暗いまどろみの中、誰かに呼ばれた気がして目を覚ました。
「ぅ…………」
重いまぶたを開いて最初に目に入ったのは、視界を覆う鉛色の空。
それでも目覚めたばかりの目には眩しくて、飛び込んで来た光に目を細める。
眼球に染み込んだ鉛色はそのまま頭の中まで染み込み、思考までも重くするようだった。
「……………………」
気だるい。何もやる気が起こらない。
体を動かすことなく、降りそうで降らない暗い空を眺めていた。
重たい身体は、視界を覆う鉛の雲に押し潰されているという錯覚を抱かせる。目覚めるなと言われているような気がした。
「…………………………………………」
しばらくそうしていると、じわじわと身体に感覚が戻ってくる。今まで感覚が麻痺していたことに、その時初めて気がついた。やがて、痺れに似た感覚が全身を巡り、巡った先から感覚が回復し、流れ込んでくる感覚情報は、鉛のようなまどろみに浸る怠け者を叩き起こした。
「——ブッ!? まず……鉄くさ……ぺッ、ペッ!」
味覚が戻るや否や、口内に広がる錆びた鉄の味に盛大にむせた。吐き出したツバはどこか茶色く、喉が新鮮な水を求めてヒリヒリする。肺の隅々まで錆びたのか、吐く息にすら味がする。
けど、むせたおかげで力が入った。
「よっ——とと!」
起き上がろうとすると、鉛のように思えた身体は思いのほか軽く、体はすんなりと命令を聞き入れた。
その拍子に何かが手に引っかかっていてよろけたが、ともかく起き上がれたならどうでもいいことだった。
高くなった視界には、人気のない村と大きな目な道が映っている。自然の中にぽつりと浮かぶような、閑散とした村の光景を前に、なんだか不思議な感覚を抱いていた。
とにかく、状況確認だろう。
「ここは……どこだ?」
辺りを見回しても、この場所には覚えがない。
目を引く村の中心まで伸びている大きな道も、やはり記憶にはなかった。
「こまった…………」
いつの間にか見知らぬ村にいる。
普通こういう時は、驚き、動揺するものだろう。だが、感じているのは僅かな戸惑いだけで、焦りの感情すら湧いてこない。どこか他人事で、実感がない。まるで夢の中にいるみたいな、そんな感覚。
「とりあえず人を探さないと……。でもなにを聞けばいいんだ? 村の名前……家……あれ?」
なにか……おかしい。
「オレって……あれ? ここ……オレの村? でも…………」
分からない。自分のことが分からない。
どこでなにをしていたのかだけじゃない。名前すら分からなかった。
思い出せないというよりも、知らないとい方がより今の感覚に近い。
心臓が冷たくなったような感覚が胸を覆い、記憶を探すほど底なしの闇が広がっていくような錯覚。闇の中でいくら踠いても、指先に引っかかるような記憶の断片すらも存在しなかった。
ここに至って、どうやら自分が記憶喪失というものらしいと知った。
「————やっぱり誰かに助けてもらわないとダメだ。なんにも覚えてない……」
それでも、やはり焦燥感は湧いてこない。
どこからこの余裕が出てくるのか、自分でも不思議なくらいだった。
今の言葉だって、実感のこもったものじゃない。こういうときは、こういう言葉を発するものだという気がしただけ。セリフを読んでいるような感覚のものだった。
けれどともかく、空っぽの自分には何かの方針が必要なのは間違いなかった。
「村の中心……あそこなら誰か——ん?」
なんとなく、本当になんとなく村の中心部へと足を踏み出した時、ピチャッと何かヌメリとしたものを足の裏に感じて、視線を落とす。
「————?」
いや、分かっているはずなのに、脳がそれを否定していた。頭の中の左右のバランスが崩れていく様な、不快な違和感。
そのキレイな色に、視線が吸い寄せられる。だが、
どこか……落ち着く、安らぐ色。
