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第19話 復讐


 午後は訓練フロアに行く事になり、灯莉からもそこで合流しようと連絡が着たので、昼斗は保と共にエレベーターに乗った。そして最上階で降りると、既にそこには灯莉の姿があった。顔を上げた灯莉は、降りてきた二人の姿を見ると、双眸を細くした。


 それを目にした昼斗は首を傾げたが、一瞬の事で、すぐに灯莉は笑顔になり、二人の元へと歩み寄ってきた。


「遅かったのね、義兄さん。それに円城少佐」

「休憩時間は可能な限り休むと決めてるんでねぇ、瑳灘大佐」


 へらりと笑った蛍は、隣から昼斗の腕を抱きしめた。昼斗は何気なく、蛍の顔を見る。


「ちょっと距離が近いんじゃない?」

「んー? 私と昼斗はいつもこんな感じですけど?」

「義兄さんから離れて」

「なんで?」


 若干苛立つような顔をしている灯莉に対し、へらへらと蛍が笑いかける。

 すると灯莉が、昼斗をじっと見た。


「――昼斗。こっちに来て」

「あ、ああ?」


 頷いて、昼斗は保の腕から抜けて、灯莉の前に立った。すると灯莉が昼斗の腕を引き、不意に抱きついた。


「っ」


 さすがに人前で抱きつかれた事など無かったから、露骨に昼斗が赤面する。

 そんな二人を見て、蛍が驚いたように目を丸くした。


「円城少佐。義兄さんに近づかないでもらえる?」

「あ、灯莉! 何を言って――」

「何って? 本音だけど?」


 灯莉が昼斗の目を見る。昼斗は困惑と羞恥が綯い交ぜになり、反応に困った。


「あれ? そういう? 二人って、そういう……?」


 すると蛍が虚を突かれたような顔をしてから、驚いたように声を出した。

 なにが、『そういう』なのかは分からなかったが、いよいよ昼斗は真っ赤になった。

 灯莉は無言だ。ただ唇だけに笑みを浮かべている。


「誰とどう接するかを、私は他人の指示でなく自分で決定するけど――え? そういう?」

「分かったんなら、近づかないように」


 こうして、午後の訓練が始まる事となった。



 訓練が終わり、車に乗り込んだのだが、帰路の最中、珍しく灯莉が無言だった。その表情こそいつも通り口元には笑顔が浮かんでいたけれど、昼斗は義妹の瞳が冷ややかな色を宿している気がして、自分は何かしただろうかと困惑していた。


 帰宅し、遠隔操作で調整してあった空調が、暖かい室温を保っていたリビングへと入り、昼斗はマフラーを解いてから、コートと手袋を外す。この手袋は、先日遊園地に行った帰りに、灯莉が買ってくれたものだった。


「すぐに夕食を作るね」


 灯莉はいつもと同じ声音でそう告げて、キッチンへと消えた。だが、不機嫌そうなのは明らかだったから、昼斗はソファに座りつつ、溜息を押し殺す。


 観覧車に乗ったあの日から、昼斗の中で灯莉は特別だ。怒らせたのならば謝りたかったし、嫌われたくない。だが、心当たりはない。今となっては、灯莉も己の事を、本当に好きでいてくれるのだろうと、昼斗は考えていた。当初は信じられなかった愛情だが、少しずつ、信じてみたいと思うようになった理由は簡単で、自分の方が、好きになってしまったからだった。


 今でも思う。愛していた婚約者の妹に恋をする事など、倫理的にどうなのだろうかと。チェストの上にある写真立てを一瞥し、胸が苦しくもなる。膝の間に組んだ両手を置き、昼斗は嘆息した。


「できたわ」


 この日のメニューはイタリアンで、二人でボンゴレを食べた。アサリの味が美味だったが、それを昼斗が述べたら、『缶詰そのままの味だけどね?』と、灯莉の瞳が、また冷たくなった。失言だっただろうかと、昼斗は顔を背けたものである。


 そうして入浴後、この日も二人は同じベッドに入った。

 隣に並んで寝転がった時、意を決して昼斗は尋ねた。


「な、なぁ、灯莉」

「なに?」

「俺はその、何かしたか?」

「何か、って?」

「怒ってるみたいだから……」

「……」


 すると少しの間沈黙してから、不意に灯莉が昼斗を後ろから抱きしめた。壁際を向いて横になっていた昼斗は、息を飲む。


「円城少佐と、随分親しいみたいね」

「蛍とは付き合いが長いからな。いい奴だと思ってる」

「ふぅん」

「友達だ」

「友達、ねぇ。昼斗がそう思っているとしても、向こうがそう思っているかは分からないけどね」

「……確かに、俺が友達なんて言うのは、おこがましいかもしれないな」

「そう言う意味じゃないよ。あちらは、恋愛対象として見ているかもしれないって話」

「まさか」

「私は、義兄さんが他の人間と仲良くするの、嫌だな」

「……」

「俺だけを見てよ。早く俺の事、好きになって」

「灯莉……」


 とっくに好きになっていると昼斗は言おうとしたけれど、直後キスをされたから、それは叶わなかった。こうして夜が始まった。


 事後。

 落ち着いてから、ゆっくりと二度瞬きをしてから、昼斗は灯莉の方を向く。すると目を開けていた灯莉が目を細めて笑い、より強く昼斗に抱きついた。その温もりが嬉しくて、非常に惹きつけられて、思わず昼斗は泣きそうな顔で笑った。


