ぴゅうと冷たい風が吹いた。マフラーを口元まで引っ張り上げながら首をすくめる。二月になっても季節はまだまだ冬で、こんなにいい天気なのに立ち止まると途端に寒さに体が震えた。
(あ、梅のつぼみだ)
通りすがりのマンションの入り口に小さな梅の木を見つけた。何気なく見るとつぼみがついていた。こういうのを見ると「春が来るんだなぁ」としみじみする。
(去年は梅の花、どこで見たっけ)
思い出そうとしても、頻繁に引っ越しをくり返しているせいかよく思い出せない。そもそも梅の花を最後に見たのがいつだったのかさえ覚えていなかった。
(思い出せるのは……そうだ、高校を卒業する前に見たっけ)
通学路に古い家があり、そこの門に立派な梅の木があった。梅の花だと思いながら見たのはあれが最後だった気がする。「あのときも寒かったなぁ」と思いながらハァと息を吐いた。真っ白な息はすぐに消えてなくなる。
(そういえば噛まれた日も寒かったっけ)
マフラーの上からそっとうなじを撫でた。そこには何重にも傷痕が重なり、それが色素沈着となって残っている。全部、αのゆうちゃんが噛んだ痕だ。
(βのぼくにこんなことしても意味ないのにね)
幼馴染みのゆうちゃんは中学一年のときにαになった。……違う、そうじゃない。αだと正式にわかったのが中一のときだっただけだ。その前から成績も運動神経も飛び抜けていたゆうちゃんは、きっとαに違いないと誰もが噂していた。そうしてバース検査をした結果、αだと正式に確認された。
ゆうちゃんがαだとわかった瞬間、ぼくは失恋したんだと思った。「すごいね」とも「よかったね」とも言えなかった。αは誰もがすばらしい人生を送る。だからみんなαに憧れ、そして羨ましがる。でも、ぼくはそのどちらも思わなかった。
(「失恋した」なんて、いま考えるとなんて自己中なんだか)
でも本当にそのときはそう思ったのだ。
ぼくは小さい頃からゆうちゃんが好きだった。どうして好きになったかなんて覚えていない。とにかく好きで好きでたまらなかった。ずっと好きで、気がついたらいつも一緒にいた。
「おれ、まこっちゃんがすき」
「……ぼくも」
保育園に通っていたとき、ぼくたちは告白し合って両思いになった。まるでままごとみたいな恋だったけど、ぼくはゆうちゃんと一緒にいられるだけで幸せだった。
それがバース検査で全部消えてしまった。
(違う、そうじゃない。恋人ごっこの時間が終わっただけだ)
ままごとの恋が本物になることはない。わかっている。だからぼくはフェードアウトするようにゆうちゃんの前から消えることを決意した。
(どんなに好きでも、ううん、好きだからこそ、そばにいるのがつらかった)
αはΩと結婚する、それが自然だ。そしてαとβじゃ結婚できない。できないわけじゃないんだろうけど結婚してもしょうがない。バース性が一般的になってからの統計では、αとβ、βとΩが結婚する確率は限りなく低いと言われている。
(だって、αとΩは本能で引き寄せられるんだ。本能になんて勝てっこないじゃん)
αの優秀なα遺伝子というものはΩでないと受け継がせることができないらしい。Ωなら確実に優秀なαを生むことができる。そういうこともあってαはΩと結婚する。そうなるのが生物学的にも自然だと、どこかの有名な大学教授が話していた。ぼくもいまではそう思っている。
(だからぼくなんかがそばにいたらいけない。ぼくのせいで、ゆうちゃんの優秀な遺伝子が残らないなんて絶対に駄目だ)
フェードアウトを決意したぼくだけど、ゆうちゃんとは同じ中学に通っていたからまったく姿を見ない日はほとんどなかった。しかも同じ学年だ。移動教室や行事ではどうしても姿を見てしまう。それでも「クラスが違っただけよかったじゃないか」と自分に言い聞かせ、できるだけゆうちゃんの顔を見ないようにした。気がつけば、どうしたら会わなくて済むかばかり考えるようになっていた。
