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練/剣
練/剣
日下部匡俊
異世界ファンタジーダークファンタジー
2025年07月18日
公開日
1.9万字
連載中
 大陸(アハーン)の東、フラバルと呼ばれる国の南部アダカの郷に生まれた渾(ホン)は、鉄の巨人兵〈操兵〉と魔道の遣い手〈練法師〉との戦いに巻き込まれる。  そこで特別な才能を見出され、練法師の下生(かぜい)として育てられることになったホン。呪縛を受け、自らの境遇に疑問を持つことさえなかったが、ある事件をきっかけに、状況は大きく動き始めるのだった。  後に大陸全体の命運を握る、偉大なる西の王誕生へと至るまでを描く物語、ここに堂々の開幕!

#01

 それは痩身の女だった。

 寸間リット(一リットは約四センチメートル)のだけ宙に浮かびながら、霞を吹きつけたようにくうに白く溶けている。

 顔は、見えなかった。

 と、薄い面紗で覆われたかに見えるそのおもて

 両の眼のあるあたりに、すうっと細く糸のような筋が走る。

 ゆっくりと見開かれたそれの奥にあったものは、漆黒の深淵であった。

 眼が黒いのではない。

 その向こうに広がるのは、茫漠たる虚空、とでも言おうか。

 ただそれのみだった。

 薄黒いこの玄室が、真夏の陽光の下にあるとさえ思わせる。

 それほどの黒だった。

 椎の実ほどの大きさしか持たぬふたつの眼は、大海をも圧する黒い空虚を湛えていた。

 ありとあらゆる存在を拒絶する、圧倒的な虚無。

 いったんそこに踏み込めば、いかに確固たる姿形を持つものであろうとも、千々に引き裂かれ、存在の根幹から抹消される。

 あれの向こうにあるのは、そういうものだった。

 悲鳴をあげて逃げ出さない自分が驚きですらあった。

 底知れぬ恐怖がある。

 それは確かだった。

 だが、なぜだかホンは、ひどく醒めた視線で目の前のものを見つめていた。


 強くあらねばならなかった。

 強くなければ、生きることが許されない。

 それが、ホンを取り巻く世界の理だった。

 なされねばならぬことは全てなす。

 たとえ、それがどれほど薄汚れたことであろうとも。

 そうやって生きてきた。

 こうして術師の徒弟となり、屈従を強いられる日々を送ってきたのもその理に従ったゆえの結果である。

 だが、それにも終わりが訪れたようだった。

 白いそれが、まっすぐこちらを見た。

「そうか、おれの番か」

 不思議に落ち着いた心で、ホンは立ち上がった。

 女の全身から迸った白が、あたりを埋め尽くしていく。

 その向こうに、無窮の深淵が口を開こうとしていた。



   1



 手籠かなにか借りてくるのだった。

 市場の外へ出たホンが最初に漏らした感想がそれだった。

 今日はことのほか、雇い主のブ・サンの機嫌がよかったらしい。

 余り物の根菜や魚の干物、大袋に詰まった白豆を胸元に抱えながら、ちびのホンは家路を急いでいた。

 すべてブ・サンが寄越したものだった。

 普段なら舌も出さない強突く張りが、なんとも珍しいこともあるものだ。

「この調子じゃ、明日には天地がひっくり返っているんじゃないか?」

 ホンは苦笑まじりにつぶやいた。

 まあ、なんにせよ悪くない。これで、しばらくぶりに母ときょうだいたちを腹いっぱいにしてやれるだろう。

 ありていに言って、ホンの家は貧しかった。

 父親はホンが十歳の頃にいなくなっていた。理由ははっきりしなかったが、おそらく生きてはいないだろう。

 ちょうどその頃、蟲や獣たちがこのあたり一帯を通り過ぎていったことがあったからだ。

 姿を消したのは父親だけではない。市場で働いていた人足の類が、両手に余る人数姿を消している。そのうちの何人かは食い散らかされた姿で見つかっていたから、むしろ見つかっていなくてよかったとすら言われたほどだった。

 父親を失ったせいもあって、母親はそれ以来病で臥せりがちになっている。

 弟ふたりはまだ幼かったし、妹はそのふたりの面倒を見るために働きに出られなかったから、いきおい家族の稼ぎはホンが一手に担っていた。

 父親のつながりですぐに雇ってはもらえたものの、当時数えで十歳のホンにすれば、市場の仕事は過酷と言ってよかった。

 その扱いに、ホンは自分たちがいかに貧しく、文句を言えない立場にあるか思い知らされたものだった。

 とにかく、馘にされないためになんでもやった。

 使い走りに始まって、荷の積み下ろしや在庫整理の力仕事、果ては汚物の処理、果ては商売敵の隊商への妨害まで、ありとあらゆる嫌われ仕事がホンに押し付けられた。

 何度かは死にかけたこともある。

 それでも、文句を言わずホンは耐え続けた。

 その暮らしが四年である。

 重労働の日々にもかかわらず、腕も足もちっとも太くならなかったし、身体はがりがりに痩せたままだった。背もほとんど伸びていない。

 かわりに、貧相な身体でも力仕事をこなせる要領のよさだけは身についたが。

 大の男たちが十人がかりで一日かかる作業を、たったひとり半日で終わらせたときのブ・サンたちの顔ときたらなかった。

「まあ、やつらの頭が悪いだけだけどな」

 ホンはむっつりとそう言うと、小さく飛び跳ねて抱えた荷物の位置を直そうとした。

 剥き出しの腕に、発疹のような鳥肌が走った。

「なんだ?」

 額から汗が吹き出す。怖気と圧力が同時に押し寄せた感覚に、ホンは思わず膝をついていた。

 恐怖心に打ち克って、ホンは顔を上げ、その方向を見た。

 簡素な灰色の外衣を身につけた人影がひとつ、佇んでいた。

「これは驚いた」

 ひどくしわがれた声だった。深々と被った頭巾フードのせいで顔は見えないが、背はホンと同じかそれよりも低いほど。わずかに前屈みの姿勢で、じっとこちらをうかがっている様子だった。