あまりにも唐突に現れた
遮断されていた情報は解放され、ソレは正しく視界に反映される。逃げ場のないほど正確に。
————
「——ッ!? ぅ゛、オ゛ェェエエッ!」
吐き気から膝をつく。すると余計にソレに近づいてしまい、臭いすら感じられた。
たった今踏んだ、赤茶色で、まだ湿り気を持った管状のそれはすぐとなりの死体の腹部から伸びて、まるでからかう様に足へと絡みついていた。
「エ゛ぇクッ……なんで?! なんだよこれッ!?」
脳が見せていた虚像が崩れ、辺りに血と汚物のむせかえる様な臭気がただよう。
……地獄の様な現実が現れた。
————死体、汚物、内臓、血溜まり……潰されたもの、斬られたもの、穿たれたもの、抉られたもの、もの、もの、もの、もの、もの……。
膝をついていた地面は、気づけば赤茶色のベタついた体液で汚れ、周囲の平家は扉がいびつに歪みその破片を散乱させていた。
惨殺と略奪の痕跡は大きな道を伝い、その先の村の中心部へと続いている。
ああ、目覚めたときに手に張り付いていたものが、今なら分かる……分かってしまう……!
アレは手だ! オレと変わらない大きさの死体が、なぜかオレの手を握ってた⁈ この、手を…………⁉︎⁉︎
「ハァ、ハァ……!」
目の奥が熱くなり、視界が紅く明滅する。
自分がこんな場所に寝ていて、一瞬でも死体の色に安らぎを感じていたという事実が、より一層胃を絞り上げた。
「なんでこんなところに……オレは、なんで——!?」
ぐしゃぐしゃな思考は暴走を続ける。
落ち着こうにも、すがるべき確かな記憶は一つもない。
ただただ混乱へと滑り落ちていく。
同じ思考をぐるぐると繰り返し、そして……また吐いた。吐くものも無いのに、それでも吐いた。涙を流しながら吐くことだけが、ただ一つできることだった。
————もう、限界だった。
「なっ⁉︎ てめえは……⁉︎」
「え?」
それはあまりにも唐突だった。
死体が転がるこの穢れた場所で、生きたニンゲンの声が聞けるなんて、誰が想像できる?
声のした方へと、自然と縋る思いで視線が向く。
————そして、オレの思考は固まった。
視線の先には男がいた。オレに声をかけたニンゲンに違いないその男は、おかしなモノを両手にぶら下げていた。
片方には剣だ。別に剣を携えていることはおかしくない。それが血に濡れた抜き身のものだろうと、ケモノでも捌いたかもしれないじゃないか。
だが、そんな想像をヤツの持っているもう一つのモノが否定する。アレはおかしい。アレがおかしいなら、剣もおかしいことになる。あまりにも……異常だ。
「それ……くび……だよな…………?」
ハジめて人に出したコエは、キンチョウとカラカラなノドのセイで、ヒドクしゃがれた不気味なオトだった。ニンゲンもドウカンだったのか、メを見開いて固まってイる。
「あんだけ刺したのになんで生きて……ヒッ! な、なにがおかしんだッ⁉︎ 笑ってんじゃねえぞ‼︎」
「エ?」
男は錯乱した様子で、よくわカらなイことをイッている。こっちはそれどころじゃナいのに。ハナシをキいて欲しい。
真っ赤ニナッテ……怒ってルンだろうカ。
「アカ……い?」
違う。シカイが紅い。男がアカイんじャない。
男をミてから、シカイは血が滲んだような紅に染まっていた。いつの間にか荒くなっているジブンの呼吸音ヲ、「うるさいなぁ」と他人事のヨウに聞イテイル。
それニ気づクと同時に、シカイにはさっきまで男がイタはずの場所に、紅い糸でデキたヒトガタの塊が立っていた。
ソレはリョウテで剣を持ち直シて、ブルブルと震えていテ、嗤ってしまウくらいに、おかシイ。
なんだかとテも、ノドが、カワいてキタ。
「ぅ……ぉあ、ぐ、おおおおおおっ‼︎‼︎」
紅いニンギョウが、滑稽な動きをしナガラ、バタバタとこっちにキてクレタ。だから、アソぶことにした。