そんなふうに中学一年を過ごし、中学二年、中学三年もゆうちゃんに会わないことを最優先に生活した。その間、ゆうちゃんと同じクラスになったことは一度もない。そのことにホッとしながら、心の中では未練がましく「せめてクラスくらい一緒がよかった」なんてことを思ったりもした。
その後、ぼくは地元の高校に進学した。優秀なαのゆうちゃんは特急電車で三十分かかる都会にある有名校に進学した。これでぼくたちの道は完全に分かれたと思った。
「まこっちゃん」
高校三年の冬休み、久しぶりに懐かしい声を聞いた。
(ゆうちゃんだ)
後ろに立っているのはゆうちゃんで間違いない、二年以上声を聞いていないのに、顔を見なくても僕にはゆうちゃんだとすぐにわかった。
わかったから逃げた。一度でも顔を見たらきっと我慢できなくなる。それが怖くて必死に走った。でも、運動神経抜群のゆうちゃんから逃げることなんて最初から無理だったんだ。
日が暮れて暗くなった公園の片隅で腕を掴まれた。その瞬間、体にびりりと電気が走った。静電気みたいな痺れに驚いて、もう一度「まこっちゃん」と呼ばれたことに戸惑って、掴んでいる手を振りほどくことができなかった。
(……そうじゃない、振りほどきたくなかったんだ)
ゆうちゃんに名前を呼ばれたことも、追いかけてくれたこともうれしくて逃げることなんてできなかった。
「まこっちゃん」
ぐいっと腕を引っ張られ、ぎゅうっと抱きしめられた。力強い腕の感触に心が震えた。駄目だとわかっているのに突き飛ばせなかった。
気がついたらキスされていた。触れ合った瞬間冷たかった唇は、すぐに二人の熱で温かくなる。キスしていることが信じられなくて、それでもうれしくて、一瞬だけ縋るようにゆうちゃんのコートを掴んだ。
すぐにハッとした。駄目だ、そう持って胸を押し返そうとした。そんなぼくの肩を掴んだゆうちゃんは、巻いていたマフラーを奪うと制服のシャツを引っ張って無理やりうなじを顕わにした。そして思い切り噛んだ。
「い……っ」
あまりの痛みに悲鳴を漏らすことすらできなかった。ギリギリと皮膚が食い破られる感触にギュッと目を瞑った。あまりの痛さに目尻に涙が浮かんだ。
小さい頃、一緒に虫取り編みを持って走り回っていた公園の片隅で、ぼくはαのゆうちゃんにうなじを噛まれた。痛みで硬直するぼくの耳に「好きだ」と苦しそうにつぶやくゆうちゃんの声が聞こえた。ぎゅうぎゅうに瞑った目から、涙がぽとりと落ちた。
(あんなことしたって意味なんてなかったのにさ)
あのとき噛まれた傷痕は、直接触っても痛みなんて感じない。それなのに、ゆうちゃんのことを思い出すとジクジクと疼く。
(βのぼくに噛みついたって、こうしてただの傷痕が残るだけなのに)
αとΩの結婚は特殊で、αがΩのうなじを噛まないといけないらしい。どうしてそうするのかいくつか論文が出ているそうだけど、「おそらく本能だろう」というエビデンスも何もない意見が一番支持を集めている。
ぼくがもしΩだったら、あのときゆうちゃんと結婚できたかもしれない。でもぼくはβだ。そんなぼくのうなじを噛んだところでなんにもならない。それなのに、ゆうちゃんは何度もうなじに噛みついた。日が落ちた誰もいない暗い公園で、何度も何度もぼくのうなじに噛みついた。
(あんなの意味ないのに……それなのに、ぼくは噛まれたことがうれしくて仕方がなかったんだ)
βのくせにαに噛まれたことがうれしくてたまらなかった。まるでゆうちゃんが本能でぼくを求めてくれているような気がして胸がいっぱいになった。あのときぼくは一生分の喜びを味わった。そう思うくらい心も体も震え、全身で喜びを感じた。
あの日、何度も何度も噛まれたからか、ぼくのうなじにはいまでも色素沈着のような噛み痕が残っている。何重にも重なった噛み痕はゆうちゃんの想いの深さのような気がして、ぼくにとって一生の宝物になった。