「わたしが見えているのか?」

 ホンはなにも答えず、ただ目を瞬いた。少なくともホンの目には、その人影は実体あるものとして映っていた。

「ふむ、これは面白い」

 外衣の前が割れて、中から小振りの腕が突き出される。皺ひとつない子供のような掌が持ち上げられ、ホンに向けられようとしたその刹那。

 頭巾を被った頭がさっと別の方を向く。

「どうやら、おまえをどうするかは後回しのようだ」

 ホンは目を剥いた。

 なにかが、来る。

 重い、とてつもなく重いものが、ありえない速さでこちらに向かってくる。

 外衣の人影が小さく身をかがめたと思ったその瞬間、ホンは足元から突き上げるような衝撃に、思わず声を上げていた。腕の中の包みが踊る。

「うわっ!」

 転ばないのがやっとだった。両足でなんとか踏ん張り、そのなにかが向かってくる方に顔を向けようとしたその時。

 はるかに大きな衝撃がホンを襲った。

 地面そのものに弾かれたように身体が宙を舞い、解けた包みを放り出しながら、ホンは地面に叩きつけられた。それに遅れて、芋や豆が周囲にばらばらと音を立てて落ちる。

「あ……う」

 後ろ手に背中をさすりながら身を起こす。その目の前には、巨大な、見上げるほどの巨大な武者像が広げた両足を地面にめり込ませながら立っていた。

 しゅうっと鎧の継ぎ目のあたりから、激しく湯気を吐き出しながら。

『逃しはせんぞ』

 割れ鐘のように声を発したのは、その巨人の武者だった。

 先細りの鉢に似た兜を被った頭をまっすぐ例の人影に向け、ぎろりと両の眼で睨みつける。

「はは、さすがは音に聞こえしウオル・タイガン。小細工など通用せぬか」

 外衣の人影はそう応じながら、突き出した両の手の指先を素早く絡み合わせた。

 ばん!

 空気の弾ける激しい音と共に、いくつもの閃光が巨人に向けて飛ぶ。

 とっさに耳を塞いだが、無駄だった。こういった類のは、耳で聞いているわけではなかったから。

 ホンは、物心ついた時から、ある種の音と光に囲まれて生きてきた。

 他の人間には見えも聞こえもしないらしい。

 どうやら、それが生き物の生命力に関係するらしいことに気づいたのは、それなりに長じてからのことである。

 小虫はごくごく小さな、ほとんどささやきと言ってもいいほどの音しかたてなかった。

 人間や獣たちは、その身の大きさや体調に応じた音や光を発した。小虫の類に比べれば大声ヽヽだったが、やはり目や耳を塞がなければならないほどのものではなかった。

 それらが健やかな時は音や光も穏やかで、病んでいる時には濁りが感じられた。不快な時は耳障りな響きやぎらついた光が混じり、断末魔に喘ぐ生き物からは、苦痛そのものが音や光の形をとって放たれた。

 だが、いままで、ホンがこうして苦悶するほどの音を放つ存在はなかった。

「……なんだ、あいつら……は」

 涙で霞む視界の向こうで、武人姿の巨人がさらに激しく蒸気を吹き出しながら、身を低く構えを取るのが見えた。

 そのさまを呆然と見やるホンは、一瞬の間ののち、叩きつけてきた衝撃に思い切り叩きのめされていた。

「う……!」

 呼吸ができない。

 ホンは声も上げられず、首もとを押さえながら膝から崩れ落ちた。

 例の人影の放った無数の輝きが、あらゆる方向から巨人に向かって襲い掛かったのは、まさにその刹那だった。

 目も眩む輝きが、轟音とともに巨人を包み込んだ。

「む」

 そうひとつ唸るや、外衣を纏った人影が、滑るように宙に舞い上がるのが見えた。

 一瞬遅れて、そこに巨大な剣が叩きつけられる。ホンはその刀身を直視することができなかった。目も眩むような輝きを放っていたからである。

 爆発と炎に包まれたと思われた巨人は、それを突き破りながらホンのすぐ目の前に飛び出していた。

 一瞬、巨人はホンにちらと目をやったが、すぐに空中の人影に視線を戻し、手にした大剣を振り上げてその後を追う。

 はるか上空に逃れた相手に、巨人が輝きを灯した剣を振るった。と、その切先から、剣のまとった力が刃のような形をとってまっすぐ飛翔していく。

 人影の浮かんでいたあたりで、閃光が走った。

 先刻に負けぬ衝撃が叩きつけてきた。だが、ホンの感覚はすでに麻痺し始めているらしく、頭が割れそうなほどの騒音と、胃の腑を突き上げるような吐き気を除けば、それ以上の苦痛は襲ってこなかった。

 むかつきを堪え、肩で息をしながらようやく身を起こす。

 巨人は、薄く煙が漂う以外なにもない空中をじっと見上げていた。

『くそ、逃したか……』

 低くそう呟いて、巨人はきりりと剣を回して左腰の巨大な鞘におさめた。あれだけの巨大さにもかかわらず、鞘に滑り込む刃はわずかにも音をたてなかった。

 そういえば、あれほどまでに巨人から発せられていた音が、一切聞こえなくなっていた。意識を集中すればささやき程度には聞こえてくるが、小さな畜獣かそれ以下の存在感しかない。