「あ゛ッ……ブぷっ、か、……ぁえ?」
紅イ人形ノ紅い糸。ソレは見ていルダケで、手ニとるみタイに操れタ。
だかラ、ツブシタ。
人形のムネにあル、紅いカタマリを、握るように、何度も、何ドも。
「かヒュっ、ゲぁエぅ゛ッ⁈ やえ゛っ、あ゛ぁ゛ア゛あ゛ア゛……………………⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」
踊る おどル
人形は紅いアカを吐イテ、ビシャリと音を立てて、それキリうごカナくなった。
オレはノドがかわイて、タノシくて——
「ア゛ハハハ!」
————その首筋に、あるはずのない
首筋に牙が滑り込み、血の温かさが口内に広がる。鉄くさいその液体が喉を通るたび、身体中が歓喜に震え、全身の毛穴が開口する。視界はチカチカと明滅し、口内に広がった温もりは遂に全身を燃えるように巡っていった。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
「ハっ! …………あ、え……」
渇きが満たされると、身体を駆け巡っていた熱は徐々に鎮まり、思考を覆っていた赤い霧が少しずつ晴れていく。視界は本来の色を取り戻し、現実味のない寝起きのような感覚に眩暈がする。
意識がはっきりしてくると、オレは地面に座り込んでいた。なんだかさっきまでとくらべて体が軽い。ただ、口の中がジャリジャリするのが不快だった。まるで砂でも口に含んだみたいだ。
今のところ目覚めるたびに不快な味を感じている気がする。ただ、なんだか体にこびりついていた怠さは軽くなっていた。オレは寝ていたんだろうか? それで、体調が安定した?
結局、寝れば改善したということは、あの気だるさや不調は寝不足が理由だったんだろうか?
「ん——? これ…………」
ふと見ると、目の前には死体がある。
もう死体は見慣れていたが、その死体だけは他と違った特徴があった。
「干からびてる……?」
そう。その死体は水分を抜き取られたような、不気味な萎れ方をしているのだ。こんな死体は、さっきまでなかったはず……。
「なんだよ……これ……」
不気味なのは、死体だけじゃない。その
いやな……予感がした。
舐めとった痕跡は、地面に赤い血を塗り広げている。その無規則無秩序な舌運びから感じられるのは、狂った獣性だけ。そこには理性のカケラもない。
「ッ————」
急に、耳鳴りがし始める。それはまるで、オレから何かを必死に隠そうとするみたいで——
「これ……、オレ…………」
————それにも関わらず口内から響いてくるジャリジャリとした音は、まるでそんな努力を嘲笑うようだった。
この時点で、オレはソレに気付いてしまった。
「オレ……っ、うそだ! ちがう! オレはちがう‼︎」
必死に叫ぶ。バカなことを考えようとしている思考を、叫び声で必死に押し留める。
だけど、冷静な自分が囁いてきた。
オマエ、さっきよりコエがトオルじゃないか、と。
その囁きで気づいた。のどの渇きが、さっきよりずっとマシになっていることに……。
ジャリジャリ
カチカチ
ジャリジャリ
カチカチ
耳を塞いでも聞こえてくる音は、震えで打ち鳴らされる歯と、砂の音だった。血に湿った土の匂いが、吐く息を染めている。
体が熱い。視界を徐々に紅が侵食してくる。
知恵熱を何十倍にもした灼熱は今にも脳を焼きそうで、混乱はオレから正しい呼吸と冷静さを奪っていった。
「ハァッ、ハァッ——! も、もうやめなきゃ! おちつかないと、かんがえちゃ……グッ……ダメだ!」
致命的な予感を前に、咄嗟にそう口に出して目を閉じる。規則性を失った呼吸も無理やりに、首を絞めてでも止めた。
そうして呼吸が止まったら、目を閉じたまま空を見上げて、胸に手を当てる。落ち着こうとすると、自然とこの姿勢になっていた。
