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君に触れて、私になる
君に触れて、私になる
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恋愛現代恋愛
2025年07月19日
公開日
2.8万字
完結済
内気な高校生・佐伯しおりは、いつも人の目を避けて生きてきた。だがある日、クラスで人気の男子・一ノ瀬悠真(いちのせ ゆうま)に思いがけず優しくされ、心に小さな火が灯る。 恋を知ったしおりは、戸惑いながらも自分を変えたいと願い始める——

第1話 「静寂の中の微熱」

昼休みの教室は、ざわめいていた。

 グループで弁当を囲む声、スマホの画面を見て笑い合う女子たち。窓の外には春の光が降り注いでいるのに、佐伯しおりの居場所は、いつもと変わらず静かな片隅だった。


 窓際の三列目。廊下に一番近い、目立たない席。そこが、彼女の“避難場所”だった。


 しおりは本を読んでいた。文庫本の背表紙には、淡い水彩の花が描かれている。切ない恋愛小説。現実とは程遠い、でもどこか優しい物語。


 ——どうして私は、こんなにも人と関わるのが怖いんだろう。


 ページをめくる指が、一瞬止まる。小学生のころから、しおりは「目立たない子」だった。発表のときに声が小さいと笑われたことも、誰かの輪に入れなかったことも、一つひとつが心に刺さって、それが今も抜けずにいる。


 高校に入っても、自分を変える勇気はなかった。クラスの中心にいる子たちのまぶしさを、ただ遠くから見ていた。自分とは、違う世界の人たち。


 そして、彼もまた——


 「それ、面白い?」


 ふいにかけられた声に、しおりの肩がびくりと跳ねた。


 顔を上げると、そこに立っていたのは、一ノ瀬悠真だった。


 「え……」


 言葉が喉につかえて出ない。


 一ノ瀬は、クラスでもひときわ目立つ存在だ。スポーツが得意で、背が高くて、何より、自然と人を惹きつける空気を持っている。女子からも男子からも好かれていて、まさに“陽キャ”という言葉がぴったりだった。


 そんな彼が、どうして自分に——?


 「ごめん、驚かせた? でも、前から気になってたんだよね。いつも静かに本読んでるし、なんか雰囲気あるなって」


 「……雰囲気、なんて……そんなの……」


 「いや、本当。で、どんな本?」


 しおりは視線を伏せたまま、そっと文庫本の表紙を彼に見せる。

 タイトルは『春の棘』。高校生同士の、すれ違いと再会を描いた切ない恋の話。


 「恋愛ものか。意外だな」


 「……うん。でも、ただのラブストーリーじゃなくて……、好きって気持ちが、うまく言えなくて……でも、ちゃんと心の中にあって……そういうのが、読んでて……」


 言いながら、自分でも驚いた。

 こんなふうに誰かと本の話をするのは初めてだった。言葉が少しずつこぼれてくるのは、彼がちゃんと聞いてくれているからかもしれない。


 一ノ瀬は、本のタイトルをもう一度読み上げて、少し笑った。


 「春の棘……いいね。なんか、その言葉だけでドキッとする」


 「……そうかな?」


 「うん。俺、あんまり本読まないけど、佐伯さんが読む本って、なんか興味あるなって思って」


 ——佐伯さん。自分の名前が、彼の口から自然に出てきた。


 しおりはそれだけで、心の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 「今度さ、おすすめの本、貸してくれない?」


 「……え?」


 「俺にも読ませてよ。恋愛小説ってやつ」


 冗談めかしてそう言いながらも、一ノ瀬の目はまっすぐだった。

 しおりは一瞬だけ戸惑ったが、小さくうなずいた。


 「……わかった。じゃあ……これ、読み終わったら……」


 「マジ? 嬉しい」


 彼の笑顔が、教室のざわめきの中でやけに明るく見えた。

 それはまるで、しおりの“静かな世界”に差し込んできた春の光だった。


 チャイムが鳴る。午後の授業が始まる合図。

 一ノ瀬は軽く手を振って自分の席へ戻っていった。彼の残したぬくもりのようなものが、まだしおりの中に残っていた。


 心臓が、静かに、でも確かに鳴っている。


 恋なんて、きっと縁のないものだと思っていた。

 人と関わるのが怖くて、いつも一歩引いていたしおりが、今、誰かの言葉でこんなにも揺れている。


 これはきっと、最初の「微熱」。

 まだ名前のつかない感情が、胸の奥でふつふつと芽吹いていた。



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