 突然、巨人がホンに向き直った。

『何者だ?』

 ホンは、ぽかんと見上げることしかできなかった。

 巨人は品定めでもするようにじっとホンを見下ろしていたが、ややあって言った。

『どうやら、〈プラーナ〉の才があるようだ。見えるのだろう?』

 気? 聞きなれない言葉に、ホンはわずかに眉をひそめることしかできなかった。

『その様子では、相当にあてられたようだな。よくぞ耐えられたものだ』

 ホンの顔や衣服が、涙や涎でぐしゃぐしゃになっていることに気づいたのだろう。巨人の声音に気遣う響きがあった。

『それで、名は?』

 ホンははっとわれに返ると、頭を擦り付けて平伏した。

「……アダカのホンと申します」

 それだけを口にするのが精一杯だった。

 そもそもホンには、目の前の巨人武者が何者かわからなかった。こんなに大きな人間がこの世にいるとは。

 まさか神ではないだろうが、ホンのような人間には計り知れない存在であることに間違いはなかった。

『ホンか。覚えておこう。もし、おまえにその気があるなら、北都のオレインコでこのわたし、ウオル家のタイガンを訪ねるがよい』

 ホンは目を見開いて顔を上げた。

 オレインコと言ったか? それはたしか、このフラバルの国の都ではなかったか。話に聞いたことがあるだけで、生涯そんなところに行くことなどないと考えていた場所である。

「タイガンさま、ですか?」

『そうだ。その才がもし本物なら、そのように貧しい暮らしから抜けられるやもしれぬ』

 ホンは困惑した。

「ですが、わたしには家族がおります。わたしの稼ぎがなければ、家族は暮らしが立ちません」

 タイガンと名乗った巨人は歪んだ声で笑った。

『その才は、どの国でも必要としているものだ。認められれば、家族が何十人であろうとも養っていけるほどの俸禄が手に入るだろう』

「そ……それは本当のことでしょうか?」

 ホンは思わず身を乗り出していた。

『待て』

 巨人の右腕が背に回った。そうして、なにかをつまみ取り、ふたたびその腕がホンの目の前に差し出される。

 巨人は指先を開き、手の中のものをホンの目の前に落とした。

『それを持って行くがよい。身の証となろう』

 短剣だった。見たこともない、美しい鞘に収められている。柄は合わせ目のない磨かれた美しい木でできていて、柄頭に被せた金色の金具には小さな紋章が刻まれていた。

 それがどれほどの価値を持つものか、ホンにもひと目でわかる。

 ホンはごくりと唾を飲み込みながら、ふたたび巨人を見た。

『門番にそれを見せれば、たとえわたしが不在でもおまえを粗略に扱うことはないだろう……いや、できればこのままおまえを伴って戻りたいものだが、そうもいかぬ』

 言いざま、巨人は斜め後ろを振り返り、低く唸るような声をたてた。

『いたな、ダハンめ。この〈ヤグ・アキフセ・ン〉の目を逃れられると思うな』

 それだけ言い残すと、巨人はホンに背を向け、駆け出そうとするように大きく身をたわませた。

「あ、あの!」

 その背中に向かって、ホンは叫んだ。

「オレインコの都には、あなたのような巨人がたくさんいらっしゃるのですか?」

 巨人が、がくんと姿勢を崩したように見えた。

『〈操兵リュード〉を見るのは初めてか?』

 巨人の背中、ちょうど肩の間あたりにある大きな板が開かれ、中から小柄な人影が姿を見せる。

「これは人を乗せて戦うからくり人形だ。名をヤグ・アキフセ・ン」

 澄んだ美しい声が響いた。無骨な革の上下に身を包んではいたが、その声の主はどう見てもホンとおなじほどの背丈の少女だった。

「さらばだ、オレインコで待っているぞ」

 少女はそれだけ言い残し、素早く操兵の背中に姿を消す。ふたたびホンを吹き飛ばしそうなが轟いたかと思うと、次の瞬間、一陣の風を残してヤグ・アキフセ・ンの姿はどこにも見えなくなっていた。

 ホンは、たったいままで巨人——操兵がいた場所を呆然と見やった。

 どうやら加減してくれたらしい。

 あの操兵が姿を消す直前、その中には先刻よりさらに強大な力が溜められていたはずだった。まともに解放されていれば、ホンはただでは済まなかっただろう。

「いったい……いまのは」

 呟きながら、ホンは手の中の短剣に目を落とした。

 これを売れば、どれほどの金額になるか。そんな考えだけが頭の中を回っていた。

 気の才? 都での暮らし? そんなことはどうでもよかった。ただ、明日の食べ物を心配しなくていい。そんな暮らしが手に入りさえすれば。

 ホンの眼が見開かれた。

 背後に突然出現した気配に反応して振り返るのと、それが声を発するのはまったくの同時だった。

「フラバル・チョザンカ南方面騎士団筆頭、ウオル・タイガン……と言ってもおまえにはわかるまいが」

 ひどく嗄れた声だった。

 そこに立っていたのは、ついいましがた、あの操兵と戦っていた外衣を身につけた人影だった。

「それにつけても素晴らしいぞ。生まれついての才か」

 ホンは短剣を懐に隠しながら、じりじりと後ずさった。

「あのタイガンの乗るアキフセ・ンさえ謀ったわたしの隠形を、こうもやすやすと気取るとは……世の中のなんと広いことか」

 その時だった。さあっと風が吹き渡り、相手の深く被っていた頭巾が一瞬はためいていた。

 その下からのぞいたのは、仮面、だった。

 一度、祭りの時に芸人が顔に被って踊るのを見たことがある。転がっていた木皿を彫って真似をしたことがあったが、なぜだか親にひどく怒られ、捨てさせられた記憶があった。

 当時はわからなかったが、いまはその理由がわかるような気がする。

 目の前の人物の姿は、不吉をそのまま形にしたかのようだった。

 被っている仮面そのものは、焼き物か、あるいは石を彫ったものか、無表情な人の顔を写し取っただけのものだった。彩色すらされておらず、形も卵の殻のようにつるりとした単純なものである。

 にもかかわらず、ホンにはその仮面の放つ雰囲気がとてつもなく恐ろしかった。

「ほう、恐れを抱くか。これは本当に運に恵まれたようだ」

 外衣の合わせ目の間から、細く、白い手が伸びる。

 それを目にしたとたん、ホンの本能が悲鳴をあげた。仮面の人影に背を向け、あらん限りの速さで駆け出そうとする。

 だが。

 行く手に佇む人影に、ホンはたたらを踏んだ。

「どうした。逃げるのではないのか?」

 いまや頭巾を跳ねのけ、仮面をつけた顔を隠そうともしない相手が、まっすぐホンを見返している。

「な、なにを——」

 気圧され、ホンは思わず身を引いた。その目の前に、仮面の人影が身を乗り出してくる。

「タイガンの言った通り、おまえの持つその才は広く求められているものだ。われわれヽヽヽヽもまた、その例外ではない」

 ホンの視界を塞ぐように、広げた掌が突き出される。その指先にぼんやりと灯る光を目にして、ホンは押し殺した悲鳴を上げた。ほとんど反射的に、懐に隠していた短剣を鞘から引き抜き、闇雲に切りつける。