「フゥーーーーッ、フゥーー……、ふぅぅ~~~~……」
少しの間、そのままの姿勢で深呼吸を繰り返す。繰り返す度に、呼吸は規則性を取り戻す。
体の中で暴れていた熱は、吐く息に溶けて口から外へと出て行く。
辺りの音に集中すると、少し湿り気を帯びた涼しい風が、やさしく肌を冷ましていく。
その風の冷たさが、息を吸うたびに身体中へ巡り、赤熱した脳を冷却するようだった。
「……………………」
風の音しか聞こえない、静かで心地良い時間。
こうしている間は、異常な現実も歩みを止めて、追いかけてくるのをやめてくれるような……。
そんな妄想が、今はとても説得力を持っていた。
「…………」
それでも、何か違和感があった。
その違和感は、ナニカがないと告げている。あるはずのナニカがないと、警鐘を鳴らしている。けど、目覚めてからこっち、ないものだらけだったはずだ。記憶すらないのに、なにに今さら違和感を覚えているのか。
「————」
違和感は右手から。
視線を向けても、おかしなところはない。
ただ、病的なまでに白い手が胸に押し当てられているだけ。いくら集中しても、胸に触れている感覚以外、何も感じない……。
「————————ぁ」
なにも、かんじない。
あるべきものも かんじない 。
鼓動さえも かん じ な 。
「————————あ、ぁ」
————心臓は動イていナカった……。
「アァあアああぁアあアァああ————ッッッッ!?!?」
獣の様な、甲高い咆哮が響き渡る。
それは大気を振動させ、村中を駆け抜けた。
視界を紅が染め上げる中、理性は混乱と狂気に飲まれ、もはやここに理性の居場所はなくなっていた。
◇◇◇◇◇
ある少年が死体と共に目覚めた頃、村の中心部にある屋敷の中では、村を襲撃した盗賊たちがせわしなく走り回っていた。
廊下を走り回り、新しい部屋を見つけては家具という家具をひっくり返す。
何かに急かされる様に行われるその蛮行は、ひどく乱雑で余裕がない。探し物があるのであれば、もっと冷静になるべきなのだが、そんな冷静な助言をする者はここにはいなかった。男たちの顔には、焦燥感と汗が張り付いていた。
「いつまでかかってんだアっ!!!!」
何度目ともしれぬ怒号に、男たちは肩を跳ねさせ呼吸を停止する。そして恐る恐ると、怒号の放たれた最上階へと視線を向けて、続く怒号がないと分かるや否や、顔に僅かの安堵と、一層の焦燥を浮かべて物色を再開するのだった。
そんな中、声の主のいる最上階の一室では張り詰めた空気が弥漫していた。
「チッ!」
怒号を上げ不機嫌をあらわにするのは、盗賊団の団長であり、手下から『頭』と呼ばれている大柄な男。その名をブレニッドとするいかにもな無頼漢である。
ブレニッドは、倒された執務机に足を投げ出し、部屋の中を
鋭い視線が荒れた室内を横断し、彼の護衛達は視線にさらされる度に息を止め、自身に矛先が向かないことをなけなしの信仰心で祈るのだった。
「————おい」
ブレニッドの視線……もとい怒りの矛先は、もっとも近くにいた小柄な男へと向けられた。
矛先を向けられた男へと、選ばれなかった彼らからの同情の眼差しが注がれる。しかし、口を挟む者などいない。
「へ、ヘイ!」
「俺はいつまでここで待っていりゃ良いんだ? ここは聖騎士の屋敷だろォが。なんでまだ“聖具”の一つも見つけてねえんだっ!」
ブレニッドがこの村を襲った目的。それはこの村にいる聖騎士の特別な装備を入手し、それを他国へと売り渡すことにあった。
「聖騎士はそこいらの兵士とはワケがちげエ。人間がかなうはずがねえ怪物を、顔色一つ変えずにブチ殺しやがるバケモノどもだ! だからこんだけの手間をかけたんだっ!」
聖騎士は一般の兵士が対処不可能なあらゆる事態に対応する、この国の切り札ともいうべき存在。
