結婚式の夜、弘一は酔いつぶれた妻を抱え、北海道の山間に佇む小さな木造の山小屋へ帰ってきた。
琉璃のウェディングドレスの裾には草の切れ端が絡みつき、髪に飾っていたリンゴの花は、道中のどこかで落としてしまったらしい。
「……降ろしなさいよ」
彼女はくぐもった声で呟きながら、つま先の尖ったヒールで玄関の縁を蹴飛ばした。
弘一は苦笑しつつ、彼女をそっとベッドに横たえ、タオルを取りに振り返る。
だが、その腕がふいに引き戻された。
「これで終わり、だと思った?」
琉璃の目が、まるで別人のように鋭く冴えている。
酔いなど、演技だったかのようだ。
そして、彼女の手には——かつて地下格闘場で使われた、鋲付きのレザー製の首輪が握られていた。
「今夜はちょっとスリルを味わわせてあげるわ」
紅く塗られた唇が、挑発するように吊り上がる。
「“新婚の夜 バージョン”、新システムよ」
ごくり。
弘一の喉が音を立てて動く。
「な、なんだって……?」
琉璃が取り出したスマートフォンの画面に、見覚えのあるインターフェースが浮かび上がる。
──『新婚の夜 恥辱値システム』
──『羞恥ゲージ:0』
──『交換項目:妻の隠された顔・開放(500ポイント必要)』
「ちょ、ちょっと待てよ! これ……いつ作ったんだよ!?」
「あなたが農業企画で徹夜してたあの夜よ」
指先が、彼の鎖骨をなぞる。
「さあ、跪いて」
──ピロリン。
『恥辱ポイント+50(新婚の夜に命令された)』
躊躇いながらも片膝をついたその瞬間、琉璃は枕の下から、一本のネクタイを取り出した。
それは、弘一が成人式で身につけていた、あの黒のネクタイだった。
「知ってる? 私、あなたが恥ずかしがってた小道具、ぜーんぶ取っておいたのよ」
──ピロリン。ピロリン。
『恥辱ポイント+100(黒歴史の再来)』
『特殊実績:妻の復讐——解放』
だが次の瞬間、弘一の瞳が鋭く光り、彼は一気に体勢を反転させて、琉璃の上に馬乗りになった。
「なあ、琉璃。一つ、言い忘れてた」
彼はその耳たぶを優しく噛みながら囁く。
「今の俺はな……」
——ガタン。
枕元に置かれていた「農業功労賞」のトロフィーが、音を立てて倒れカーペットの上に転がった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、散らばったネクタイと首輪をそっと照らしていた。
「……もう、システムになんて頼ってないんだ」
──【本当の物語、ここに完結】
番外編
マルディブの透き通るような海と空に包まれながら、弘一はサングラスをかけたままビーチチェアにだらりと体を預けていた。
手にしているスムージーは、もうほとんどが水っぽくなっていた。
その視線の先、太陽の下でしなやかにポーズを取る琉璃の肢体が、水上ヨガの動きに合わせてきらきらと輝いている。
日差しを浴びたその肌は艶やかだった。
「お客様、こちらココナッツジュースでございます」
声に顔を上げると、ウェイターがドリンクを差し出していた。
ストローは二本。一方はありふれたプラスチック、もう一方はなぜかピンク色のハート型。
突っ込むべきか、見なかったことにすべきか、弘一が迷った瞬間——
スマートフォンがぶるりと震えた。
メッセージの送り主は雪菜だった。
「お兄ちゃん!ちょっと早く帰国しちゃった!サプライズだよ〜(^▽^)」
添付された写真には、別荘の玄関に立つ彼女の姿。
手にはしっかりと、家の鍵が握られている。
「……っ!」
手にしていたスムージーが、砂浜に「ぽとり」と音を立てて落ちた。
(まさか……“あの箱”、置きっぱなしじゃないよな……!?)
——ピロリン!
【最大レベルの羞恥イベントを検出】
【予測される恥辱値:∞】
そのとき、ふとした影が彼の頭上を覆った。
「……どうしたの? 顔、真っ青だけど?」
琉璃の声。
弘一は無言のままスマホを彼女の方へ向けて見せた。
画面を覗き込んだ彼女の目が、まるでレーザーのように細く鋭くなる。
静寂が訪れ——そして。
「帰りの航空券変更して。今すぐ、帰るわよ」
バスタオルを素早く巻きつけ、琉璃は立ち上がる。
「ま、待ってくれ!」
弘一は慌ててその腕を掴む。
「雪菜ももう成人してるし……見たって別に大したことじゃ……」
言いかけた彼に、琉璃はにっこりと微笑みかけた。
その笑みは、南国の太陽よりも冷たかった。
「ねえ、あなた。寝室のチェスト、三段目に何があるか覚えてる?」
言われた瞬間、弘一の脳裏を過ったのは、あの黒い手帳。
『新婚夜特別企画』
そこには、これまでの恥辱値のすべてが細かく記されていた。達成状況、実行記録、証拠写真つきで——。
「あのノート……!」
「豪華装丁、加筆修正版。クラウドにもちゃんとバックアップ済みよ」
言い終えると同時に、琉璃はすでに航空会社への発信を開始していた。
そして十分後、水上飛行機が南の海を飛び立つ頃——
弘一はただ、徐々に遠ざかるコバルトブルーの海原を見つめながら、心の底から思った。
(……この羞恥をめぐる生活、たぶん一生終わらない)
【番外編・完】