(でも、噛み痕は噛み痕でしかない)
いくら噛まれてもぼくとゆうちゃんは結ばれない。いくらαに噛まれても、βのぼくはゆうちゃんとは結婚することができない。せめてぼくが女性なら少しは希望があったのかもしれない。でもぼくはβなうえに男だ。優秀なゆうちゃんの遺伝子を一ミリも残すことができない存在だ。
(国のため、世界のためにαは優秀なα遺伝子を残さないといけない。世界中でそう言われてる。ぼくもそれが正しいと思う)
そう思ったぼくは、高校を卒業するのと同時に逃げた。今度こそゆうちゃんに見つからないように、家族にすら行き先を告げずに家を出た。ゆうちゃんの未来のために、これ以上自分が傷つかないために、ぼくは逃げたんだ。
(もう吹っ切れたと思ったのになぁ)
あれから四年が経つ。有名大学に進学したであろうゆうちゃんは、きっと留年なんかせずにもうすぐ卒業するに違いない。もしかしたら飛び級してとっくに社会人になっているかもしれない。どちらにしてもすばらしい未来へと歩き出していることだろう。
それに比べて、ぼくは大学に行くこともなく転々とする日々を送っている。どこか一カ所に留まるとゆうちゃんのことばかり考えて落ち着かない。気持ちに余裕ができるとゆうちゃんに会いたい気持ちが膨れ上がる。それが苦しくて、つねに慣れない環境に身を置き続ける流転の生活を選んだ。
いまも短期のアルバイトで食いつなぎながら定住しない生活を送っている。最初はフラフラしているぼくに怒っていた両親も、いまではすっかり諦めモードだ。
もう一度マフラーの上からうなじを撫でた。噛まれたのは四年も前のことなのに、色素沈着という形で残った噛み痕はゆうちゃんを思い出すたびにこうして疼く。そのせいで噛み痕のことを忘れることができないままでいる。
(疼くから忘れられないのか、ゆうちゃんを思い出すから疼くのか……まるで鶏と卵みたいだ)
いくら考えても答えは出ない。ゆうちゃんのことを思い出すと噛み痕が疼くとぼくは思っているけど、そう思いたいだけで実際は古傷が痛むだけかもしれない。
(どっちにしても未練タラタラだよな)
もう四年だ。それなのにどうして忘れられないんだろう。思わず「ははっ」と乾いた笑いが漏れた。救いだったのは、もう涙が出ないことだろうか。いくら噛まれたときのことを思い出してもさっぱり出てこなくなった。
(あのとき一生分泣いたもんなぁ)
公園で噛まれた日の夜、絶対に結ばれないことを実感したぼくはベッドの中で声を殺して泣いた。泣いて泣いてたくさん泣いて、泣きすぎて気がついたら涙が出なくなっていた。涙が出ない代わりに心がギュッと痛くなる。もしかしてぼくの代わりに心が泣いているのかもしれない。
(……帰ろう)
こんなセンチメンタルな気分になるのは寒いからだ。そう思い、梅のつぼみから視線を外して歩き出そうとしたときだった。
「まこっちゃん」
足がぴたりと止まった。「まさか」、「でも」、「そんなはずは」、「どうして」、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「まこっちゃん」
鼓動がドクンと跳ねた。全身を流れる血がドクドクと音を立てる。
(振り返るな)
このまま無視して立ち去るのが正解だ。わかっている。それなのにぼくの足は棒になったみたいでまったく動こうとしない。マフラーの隙間から漏れた真っ白な息がふわりと上がり、スッと消える。ぼくはゆっくりと振り返った。駄目だとわかっていながら、そうせずにはいられなかった。
少し離れたところに男が立っている。四年前に見たときよりずっと大人になった、そしてますますかっこよくなったゆうちゃんだ。
「ど……して、」
「αの能力、舐めるなよ」
「だ……って、住所、誰にも教えてないし、親だってここ、知らないのに、」
「生きていれば必ず痕跡が残る。それをたどれば見つけるのは簡単なんだよ。……本当はもっと早くに迎えに来るはずだったのに、卒業までクソ忙しくて動けなかった」