ブレニッドが率いる盗賊団の全員で襲いかかろうと、聖騎士1人に全滅することは分かりきっていた。
だからこそ、あり得ないとは知りながらも『今帰って来られたらどうなるか』という想像だけで、ブレニッドは冷や汗が止まらなかった。気持ちの上では、今すぐにでもここを離れたいのだ。いや、予定ではもう離れているはずだったのだ。
しかし、それができておらず、いまだに離れる目処すら立たない。理由は明白だった。
「なのにてめぇらは絵だの壺だのではしゃいでやがる……聖具はどうしたァっ! 聖具を見つけて初めて成功なんだよォ! こんなチャチなもん売っぱらったところで元も取れやしねえだろうがア!!」
「ぎ……ッ!?」
胸ぐらを掴むブレニッドの腕に力が込められ、男の足が床を離れる。
ブレニッドの真っ赤な顔とは反対に、男の顔はみるみる青紫へと変わって行く。そんな死のコントラストに、護衛の男たちの反応はただ俯くか、小柄とはいえ人ひとりを片手で上げる団長の腕力に驚愕するかの2つにひとつだ。
「俺がどんだけホンキか————分かってねえのか?」
「——ヒッ! と、ととととんでもねぇ! もちろん、おれたちゃ頭の役に立とうって……み、みんなこのとおり、必死に探してまさぁ……っ!」
男の『このとおり』とは、今も下の階から聞こえてくる、部下たちの足音や物を引き倒す音を指したものだ。たしかに、ブレニッドの部下たちは壊すと殺す以外はてんで話にならなかったが、怠惰とはほど遠い人間であることもまた事実であった。
「……………………チッ!」
ブレニッドも手下たちが手を抜いているとは思わない。だが、湧いてくる感情をぶつけずにはいられなかった。
彼は、今回の襲撃に細心の注意を払っていた。
こんな小規模の村を襲撃するために、準備期間は2年にもおよび、その大半を内通者の確保と聖騎士の行動把握に費やした。
警戒されないよう準備期間中は盗賊稼業は極力行わず、慣れない山での潜伏生活を送った。
その過程で失ったものは、決して少なくない。
そして、内通者から『聖騎士の長期不在』を意味する狼煙があがり、ようやく計画を決行したのが今日この日なのだ。ここまでの労力と犠牲を思えば、彼が計画の実行に際して心を躍らせ、大いに期待をしていたのも無理からぬことだろう。
だが決行してみれば、上手くいかないことだらけだった。
平和ボケしているはずの村人たちは、想像以上に激しく抵抗し、その間に始末するはずだった内通者の逃走を許してしまった。
聖騎士の息子は剣の腕が立ち、村人のために立ちはだかってきた。
最終的に近場の子どもを盾にすることで対処できたが、それまでに手下を6人も失ってしまった。礼として散々に苦しめいたぶり、友人を目の前で殺した上で槍で執拗に貫き続けた。だが、失った仲間は帰ってこない。
そうして予想外の犠牲を払いながらも、いざ聖騎士の屋敷まで来てみれば、今度は当てにしていた聖具までもが見つからない始末である。
今のところの戦果は、そこそこの値が付きそうな調度品がいくつかと、それなりに実用性のありそうな道具が数点。
だが、これではとても割りに合わない。“いい稼ぎ”程度では、到底採算が取れないし、また団の者も納得しないだろう。これまでの団員らからの不満を、ブレニッドは聖具がどれだけの稼ぎをもたらすかを力強く説くことで抑え込んできた。最近はそれではもう足りず、拳の出番が増えてきてもいたのだ。これでありませんでしたでは瓦解は必至である。
こうして今日一日の不幸を思い浮かべると、階下から聞こえてくる音も、彼にはどこか言い訳じみて聞こえてくるから不思議だ。
「……せ」
「へ? い、今ぁなにか言いやしたか?」
「テメェらも探せってぇんだよォ、クソがア!!」
「ぎゃッ!?」
