮も取り繕いもなく、視線にははっきりとした“嫌悪”がにじんでいた。
「近藤」
低く、氷のように冷たい声が降りかかる。
「手……どこに置いてるの?」
一瞬、思考が止まった。
だが次の刹那、弘一は右手が彼女の腰に触れているのを知り、血が一気に顔へと駆け上がるのを感じた。
しかも、その位置、その形――どう見ても“その気がある”ようなポーズだった。
「ち、違うんです!これは誤解で!電車が混んでて……!」
必死の弁明が口をついて出た、その瞬間。
「パシン!」
乾いた音が、車内に鋭く響き渡った。
一瞬にして空気が張り詰め、周囲の乗客たちの視線が一斉にこちらへ向けられる。
ひそひそと囁き合う者、露骨に軽蔑の目を向ける者――視線のすべてが、近藤を断罪していた。
「痴漢」
その一言だけを、九条琉璃は冷たく吐き捨てた。
表情は変えぬまま、彼女はくるりと踵を返し、何事もなかったかのように隣の車両へと歩み去っていく。
ヒールの硬い音が床に鳴り響き、その一歩ごとに近藤の『社会的死亡』が刻まれていくかのようだった。
近藤は顔を押さえた。火照る頬には痛みが残り、脳の奥で鈍い音が鳴り続けている。
「終わった……完全に終わった……」
そんな絶望の中、不意にポケットのスマートフォンが震えた。
半ば反射的に取り出すと、画面にはLINEの通知が届いていた。
「お兄ちゃん!今日は小雪菜の成人式だよ!
夜は絶対にパーティー来てね!(*≧▽≦)」
あどけなさが残るメッセージの差出人は――雪菜。
隣に住む幼なじみで、昔から妹のように接してきた少女だ。今日がちょうど二十歳の誕生日。記念すべき成人の日。
「ああ……すっかり忘れてた……」
弘一は自嘲気味に笑いながら、「OK」のスタンプを返した。
だがその内心は、ますます苦しむ一方だった。
人前でビンタされ、痴漢のレッテルを貼られ――そのうえ、若者たちのパーティーに笑顔で顔を出さねばならないなど、これ以上の辱めがあるだろうか。
「今日という日は……最悪だ……」
呟きとともに送信ボタンを押した、そのときだった。
「ピロリン!」
頭の奥に、機械音が響いた。
『羞恥ゲージシステム、起動。』
『現在の羞恥ゲージ:50(九条琉璃・ビンタ+30、雪菜・パーティー参加+20)』
『使用可能スキル:読心術(1分/50ポイント)』
弘一は、スマホの画面ではなく、自分の脳内に直接響いたその声に呆然とする。
「……は?」