「くそ、忙しい、」
中学のときには聞いたことがなかった乱暴な言葉遣いに、ぼくは一瞬言葉を失った。そんなぼくから視線を逸らしたゆうちゃんが、「俺だっていろいろあったんだよ」と言い訳するようにつぶやく。
「……どうして探したりしたの」
「どうしてって、そりゃあ、」
「帰って」
「まこっちゃん?」
「帰って。ゆうちゃんがいるべき場所はここじゃない」
「どういう意味だ?」
「ゆうちゃんはαだ。優秀なゆうちゃんには輝かしい未来が待ってる。ぼくみたいなβにいつまでも関わってちゃ駄目だ」
探してくれたことがうれしくて自分の立場を忘れかけた。一瞬だけ、ゆうちゃんの胸に飛び込みたいと思ってしまった。
(そんなことしたら駄目だ)
キッと睨むようにゆうちゃんを見ながら「帰って」ともう一度口にする。
ゆうちゃんはぼくなんかと関わっていていい人間じゃない。ゆうちゃんはαとして誰もが憧れる道を歩むべき人だ。ぼくはそんなゆうちゃんの人生を邪魔したくない。
(違う、そうじゃない。ぼくはこれ以上自分が傷つくのが嫌なだけだ)
ゆうちゃんを見ているだけで噛まれたうなじが熱く疼く。古傷が痛むのと同じように、癒えることがない心の傷をこれ以上抉られたくなかった。もしここでゆうちゃんに触れてしまえば、言葉を交わせば、ぼくは一生ゆうちゃんを忘れられなくなる。
(だから、どうかこのまま帰って)
そして二度とぼくの前に現れないで。
「俺がどこにいるかは俺が決める」
まるで怒っているようにゆうちゃんがぼくを睨みつけた。
「俺が誰を選ぶかも俺が決める。誰が好きかも俺の勝手だ。俺はまこっちゃんと一緒にいたい。そして俺の隣がまこっちゃんの居場所だ」
「……駄目だよ」
「なんでそんなことを言うんだよ」
「だってゆうちゃんはαだ。ぼくはβだ。それなのに一緒にいたいだなんて、そんなの間違ってる」
間違っているのは間違いない。そう思っているのに、これ以上ゆうちゃんを見ていたら手を伸ばしてしまいそうだ。ぼくは逃げるように俯いた。
「どうしてαとβが一緒にいたら駄目なんだ?」
「そんなの決まってる」
「決まってなんかないだろ」
「βじゃαにつり合わない」
「そんなの人それぞれだ」
「αはΩと結婚する。それが正しいってみんな言ってるし、ぼくもそう思ってる。それにαとΩは本能で惹かれ合うんだ。そういう人と結ばれたほうがいいに決まってる」
「そんなこと他人に決められてたまるか。そもそも獣じゃあるまいし、俺は本能と理性の両方でまこっちゃんを選んだ」
「でも、いつか本能で惹かれ合うΩに出会うはずだよ」
「可能性は否定しない。でも確定した未来じゃない」
「……Ωが現れたら、βじゃ勝てない」
「俺のまこっちゃんへの想い、その程度で消えるようなものだと思ってるのか?」
「……だって」
「覚悟を決めてなけりゃ、あんなに何度も噛んだりしない」
ゆうちゃんの言葉に、マフラーの下で噛み痕がズクンと疼いた。
「どんなに噛んでもまこっちゃんが俺のものにはならないことは俺だってわかってる。わかっていても止められなかった」
ゆうちゃんが近づいて来る。逃げなくちゃ、そう思っているのに体のどこも動こうとしなかった。
「あんなに焦ったのは初めてだったんだ。まこっちゃんに会えないのがつらくて、しんどくて、毎日イライラしてた。このまま二度とまこっちゃんに会えないのかと思ったら怖くて苦しくてどうしようもなかった。ほかに方法が思いつかなくて、だから噛んだ。このまま俺のものになればいいのにと思って何度も噛んだ。……ごめん、痛かったろ?」
ゆうちゃんがそっとぼくの腕に触れる。そのとき初めてゆうちゃんの手が震えていることに気がついた。まるで怖がっているみたいに、そうっとぼくの腕に触れる。
(……もしかして、ゆうちゃんもぼくと同じだったってこと……?)