ブレニッドに殴られ、壁に打ち付けられた男が悲鳴をあげる。
その様子を目にして他の男たちも我れ先にと部屋から転がり出た。やや遅れて、投げられた男も部屋から這い出る。
執務室にはブレニッドの荒い呼吸音だけが残された。
「はぁ……はぁ……チクショウッ、どうしてこうも上手くいかねえ————ぅおッ?!」
ブレニッドが、部屋の家具で唯一無事な椅子に腰掛けようとした瞬間のことだった。
村のどこからか、思わず身を屈めたくなる様な甲高い咆哮が響き渡り、屋敷の窓を揺すり鳴らした。
しばらく身をかがめていると、窓のガタガタという振動は止まる。
嫌な静寂だけが残る。ブレニッドの額を流れる冷たい汗は止まらない。今のがなんであれ、この状況を好転させるものでないこと、そしておそらくその真逆の何かが起きていると直感したのだ。
「か、かか、頭ぁーー!!」
ブレニッドが窓の外を恐る恐るとのぞいていると、部屋の扉が勢い良く開かれた。
「うおッ——!? テメェ…………」
驚かされたことに顔を赤くさせたブレニッドが男を睨むが、男はそれ以上に顔を赤くして、興奮と恐怖から早口で叫ぶ。
「せ、聖騎士のガキが——生きてる!」
「……………………あぁ?」
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
「——!? 頭だ!」
「頭! アイツ生きてます、生き返った! お、おれ……てっきりアレで死んだもんだと……」
「あ、あたりまえだ! アイツがおかっしいんだ! 腹ズタズタに刺しまくって、なんで生きてんだよ……!?」
ブレニッドが表へ出ると、手下たちの混乱した様子がよく分かった。口々に裏返った悲鳴を吐き出している。
特に、少年との戦闘に関わった者の取り乱し様は顕著だった。
(チッ! とっとと落ち着けねぇと心が折れかねねぇな……)
心の中で舌打ちしてから、ブレニッドは大きく息を吸い込み————
「————黙れぇっ!!!!」
「「「ッ!?」」」
ブレニッドの一喝で、男たちの動きがビタリと止まる。
「ギャアギャア女みてーにわめきやがって。テメェらシロートか、バカが!!」
「「「————————」」」
その場の誰もがうなだれる。
ついさっきまでの自分が途端に恥ずかしくなり、悔しさが滲み出す。
ブレニッドの盗賊稼業は非常に長い。当然、付き従う手下の中には、盗賊団の初期から行動を共にしてきたベテランといえる男らもいる。
そんな者たちですら、先ほどの騒ぎに加わってしまったのだ。
本来なら、指示を飛ばして仲間を落ち着けるべき者たちがだ。
「「「————————」」」
場に重い空気が流れる。
そんな空気を無視して、ブレニッドは近くにいた手下を問い質した。
「————で、その生き返ったとか言うガキはどこにいんだ」
「あ、あれでさぁ……」
訊かれた男はバツが悪そうに、村の正門の方向を指し示す。
「あいつぁ…………」
男の指し示した先。村の特徴でもある一本道の上を、どこか頼りない足取りでゆらゆらと近づいてくる人間がいた。
手下曰く、アレが生き返ったとかいう聖騎士の息子なのだろう。だが、その外見はブレニッドの記憶にある少年とは、いくらか異なっていた。
先ず、髪色が違う。
ブレニッドの記憶にある少年の最後の姿は、村の子供を人質にして動けなくしたところを部下に斬りかかられたときのもの。その後囲まれて、死体になってなお許されなかった姿。それが、ブレニッドが少年を見た最後だった。
髪色は明るい茶色で、瞳の色も同じだったはずだ。
しかし、視線の先の少年の髪色はひどく燻み、元の活発な印象は見る影もない。
瞳の色は、俯いている所為で分からないし、まだ分かる距離にもない。
次に目が行ったのが、肌の色だった。
記憶にある少年は、あれほどまでに白かっただろうか?