 音を立てて外衣が裂けた。のみならず、鋭い刃はその下にあった衣服も浅く切り裂いていた。

 斜めに切り開かれた外衣と上着の間から見えたのは、畜獣の乳を思わせる純白の肌と、そして控えめに盛り上がったふたつの胸だった。

「なにを驚いている?」

 動かないはずの仮面が、にやりとなったように見えた。

 と、その仮面に手がかかる。すうっと外されたその下にあったのは、切れ長の目をした年端もいかない少女の顔だった。

「そんな、こいつ子供――」

 ホンはその言葉を、最後まで口にすることができなかった。

 するりと伸びた掌が顔を覆う。とたん、ホンの意識は、闇の底へと引きずり込まれていった。



   2



 ホンが目を覚ましたのは、籐で編まれた寝台の上だった。

「——はっ!」

 薄暗い中、思わず身を起こし、震える身体で荒く息を吐く。腰のあたりにかかっていた、地厚の掛け布が滑り落ちた。

 ホンはぼんやりとそれを見下ろしていたが、やがてのろのろと身を乗り出すとつかんで引き上げようとした。

 力が入らなかった。さして重くもないだろう掛け布が持ち上げられない。

 そうこうするうち、天地の感覚がひっくり返った。音を立てて硬い床の上に背中から転がる。

 しばらくそのまま梁の横切る屋根裏を見上げてから、ホンはゆっくり身体を起こした。

 片膝を立て、それを抱えるように身体を支えながら辺りを見回す。

 空の寝台が三つ四隅に置かれている以外、部屋にはなにも見当たらなかった。

 次第に意識が明瞭になってくる。

 同時に、それまでぼんやりとしか感じていなかった肩と背中の違和感が、突然苦痛となって襲いかかってきた。

 ホンは顔を顰めて背中を丸め、うめき声をあげる。

「くそ……いったいなにが」

「ふむ」

 まったく気配を感じなかった。

 目を見開き、顔を上げて声の方向に首をねじ曲げる。

 途端、稲妻のように走った痛みに表情を歪めながら、ホンは戸口のあたりに立つ外衣の人影を見た。

「思ったよりも早かった。身体が頑健なのは好ましいことだ」

 ホンが短剣で切りつけた娘ではなかった。

 そもそも体格が違う。痩身ではあったが、頭ひとつかそれ以上背が高かった。

 声もいささかかさついてはいるが、あの異様に嗄れたそれではない。

 やはり深く被った頭巾のせいで、その奥の顔は見えなかった。

 こいつも、あの娘のように仮面をつけているのだろうか。

「あ、あんたは?」

 頭巾がかすかに傾げられる。

撫嵐ブランだ。なるほど、那范ダハンの言う通りのようだ。しかとはわからぬが、確かに面白げな才がある」

 才、才、才。会う人間ごとに同じことばかり。あの仮面の娘といい、巨人——操兵に乗っていた女も然り。

 ホンは内心うんざりしながら、こう尋ねた。

「教えてくれ。おれにどんな才があるっていうんだ。虫や蜥蜴の息遣いが聞こえるってだけで、他になにも——」

 ブランは首を傾げたままその言葉を聞いていたが、ややあってこう答えた。

「虫や蜥蜴だけならば。おまえはこれからさまざまなことを学ぶが、それの一部でも身につけることができれば、その才はおまえをおおいに助けることだろう」

「学ぶ?」

 ブランは大袈裟とも言える動きで大きく頷いた。

「いかにも。おまえは学ばねばならない」

 ホンは痛みを無視して、胸をそらすように立ち上がった。

「学ばねばならない? 別に望んでここにきたわけじゃない。おれには面倒見なきゃならない家族がいるんだ、帰らなくちゃ」

「ふむ。好きにすればいい、それが可能なら」

 ブランはそう言って半身を引き、扉の外へ差し招いた。

 ホンは怪訝な顔でブランを見遣ってから、おそるおそるその脇を通り抜けた。

 部屋の外は長い廊下だった。内と外を仕切る壁はなく、簾が巻き上げてある。

 廊下の外は、白砂の敷かれた庭園になっていた。雑草ひとつ見当たらず、数短距リート(一リートは約四メートル)向こうの塀まではなにもない。

 塀の高さはホンが腕を伸ばせば上に届く程度だった。作りも隙間だらけで、たやすく乗り越えられそうに思える。

 あたりをうかがってから、ホンは廊下の縁から外へ飛び降りた。

 見た目より白砂の目は粗く、砂利に近い感触だった。それを裸足で踏みしめながら、ホンは塀に向かって駆け出した。

 ほんの数歩で塀にたどり着く。勢いをつけて飛び上がり、手をかけたと思った途端、ホンは寝台のある部屋の中に戻っていた。

「どうした?」

 背後に立つブランが小首を傾げる。

 ホンは驚きに目を見開いた。そうして身を翻し、ブランを押しのけて再び廊下に出る。慎重に見回すが、少なくとも先刻と変わるところはないように思えた。

 ホンはひとつ深く息をつき、勢いをつけて外へ飛び出した。砂を強く蹴り、今度は数歩で塀の前にたどり着く。

 そこでホンは足を止めた。

 違和感がある。先刻は必死さが勝って気づかなかったが。

 ホンは振り返ってブランを見た。

「ほう、気づいたか。これはまこと、ダハンの言う通りのようだ」

 戸口から差し込む光を背に、ブランが立っていた。

 ホンが立っていたのは、またも寝室の中だった。

「これは、どういう……」

「それを知りたくば学ぶことだ。学びを究められれば、われらを出し抜いて好きにすることもできるかもしれないぞ」

 ブランが低く笑う。

 ホンは言葉を失った。

 外に出て庭を横切り、塀に取り付いたと思った瞬間、部屋の中に戻されている。

 いったい何が起きているのか。

 ただ、確信はあった。

 これには、何か奇しい術が絡んでいるのだろう。

 あの仮面の娘が、操兵と術で戦っていた光景を目の前にしたのだ。あれに類する何かがここで使われていないはずがない。

「さて、一緒に来る気になったかね?」

 ブランがそう言って廊下の外に出る。ホンはその背中をじっと睨みつけたが、諦めたようにため息をつくと、それについて部屋を出た。

 黙って従うしかない。

 それがひどく業腹だったが、いまそれを晴らす時ではないことはわかっていた。