ぼくと同じように何度も考え、考えるたびに忘れられなくなるのが怖かったんだろうか。好きで好きで、どうしようもないくらい好きで、それでも好きでいちゃいけないと思って絶望したんだろうか。苦しくて悲しくて、それでも忘れられなくて、そんな思いをゆうちゃんも抱いたんだろうか。
不意に涙がぽろっとこぼれ落ちた。この四年間、ゆうちゃんを思い出しても出なかった涙が、またぽろっと落ちる。
「……痛いに決まってるじゃないか」
震えるぼくの返事に、ゆうちゃんが「ごめん」と謝った。そうしてぼくの頭を抱きしめるように引き寄せた。
駄目だ、このままじゃゆうちゃんの人生を駄目にしてしまう。そう思っているのに、ぼくの両手はゆうちゃんの背中を抱きしめていた。胸に額を押しつけながら、抱きしめられている現実に喜びの涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「俺さ、αだってわかってからずっと苦しかったんだ」
こんなに弱々しいゆうちゃんの声を聞いたのは初めてだ。
「両親は二人ともβなのに、なんで俺だけαなんだって思った。αじゃなけりゃ、ずっとまこっちゃんと一緒にいられるのにって何度も思った。何度も思って何度も考えて、考えすぎてまこっちゃんに噛みついた」
右手でぼくの頭を、左手で背中をぎゅうと抱きしめながら、ゆうちゃんが言葉を続ける。
「αだってわかってから、まるで頑丈なロープにがんじがらめに締め上げられてるみたいな感じがしてた。引っ張っても
「……」
「大学じゃ学生も教授も誰も彼もが俺をαだって目で見るんだ。興味津々って顔で、下心満載な表情を隠そうともしないで近寄ってくる。おかげで俺はいつも人に囲まれっぱなしだ。どこにいても人気者扱いされる。でも、それは全部俺がαだからだ。まこっちゃんみたいに俺自身を見てくれる人なんて一人もいない」
「……」
「あぁそっか、俺はαってことでしか見てもらえないんだって思ったら虚しくなってさ。それで吹っ切れたのかな。αなんてどうでもいいやと思ったら無性にまこっちゃんに会いたくなって、それで必死に探した」
「……」
「探してるうちに、がんじがらめだったロープは俺自身だったんだってことに気がついた。まこっちゃんのこと考えてるうちに、いつの間にか自分がαだってことも、αとしての道を歩まないといけないと思い込んでたことも消えてなくなってた。おかげで滅茶苦茶心が軽くなった」
「……ゆうちゃん」
「俺、いますンげぇ自由だよ。それにまこっちゃんを探すのも段々楽しくなってきてさ。見つけたら何話そうかとか何しようとか、そんなことばっかり考えてた。まるで公園で毎日遊んでたあの頃みたいな気持ちになってた」
虫取り編みを持って、毎日二人で駆け回っていた公園が頭に浮かんだ。なんでもない公園なのに毎日楽しくて、子どもの頃はそれがずっと続くんだとばかり思っていた。そんな公園にも中学に入ったらは行かなくなった。そして、高校三年のときあの公園でうなじを噛まれた。何度も噛まれて、初めてのキスをした。
「まこっちゃん、一緒にいよう。俺はまこっちゃんと一緒にいたい」
「……でも、」
「αだとかβだとか関係ない。俺はまこっちゃんだから好きなんだ。うなじを何度も噛んで俺のものにしたいって思うくらい好きなんだ」