服に空いた孔から見える肌は、もはや病的なまでに白く、生気を感じられない。
髪と肌の色もあってか、近づいて来る少年の纏う空気は、なにか虚ろげで危うい。どこか屍人を彷彿とさせるような不気味な雰囲気を放っている。
「——本当に……“あの”ガキなのかぁ?」
「で、でもぉ頭、あの高そうな服着てんのなんざ、この村じゃあ聖騎士の家族くらいで……」
「それにっ、あのズタボロの服は……あれは間違いなくおれたちがヤッたときンだぜ!」
それは、ブレニッドも気付いていた。
今挙げた点を除けば、背丈や服装などは記憶にあるままだ。
服に関しては特に、聖騎士の家族の着る服は村長一家のそれよりも目に見えて高い品質のものだった。
あの質の衣類を身に付けている時点で、聖騎士の家族であることは確定と言っていい。
記憶と食い違う病的な外見と、そのほかの一致する特徴。
そこからブレニッドが導いた答えは——
「——へっ! これぁ運が向いてきやがったぜオイ……!」
ブレニッドの表情が、歯をむき出したどう猛な笑みに変わる。
抑えきれない高揚に震える声を聞いて、手下たちは顔を見合わせる。
「頭……? 運ってのは、一体……」
男たちの疑問を貼り付けた顔に、ブレニッドは声高に叫ぶ。
「よく聴けテメェらあっ!! 屋敷を探しても見つからなかったお宝がぁ、向こうっから歩いて来てんだよおっ!!」
「お宝……てのは、聖具や魔導具のことでいいンすか?」
「バカかっ、それ以外何があるってんだ!! いいか……アイツが例のガキならなァ、腹ァズタズタのめった刺しにされてもピンシャンしてやがんだっ! ……ガキが自分の力で治したと思うか?」
そこまで聞いて、手下たちに理解の色が浮かび始めた。
影のさしていた顔が、みるみる盗賊としての顔に変わって行く。何をすべきかを理解した顔だった。
「見た限り代償なしとは行かねえみてェだが……んなもんは誤差だ、誤差。あんだけの傷を体調崩すくれェで完治しちまうなんざ、どんだけの価値があるのか想像もできやしねえ!!」
ブレニッドの演説に、男たちの顔は興奮の色に染まる。目はギラギラとした光を放ち、視線はすでに獲物へと向けられている。
「商品は傷つけんじゃねえぞ! 身ぐるみ剥いでからブチ殺せっ!!」
男たちの武器を握る腕に力が込められる。
獣たちは今か今かと、主人の号令を待っている。
「行けェ、テメェらっ!! テメェらの命がいくつあっても足りねぇシロモンだっ!! 死んでも奪い取れェっ!!!!」
「「「——うぉおおおおおおおおおおッッッッ!!!!」」」」
号令は下され、男たちはヨダレを滴らせながら獣となって駆け出した————!
数十人の男たちが全力で駆け、ついに最前列が少年へ到達したとき————少年が顔を上げる。
「——ハ?」
その瞳は血のように紅く——
————ブレニッドの目に入ってきたのは、剣を振り下ろそうとした部下たちが、一斉に血を吹き出し絶命する姿だった。