昼休みの教室は、ざわめいていた。
グループで弁当を囲む声、スマホの画面を見て笑い合う女子たち。窓の外には春の光が降り注いでいるのに、佐伯しおりの居場所は、いつもと変わらず静かな片隅だった。
窓際の三列目。廊下に一番近い、目立たない席。そこが、彼女の“避難場所”だった。
しおりは本を読んでいた。文庫本の背表紙には、淡い水彩の花が描かれている。切ない恋愛小説。現実とは程遠い、でもどこか優しい物語。
——どうして私は、こんなにも人と関わるのが怖いんだろう。
ページをめくる指が、一瞬止まる。小学生のころから、しおりは「目立たない子」だった。発表のときに声が小さいと笑われたことも、誰かの輪に入れなかったことも、一つひとつが心に刺さって、それが今も抜けずにいる。
高校に入っても、自分を変える勇気はなかった。クラスの中心にいる子たちのまぶしさを、ただ遠くから見ていた。自分とは、違う世界の人たち。
そして、彼もまた——
「それ、面白い?」
ふいにかけられた声に、しおりの肩がびくりと跳ねた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、一ノ瀬悠真だった。
「え……」
言葉が喉につかえて出ない。
一ノ瀬は、クラスでもひときわ目立つ存在だ。スポーツが得意で、背が高くて、何より、自然と人を惹きつける空気を持っている。女子からも男子からも好かれていて、まさに“陽キャ”という言葉がぴったりだった。
そんな彼が、どうして自分に——?
「ごめん、驚かせた? でも、前から気になってたんだよね。いつも静かに本読んでるし、なんか雰囲気あるなって」
「……雰囲気、なんて……そんなの……」
「いや、本当。で、どんな本?」
しおりは視線を伏せたまま、そっと文庫本の表紙を彼に見せる。
タイトルは『春の棘』。高校生同士の、すれ違いと再会を描いた切ない恋の話。
「恋愛ものか。意外だな」
「……うん。でも、ただのラブストーリーじゃなくて……、好きって気持ちが、うまく言えなくて……でも、ちゃんと心の中にあって……そういうのが、読んでて……」
言いながら、自分でも驚いた。
こんなふうに誰かと本の話をするのは初めてだった。言葉が少しずつこぼれてくるのは、彼がちゃんと聞いてくれているからかもしれない。
一ノ瀬は、本のタイトルをもう一度読み上げて、少し笑った。
「春の棘……いいね。なんか、その言葉だけでドキッとする」
「……そうかな?」
「うん。俺、あんまり本読まないけど、佐伯さんが読む本って、なんか興味あるなって思って」
——佐伯さん。自分の名前が、彼の口から自然に出てきた。
しおりはそれだけで、心の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「今度さ、おすすめの本、貸してくれない?」
「……え?」
「俺にも読ませてよ。恋愛小説ってやつ」
冗談めかしてそう言いながらも、一ノ瀬の目はまっすぐだった。
しおりは一瞬だけ戸惑ったが、小さくうなずいた。
「……わかった。じゃあ……これ、読み終わったら……」
「マジ? 嬉しい」
彼の笑顔が、教室のざわめきの中でやけに明るく見えた。
それはまるで、しおりの“静かな世界”に差し込んできた春の光だった。
チャイムが鳴る。午後の授業が始まる合図。
一ノ瀬は軽く手を振って自分の席へ戻っていった。彼の残したぬくもりのようなものが、まだしおりの中に残っていた。
心臓が、静かに、でも確かに鳴っている。
恋なんて、きっと縁のないものだと思っていた。
人と関わるのが怖くて、いつも一歩引いていたしおりが、今、誰かの言葉でこんなにも揺れている。
これはきっと、最初の「微熱」。
まだ名前のつかない感情が、胸の奥でふつふつと芽吹いていた。