 長い廊下の端は渡り廊下につながっていて、その向こうには大きな建物があった。

 見たこともない造りだった。

 建物を支える無数の柱は太く、まっすぐな木を滑らかに磨き上げたもので、継ぎのない一本の梁が、その端から端まで渡されていた。

 それらの端々には緻密な装飾が彫り込まれ、彩色されていて、建物全体が巨大な美しい細工物のようですらあった。

「ここだ」

 ブランは言って、渡り廊下を端に寄って振り返った。

「中に入れ。おまえたちの世話役が待っている」

「たち?」

 ホンの言葉は無視され、ブランはただ頭巾を小さく傾げて見せた。

 中に入ると意味がわかった。

 そこには、ホンと似た年恰好の連中が四人、円座を敷いて座っていた。

 一番身体の大きな少年が、不機嫌顔でちらとこちらを見た。

 残りの連中も眉を顰めて振り返る。

 その視線にきまり悪げな思いをしながら、ホンは一番手前に置かれた円座の上に腰を下ろした。

「揃ったようだな」

 その声に顔をあげる。信じられないほど広い板張りの広間の真ん中に、見覚えのある人影が立っていた。

 彼女は頭巾をかぶっていなかった。だが、例の仮面はつけたままだった。

「わたしはバラハン。おまえたちの世話役を言いつかった」

「世話役?」

 そう声を上げたのはホンだった。

 バラハンは仮面のまままっすぐホンを見返した。

 その視線に射すくめられた瞬間、ホンは思わずうつむく。あの時、外衣の裂け目からのぞいた裸身が、残像のように目の前にちらついていた。

 バラハンはなにも言わず、ただじっとホンを眺めていたが、ややあってふたたび全員に向かって続けた。

「ここで生きていく保証はしよう。見返りに、おまえたちはわれらの課す務めを果たさなければならない」

「別におれは、おまえたちに面倒を見てもらおうとは思ってない」

 ホンが言う。

「ここに望んで来たわけでもない。家族はおれを待っている。帰らなければならない」

 ふたたびバラハンの返した視線は、どこか面白がるような光を帯びていた。

「ならばそれでもよい。務めを果たさねば見返りもない。それだけのことだ」

 言いながら、バラハンは残りの四人を見下ろした。

「おまえたちもだ。やつとおなじ考えなら、好きにするがいい。家に戻っても責めはすまい」

「そ、それだけはご勘弁を!」

 例の大柄な少年が、這いつくばるように頭を下げる。

「おれたちには戻るところなんかありません。どうぞ、お見捨てにならないでください」

 その声は哀れなまでに震え、ひび割れていた。

「帰ってもまた売られるか、山奥に捨てられるかだけです。どうかここに置いてやってください、お願いします!」

 その言葉に、近くで呆然としていた残りの子供たちも、額を擦り付け平伏する。お願いします、と口々に懇願しながら。

 ホンはただそのさまを見ているしかなかった。


 当然ながら、ホンはその後すぐに出された食事に手をつけなかった。

 ひどい空腹だったが、ああやって啖呵を切った以上、世話を受けるような真似はできない。そもそも、相手もそれとわかってやっているに違いなかった。

「食べないの?」

 フラハという名前の少女が、期待に目を輝かせながらホンを見てくる。

 ホンはため息が漏れそうになるのをこらえて、食事の載った盆をフラハの前に推しやった。

 盆を抱えるように猛然と食べ始めるフラハに気づいて、他の人間もわっと群がっていく。

 いたたまれなくなって、ホンは広間を出た。

 中にいた時から感じられた違和感が、より強くなった。

 見られている、とでも言おうか。

 どうしてそんなことを感じるのかはわからない。もしかしたら、これもあの操兵に乗っていたタイガンや、バラハンの言う「才」なのだろうか。

「くそっ、面倒くさい」

 よく考えれば、ここでこうしていること自体、その才とやらのせいではないか。

 なにより、早く戻らなければ。ここがどこなのか、あの時からどのくらいの時間が過ぎているのかまるでわからなかったが、いまこうしている間も家族は困っているだろう。

 とりあえず妹が数日はもたせてくれるかもしれないが、それにも限界があるだろう。

「とにかく、ここから出る方法を考えなくちゃな」

 バラハンにしろブランにしろ、どうしても信用することができなかった。やつらの使う術や、ここへ連れてこられた経緯もあるが、気を許すなと本能が叫んでいた。

 こんな状況だ、方便で頭を下げるという手もある。

 だが、なぜだか、それをすれば二度とここから逃れられなくなるという直感があった。

 つまらない矜持など持ち合わせていない。必要なら、地面を這いつくばって相手の足だって舐めてやる。

 しかし、そうではないのだ。

 人である以上、最低限守られなければならないなにか。それを踏みにじって平然としている。あの連中は、そんな空気をまとっている気がした。

 周囲に人影はなかった。見られている感覚は続いている。

 先刻は、庭を横切ろうとして元の場所に戻されていた。

 いま試してもおなじことだろう。おそらく、どこかで回れ右するようになっているのだ。元の場所に戻るまで、塀に向かっているつもりだったということは、やつらの術で幻かなにかを見せられているに違いない。

 とすれば、目の前の白砂が、じつは底なしの泥沼だったとしても不思議ではないわけだ。

「見た目通りとは限らないってことか」

 ホンは目を閉じて意識を集中した。

 では、例の生き物の音も、錯覚させられているのだろうか。

 壁ひとつ向こうの四人の存在は、確かに感じることができた。まだ食べている。争奪戦にあぶれたオリオとかいう一番小柄ながきが、不満を募らせているのが聞こえるヽヽヽヽ

 今度は渡り廊下の向こうに意識を向ける。

 あの寝部屋のあった建物には、意外に多くの人間がいるようだった。息を殺すのが習い性になっているのか、物音はほとんど聞こえないが、彼らは動き回り、仕事かなにかをこなしているように感じられた。