いつの間にか涙が止まっていた。ゆうちゃんの声を聞いているうちに、ぼくの心をがんじがらめにしていた何かが解けるような気がした。もしかして、ゆうちゃんをがんじがらめにしていたロープはぼくにも絡みついていたのかもしれない。それが解けたからか少しだけ息をするのが楽になった気がした。
「好きで好きでたまらない。頭が変になるくらいまこっちゃんが大好きだ」
「……ゆうちゃん、それちょっと怖いよ」
ため息をつくようにそうつぶやくと、「俺の気持ち舐めんなよ」とゆうちゃんが笑った。
「本当にいいの? ぼくはβだし、それに……」
「同じ男だし?」
こくりと頷くと、またもや「別にいいだろ」とゆうちゃんが笑う。そうして胸に額を押しつけている僕の頭をぎゅっと抱きしめた。
「男とか女とか関係ない。俺はまこっちゃんだから好きになった。それだけだ」
「……ぼくも、ゆうちゃんだから好きになった。もしゆうちゃんが違う顔でも女子でも、絶対に好きになってた」
「やっぱ俺たち相思相愛だな」
「……うん」
ゆうちゃんのコートの背中部分をぎゅうっと握り締める。
「やっとまこっちゃんを捕まえることができた」
ホッとしたようなゆうちゃんの声に、心の中で「ぼくだって」と答えた。本当はずっと捕まえたくて、でも手を伸ばすことができなくて、自分が傷つくことが怖くて逃げていた。でも心の中ではこうして抱きしめてくれることを願っていた。
「そんなに探してくれてたんだ」
「大学四年間……は丸々使えなかったけど、それでも気持ちはずっと探してた」
「ぼく、愛されてるね」
「今ごろ気づいたか」
「……うん」
胸の奥がくすぐったくて仕方がない。体がふわふわするのを感じながら、背中に回した手に力を込める。
「ったく、捕まえるのに十年かかったな」
「え?」
「俺がαだってわかった途端にまこっちゃん、逃げ出すんだもんな。俺がαだってわかったのが十三歳のときだろ? もうすぐ二十三歳になるからトータル十年だ。まこっちゃんに逃げられて十年経った」
「……そっか」
十年、言葉でいえば一瞬だけどとても長い時間だ。四月生まれのゆうちゃんはあと少しで二十三歳になる。αだとわかった中学一年のときから十年間、ぼくはずっと逃げてきた。ゆうちゃんのためにそれが一番だと思っていたけど、ぼくにとってもつらい十年だった。
「もう逃げるなよ」
「うん」
「本当だろうな」
「ぼくだってゆうちゃんのこと、ずっと好きだったんだ。……好きなままでいいなら、もう逃げる必要なんてない」
「αの俺から逃げられると思うなよ」
「わかってる。親も知らないここを突き止めるくらいだもん、どこにいてもきっと見つかるよ」
「当たり前だろ」
力強い返事がうれしくて、ぽろっと涙がこぼれた。せっかく止まっていたのに、また涙がぽろぽろとあふれ出す。
「十年分、いっぱい一緒にいような」
「うん」
「十年分のデートもしよう」
「うん」
「十年分の好きも言わないとな」
「ははっ、なんだよそれ」
「十年分の俺の想い、半端じゃないからな。覚悟しとけよ」
「……うん」
抱きしめていたゆうちゃんの腕が離れた。代わりに大きな両手に頬を包み込まれる。首をすくめるくらい冷たい手なのに、まるで燃えているみたいに熱く感じた。
「まこっちゃん、好きだ」
「……ぼくもゆうちゃんが好きだよ」
ゆうちゃんのかっこいい顔が近づいてくる。本当は目を瞑るのが正解なのかもしれないけど、もったいなくてぼくは目を開いたままキスをした。