 もう、己の気持ちには、疑いようがなかった。灯莉の事が、好きでたまらない。

 灯莉の存在が、特別に思える。その眼差しも、温もりも、何もかもが愛おしい。


「おはよう」


 昼斗の額に、灯莉が口づける。その柔らかな感触に、胸が疼いた。幸せでたまらない。幸せが、怖い。こんなにも愛されるというのが、恐ろしい。昼斗にとって、幸せとは壊れるものの象徴だ。だが、灯莉がいてくれるだけで、それだけで、昼斗は現在、幸せだった。


「ねぇ、義兄さん。私の事が好き?」


 優しい声で灯莉に言われ、昼斗は――ごく小さく頷いた。そうしていたら、視界が滲んだから、己が泣いているのだと気が付いた。


「昼斗? どうしたの?」

「幸せで……」

「うん?」

「……っ、灯莉。好きだ」

「どうして泣いてるの?」

「幸せすぎて」

 素直に呟くと、灯莉が虚を突かれたような顔をした。それから、昼斗をより強く抱き寄せる。だから昼斗には、灯莉の顔が見えなくなった。ただ厚い灯莉の胸板に額を押し付けて、ギュッと目を閉じる。ポロリと涙が零れていく。


「昼斗は、私の事が好きになったんだ?」

「ああ」

「本当?」

「ああ」

「そう――昼斗。私はね、昼斗の事が……」


 灯莉はそう言うと、一度言葉を止めた。そしてほぅっと吐息すると、昼斗の体から腕を離して、起き上がる。灯莉は震えている昼斗の体に触れ、それから真面目な顔をして、視線を合わせた。まじまじと、目を潤ませている昼斗を、灯莉が見る。


「……そんなに、私の事が好き?」

「ああ」

「もう一回、きちんと言って」

「好きだ」


 口に出すと、堰を切るように、想いが溢れかえってくる。昼斗の胸中を、灯莉に対する愛情が埋め尽くしていく。再会したその日から、今日にいたるまでの、灯莉の様々な表情が、声が、脳裏を過ぎる。灯莉が、昼斗の目元の涙を拭う。瞬きをした昼斗は、しっかりと頷いた。


「好きだ。お前の事が好きなんだ」


 堪えきれずに、昼斗は想いを告白した。

 すると灯莉が俯いた。


 そして――そして、吹き出すように笑った。そして顔を上げる。


 昼斗はそこにある灯莉の表情を見て、目を見開いた。

 灯莉の唇は、歪んだ笑みを浮かべていたけれど、その眼には明らかに侮蔑が宿っていたからだ。


「呆気ないなぁ。計画通り過ぎて、言葉が出ない」


 そう述べると、灯莉が哄笑した。愉しくてたまらない様子で、灯莉は昼斗を見ては、嘲笑している。


「私は、昼斗の事なんか、大嫌いだけどね」


 最初、何を言われたのか、昼斗は理解出来なかった。いいや、理解するのを理性が拒んだ。至近距離にいるものの、今、二人は抱き合ってはいない。だから、灯莉の顔が、昼斗にはよく見えた。


 次に、言葉を理解した瞬間、サッと心が冷えた。


「本当にチョロかったなぁ。姉さんと私が似てるから? それとも、私が優しかったから? 両方かな。嫌われ者の昼斗には、私以外誰も優しくなかったもんねぇ。だから円城少佐は邪魔だと思ったんだけど、排除する前に決着がついちゃうんだから、本当に簡単な話だったわね」


 笑いながら、灯莉が続ける。


「聞いてる? 昼斗。私は、あなたのことが、大嫌いだ。好きだなんて、嘘だよ。微塵も愛してなんていない。家族愛すらもない。私は、あなたを義兄さんだなんて感じた事は、実を言えば一度もない。ハハ、本当に単純なのね、粕谷大尉」


 呆然としたままで、昼斗はその言葉を耳にした。


「私がお前を赦すはずがないでしょう? 姉さんを殺したあなたを」

「……」

「最初から、俺を好きにさせて、捨てる予定だったのよ。本当に、惨めね? 可哀想な粕谷大尉。泣いたら?」


 全身が冷たくなっていく。しかし、先程までとは異なり、涙は出てこない。

 元々昼斗は、悪夢を見た時しか、泣く事は無かった。その悪夢も、灯莉と共に暮らすようになり、最近では見ないようになっていたから、涙を零すのは、ここ最近は情事の最中と、嬉しくて幸せな時ばかりだった。辛い時、悲しい場合、昼斗は元々、泣く事が不得手だ。


「ああ、馬鹿みたい。私の嘘を信じるなんて」

「……」

「大嫌いよ、昼斗」


 そんな灯莉の言葉を聞いた瞬間、癒えかかっていた昼斗の心が、ボキリと音を立てて折れた。そうだ、赦しなど、何処にも存在しないのだ。己はそれだけの事をしてきた。赦されただなんて幻想で、赦されるはずはない。そう、再認識していた。


 昼斗の瞳が暗く染まる。凍り付いたように、全身の指先までもが冷たくなっていく。


 胸を抉られたような状態になった昼斗は、だが、これこそが自分にもたらされるべき、最善の、〝罰〟だと感じた。降格処分なんかよりも、ずっとずっと、適切だ。


「私の事が、憎い?」

「……」

「私は、もっともっと、憎んでる。分かる?」


 愉悦たっぷりの声音を放つ灯莉の前で、ギュッと昼斗は瞼を閉じる。

 不思議と、夢だとは思わなかった。

 漸く、相応しい罰を与えられたのだろうと、そんな心地ですらあった。





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