 さすがにバラハンやブランの気配は聞こえなかった。それらしい感触はあるが、はっきりと感知させるほどの音は放っていない。

 ホンは集中をやめ、ふうっと息をついた。

「これは信じてもいいかもしれない」

 意図してこの力に頼るように仕向けられている可能性もあったが、いま、これ以外に役に立ちそうなものはなかった。

 ホンは白砂の向こうに意識を向けた。

 違和感があるのは少し先だった。いくつか異質な雰囲気を放っている場所がある。

 意識を凝らすと、白砂の間に小石ほどの大きさのなにかが落ちているのがわかった。そこから、異質な空気が薄膜のように広がっている。

「たぶん、あれか」

 その薄膜は庭の向こう半分を覆っていた。あれに触れず、塀の向こうに行くのは不可能に思われる。

 ホンは縁側に腰掛けて、庭を見つめてじっと考えこんだ。

「飛び越えるのは無理か……吹いて吹き飛ぶものじゃないだろうし」

 庭をそよそよと風が吹き抜けているが、薄膜が揺らぐ気配もない。おそらく普通のものではないのだ、あれは。

 なおも様子をうかがっていると、薄膜が少しこちらに広がっているように感じられた。

 気のせいではなかった。ごくゆっくりとではあったが、ほの白い湯気のように表面をたゆたせながら、その領域が範囲を広げている。

 ホンは立ち上がり、縁側を一歩退いた。とたん、薄膜の速度が跳ね上がった。

 こちらを狙っていることは明らかだった。背後に逃げ込める出入り口の類はなく、廊下を逃げても距離を詰められるだけである。

 無意味とわかりながら、ホンは息を詰め、背後の壁にへばりつく。湯気のような薄膜はすでに縁を乗り越えて大きく盛り上がり、生き物のように押し寄せてきた。

「くそ!」

 触れられてたまるか。

 その思いが全身を駆け巡った。凄まじいが頭蓋に響き渡る。

 何の音かとあたりを見回してから、ホンはそれが自分の発しているものだと気づいた。

 薄膜がホンを取り囲んだ。

 目を見開くホンは、しかし、ほんのわずかの隙間を置いて、湯気のような薄膜が押し留められていることに気がついた。

「こ……これは」

 激しく息をつきながら、ホンはその光景を驚きとともに見つめていた。

「これは驚いた。本当に驚いた」

 声が聞こえた。

 たったいままで、気配のかけらもなかった場所にバラハンが立っていた。素顔だった。

「おまえがそこまで〈プラーナ〉を使いこなすとは。これは見込んだ以上だったようだ」

 気? 気とはなにか。

 ホンは何も言わず、ただ困惑してバラハンを見返す。

「そうか、おまえは自分の才について、本当に何も知らないというわけか。まあいい。いずれにせよ、その才に真に目覚められては面倒になる。手懐けてからと思ったが、早々に縛りを課しておこう」

 バラハンがまっすぐ近づいてきた。同時に、ざあっと音をたてて――それはホンだけに聞こえるものだったが――薄膜が引いていく。

「名は何という?」

 唐突な問いに、ホンは思わず答えてしまった。

ホン……アダカ郷のホン」

 バラハンの目がすうっと細められる。

「渾とはまた。大河アグの器か……名は体を表すとはいうが」

 そう呟くように言って、バラハンは光を帯びた右手を差し出した。

「だが、おまえを自由にはしらすわけにはいかぬ」

 ホンは首をひねってその手を逃れようとしたが、バラハンの眼に見据えられると全身を強い力で押さえつけられたような感覚に襲われた。

「おまえの名を改めよう。これより渾沌ホンロンを名乗れ。この名はおまえに力を与えるだろう。そのかわりに、この名を与えた者の言葉に従うことになる」

 顔をバラハンの手のひらに覆われ、同時にばちっと弾ける感覚が走った。

 その衝撃に大きく頭を後ろに傾がせ、ホン――ホンロンは、呆然とその場に立ち尽くす。

「戻って食事を摂れ。替わりは用意してある」

 バラハンがするりと顔を撫でる仕草をする。手のひらが通り過ぎると、そこには灰色の仮面が出現していた。


 戻った広間の中央には、真新しい膳がひとつ据えられていた。

 他の連中がそれをじっと見つめているが、今度は譲る気にならなかった。

 自我は失っていない。

 バラハンの言う縛りがいかなるものか、はっきりとはわからなかった。あの女への反抗心は消えていないし、ここから逃げ出す方法について考えることにも抵抗はない。

 ただ、ひとつだけホンロンヽヽヽヽには気がかりがあった。

 生まれた時から慣れ親しんだこの名前に、奇妙な違和感があるのだ。

 もそもそと粥を頬張りながら、ホンロンはその理由を考えた。

 いくら考えてもその理由に思い至らないので、ホンロンは別のことに注意を向けることにした。

 なんといっても、これからこなさなければならない課業の数だ。

 バラハン師によれば、実技と座学で朝から晩まで休む間もないという。

 そのことを思うとなんとも気が重かった。



   3



 どれほどの時が過ぎただろうか。

 この〈緋の三者〉で下生かぜいとして過ごすようになって長くなる。

 五人の下生たちの中で二番目にちびだったホンロンは、少しだけ背が伸びて、骨と皮だけだった身体もそれなりの厚みが出始めていた。

 身体は多少大きくなったものの、身軽さではケルスオにも負けていない自負がある。組み打ちなら体格が倍近いカルボルとも互角にやりあえたし、歩法ならパーサン師に負けなかった。

 一度など、建物の周囲にある小径を巡る歩法の教練で、パーサン師を追い越してからさらに追いついたこともある。あの時のパーサンの不快げな声には胸がすく思いだった。

 基礎的な教練は、月がふた巡りするほどの間続いた。

 この辺りから、課業の内容は次第に難度を増していった。

 例えば歩法。導師が指定する歩法に次々切り替えながら、それをほぼ休憩なしで丸一日続ける。それまでは、歩法の巧みさや速さだけを問われていたものが、体力や判断力も重視されるようになっていた。

 座学では、聖刻語と呼ばれる複雑で難解な言葉の習得が求められ、いくつもの非常に長い文章の暗唱を完璧にこなさなければならなかった。

 それまで、型や理論の習得におさまっていた武術、体術の教練も、その内容が一変していた。

 特に武術のそれは、殺し合いと言っていいものだった。選べる得物は鋭利な刃付きか、振り回すのも難渋する鈍器、木棍など。どれも容易く人を殺められるものばかりである。

 それで真剣勝負を強要される。

 いや、強要という言葉は不適当かもしれない。

 勝てば導師の賞賛を受けられる。

 そして、敗者は徹底して無視されるのだ。

 逆を言えば、それだけだった。

 それ以外にはなんの罰もなく、勝者への報酬もない。

 だが、それが、下生たちを殺し合い同然の戦いに駆り立てている。

 ホンロン自身、導師の言葉を得るためだけに、仲間に殺意すら抱いている自分に気づいて慄然とした。

 にもかかわらず、五人は誰ひとり脱落しなかった。

 理由は単純だった。

 深い傷を負ったとたん、療法の術師たちがあらわれて、たちまちのうちに治療を施してしまったからである。

 何度致命傷を負っても、そのたびに下生たちはその場で回復させられ、武術の教練を続けるのだった。

 体術でも似たようなものだった。

 落ちれば無事では済まない岩場を、道具を使わず登り降りさせられたかと思えば、当たれば骨の砕けそうな礫をかわす難行を強いられる。

 それでも五人の下生たちは、進んで教練を続けた。

 導師の歓心を得るため。

 ただそれだけのために。

 そのままなら、ホンロンもその流れの中に呑み込まれていただろう。

 ある日の武術教練のこと。

 カルボルの振りかぶった大槌が頭上に迫った。

「でえい!」

 鈍重な大男の攻撃である。

 ホンロンならば、余裕でかわせる一撃だった。

 だが、その時に限って、ホンロンが踏み出した先に、小石がひとつ転がっていたのだった。

 小石は、最悪の形でホンロンの足もとを掬う結果となった。

 踏み下ろした足の裏に潜り込んだ小石は、ころのように、ホンロンの足をさらに数寸間余計に滑らせていたのである。

 転倒を防ぐので精一杯だった。

 いや、むしろ転んでいた方がましだったかもしれない。

 結果的に動きを止めることになったホンロンの真上から、優に十双重グレン(約十二キログラム。一グレンは約一・二キログラム)はあろうかという戦槌がもろに降ってきたのである。

「!」

 万能に思える療法師たちにも、無理なことがある。

 頭を潰された人間は治療できない。いや、肉体そのものは修復できるかもしれないが、もはやそれはただ息をして鼓動を打つだけの肉人形にすぎなくなる。

 ホンロンは確実な死を意識しながら、それでもとっさに左腕を掲げた。

 自分の喉が、ひどく奇妙な音を立てる。

 奇妙な笛のような。

 あるいは、化鳥のたてる奇怪な啼声にも聞こえるような。

 同時に、腹の底に湧き上がった熱いなにかが、潮のように体内を巡り、左腕に注ぎ込まれるのがわかった。

 刹那、重い鋼の弾ける金属音と、全身をばらばらにされるような衝撃がホンロンを襲う。

 気がつくと、目の前には、眼を文字通りまんまるに見開いたカルボルが、砕けた棒を手に呆然と立っていた。

 掲げた腕にはまだ感覚があり、そもそも、血の一滴もこぼれてはいなかった。

 痛みがないと言えば嘘になる。だが、腕がちぎれ飛んだそれには遠く及ばない——療法師に腕を繋いでもらったのはついこの間のことだった——ものだった。

 足もとになにか塊が転がっていることに気づいて、ホンロンはそこに視線を向けた。

 砕けた鉄塊が大小の破片になって転がっている。

 形からして、それはどうやら戦槌の頭だったもののようだった。

 やはり驚きに目を見開いて、ホンロンは自分の左腕を見上げる。

 袖はずたずただったが、腕そのものは無事だった。埃か何かで黒ずんではいるが。

「く、砕けた?」

 カルボルが裏返った間抜け声でそう言った。

「砕けた?」

 見下ろすホンロンの目の前で、戦槌の破片はぼんやりと、しかしはっきりとした輝きを放っていた。

 その輝きとともに、ホンロンはいままで霞んでいた自分の視界が、さっと晴れ渡っていくように感じた。

 いや、それは正しくない。霞んでいたことに気づいていなかったと言うべきだろう。

 いまだに、ホンロンの目の前にはぼんやりとした紗幕が下げられているかのようだった。

 少なくとも、いまはそれがわかった。


 驚くべきことに、その日は一日なんの課業も予定されていなかった。

 かわりに朝から広間に呼び出された五人は、それぞれの目の前に置かれた三宝の上にある小さな貴石を見下ろしていた。

「それが〈石〉だ」

 バラハンがいつもの嗄れ声で言った。

「それを自分のものとできれば、晴れて下生より正生しょうじょうとなる」

 正生とは、緋の三者における最下位の階梯名である。もっとも、実質は使い走りに近い身分だったが。

「ほう」

 バラハンは、凝固したように動かないカルボルを見た。

「カルボルは、見込んだ通り石との親和性が高いようだな」

 カルボルはその大きな背中を丸めるようにして、小指の先ほどの楕円形をしたそれをのぞきこんでいた。

 薄暗い部屋の中で、石はその表面に不思議な光をたゆたわせている。

 その光の照り返しを受けながら、魅入られたように石を見下ろすカルボルは、いままで見せたこともないような穏やかな表情を浮かべていた。

 バラハンはカルボルの前にかがみ込み、さっと三宝を取り上げる。

 かっと上げられたカルボルの顔は、それまでが嘘のように獣じみたものに変わっていた。

 咆哮にも似た声を上げて襲いかかる巨漢を、かざした手のひらだけで押し留めると、バラハンは短く言った。

「だが魅入られてはな」

 バラハンは、その手でカルボルの額を打った。とたん、雷が落ちたかのようなが鳴り響き、白目を剥いたカルボルは地響きをたてて巨体を転がらせた。

 顔を顰めて耳を覆ったホンロンは、他の下生たちがいまの音になんら反応していないことに気づいたが、なにも言わなかった。

 ただ、バラハンだけが興味深げにこちらを見ている。

「ホンロン、お前はどうだ」

 水を向けられ、ホンロンは自分の前の石に目を向けた。

 確かに、なにか誘うような光を放っているのはわかる。だが、意識を奪われるほどのものではなかった。

 再び顔をあげ、バラハンに向けてかぶりを振る。

「触れてみよ」

 ごく小さな光る石に指先を伸ばす。

 目もくらむ電光が指先に飛び、思わず手を引っ込めて導師の方を見やるが、バラハンは顎をしゃくるように促した。

 ふたたび差し出した指先が軽く触れると、刺々しい光を放っていた石は急に和らぎ、穏やかな色を脈動させ始めた。

「対立していては使いこなすことはできぬ。まずは石に自らを認めさせることが肝要」

 バラハンはそれだけ言うと、ホンロンの肩に手を置いて、隣のオルウラハに視線を向けた。

「次はおまえだ。石に触れてみよ」

 石に対する反応はさまざまだった。女であるオルウラハは、手に取った途端声も上げずに涙を流し始めたし、リカンバは目に見えた反応はなかったが触った直後、たっぷり数呼吸の間身動きしなくなっていた。

 興味深かったのはケルスオで、一瞬、全身からなにか草のようなものが生えたように見えたが、もちろん目の錯覚だった。あとで誰に聞いても、そんなふうに見えた人間はいなかったからである。

 もっとも、その後もケルスオは、近くにある固い蕾に手を触れただけで花開かせたり、足跡から蔓草が生えるなど、客観的にも明らかな異変を引き起こしていた。

 そしてその日から、五人はそれぞれに別の師がつくようになった。

 彼らがこれから学ぶ術はそれぞれに系統があって、石を得たことで明らかになった属性にあわせて学ぶべきことが変わるからである。

「〈練法ワード〉の八門を諳んじてみせよ」

 ホンロン専属の師はバラハンだった。彼女は結界の張られた狭い部屋で、仮面を取ったままホンロンに対していた。

「表が陽、金、火、そして木。裏が月、風、水、最後に土。表裏はこの順で対門の関係にあり、表を先、裏を後としてそれぞれの順で循環する流れにあります」

 最初の座学から、うんざりするほど繰り返させられてきた文言だった。

「おまえはこれから、自分の口から発したその言葉の意味を完璧に理解せねばならぬ」

「理解……ですか?」

「門の連なりは、万物の理を示す法だからだ。それさえ理解すれば、いかなる事物に直面しても、その成り立ちや対処の術について頭を悩ませる必要がなくなる」

 バラハンは柔らかな少女の声で、しかししかつめらしい表情を崩さずにそう言った。

「なぜなら、万物の原理こそ練法の術理であるから。八の門は、森羅万象悉くを八の領域に分かち、それに従ってまとめ上げられたもの」

 そこまで言って、バラハンはホンの目の前に置いてある光を帯びた石を指した。

「その〈聖刻石〉こそ、万物の原理を操るためのもの。おまえはこれより、石を通じてそれを識り、その根幹を操作する術よ」

「この石、ですか」

 ホンロンは、かすかに光を増す石をじっと見下ろした。

 バラハンは頷いて続ける。

「その石よ。それそのものは取るに足らないが、全ての礎となるものでもある。より高みを目指すには、その石を自在に支配し、操れなければな……さて、ではまずおまえがその石からいかなる領域の力を引き出すか、それを確かめねばならない」

 もっとも、ホンロンが実際に石を扱うためには、さらに数日が必要だった。石の性質と操作の基本的な知識を得るために、それだけの時間が必要だったのである。

「石は生きているものと思え。したがって、型通りに式を行使したとしても必ずしもおなじ反応があるとは言えない。術者が嵌まりやすい陥穽はまさにそれだ」

 光る石に手を翳しながら脂汗を浮かべるホンロンに、バラハンは静かにそう言った。

「いま、必要なことはおまえの門を明らかにすること。ケルスオのように、石を手にしただけで〈木〉の領域を引き出して見せる人間は稀だが、おまえのようにことここに至って確とせぬ者もなかなかに少ない」

 練法の修練に入るには、その人間がどの門に最も親和性を持つか確かめる必要があった。

 この数日、ホンロンはそれを確かめるための試しを行っているのだが、普通なら四半刻もあればすぐに判じるものが、これだけの時間をかけてもいっこうに明らかにならなかった。

「なにか見落としがあるように思える。苛立たしいのは、それが確とはわからないことだ」

 バラハンは静かな声でそう言った。

「石が直接答えずとも、おまえの中で声を発することもあるはず。なにか聞こえてはいないか」

 ホンロンは汗を浮かべながら、苦しげにかぶりを振った。

「わかりません。こうしていても、漠とした感覚しか戻ってこないのです」

 厳密に言えば、そうではなかった。石は語りかけるかわりに、明確にひとつの映像を見せていた。

 それは虚空に浮かぶ黒々とした月——のようなものだった。一の月よりも巨大で、天空の三分の一近くを覆い隠している。

 もちろん、そんなものは現実に存在しないのだが、こうして石と向き合っている時は、常にホンロンの脳裏にその光景が浮かんでいた。

 それがなにを意味するか、ホンロンにもわかる。

 ホンロンは〈月〉なのだ。

 だが、同時にそれはありえなかった。

 月の門の術使いは女のみ。その事実と理論は、座学の最初から叩き込まれている。

 月の術は、月に支配された肉体を持つ者――すなわち女性以外には親和性を持たないからである。

 翻ってホンロンは、どこをどうひっくり返しても男だった。

 原理的に、男が月門の術を使えないというわけではない。

 さまざまの制約に目を瞑れば、初歩の術ならば使えなくもないらしい。

 らしいというのは、ホンロン自身がその身で確かめたわけではなかったからである。

 ともあれ、それはあくまで他門の術使いが月門の術を使う場合だった。

 月の門そのものに男が属したことは、歴史上例がないという。

 もっとも。

 ホンロン自身はその事実を自身への挑戦と受け取っていた。

 ならば、史上初の男の月の使い手となればいい。

 以前から、導師たちの存在が不快だった。

 その歓心を求めてやまない衝動を感じながらも、絶対的な支配者然として振る舞うことへの苛立ち。まるで、すべての真理に通暁しているとでもいうかのような、あの物言い。冷ややかなあの目線。

 その導師たちをほんのわずかでも動揺させられるなら、ホンロンにとってこれ以上溜飲の下がることはない。

 バラハンはじっとそのホンロンの顔を見返していたが、無表情のまま小さく首を傾げる仕草を見せた。

「ならば仕方あるまい。おまえは門の定まらぬまま、役目につくことになるが」

「役目、でありますか?」

 バラハンは頷いた。

「ごく近いうちに、筆頭導師ダハンからご下命があるだろう。おまえたちは緋の三者の一員として、最初の勤めを果たすことになる」

 ダハンの名にホンロンははっとなった。

 声しか聞いたことはなかったが、あのブラン、そしてギョウキとともにこの緋の三者を支配する三人の高導師のひとりである。

 積極的に下生の間に混じって、指導や対話を行うことを好むブランとは異なり、ダハンの存在は神秘に包まれていた。

 とにかく、その姿を見た者がほぼいない。ブランやギョウキとは異なり、下生の前に出てきたことは一度もないと言ってよかった。

「最初の勤め、とは」

「それは知らされていない」

 バラハンは首を横に振った。

「だが、備えておかねばならない。いつ下命があっても、即座に応じることができるように」

「わかりました」

 ホンロンは拳を床につけ、深く頭を下げた。

 ダハンの声でホンロンたちが喚び出されたのは、その日の夕刻遅くのことだった。


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