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第2話 「ガラス越しの午後」

放課後の図書室には、柔らかい静けさが満ちていた。

 西日が大きな窓から射し込み、机の木目をゆっくりと照らしている。

 その光の中で、佐伯しおりは本を開いて座っていた。


 けれどページをめくる手は遅く、目は文字を追っていながらも心は上の空だった。


 ——また話せるかな。

 一ノ瀬くん、今日みたいにまた……私に声、かけてくれるのかな。


 頬が少し熱を帯びる。

 教室では、なるべく目立たないようにしてきた。空気のように過ごすことが、いちばん楽だった。なのに、今は彼の言葉や、少しの笑顔さえも、頭の中で何度も繰り返し再生されている。


 「……変だな、私」


 そんな独り言をつぶやいて、すぐに両手で頬を包んだ。


 恋なんて、もっと遠いものだと思っていた。

 きらびやかで、眩しくて、自分とは関係のない物語。

 だけどその物語が、今、自分の胸の中でそっと芽吹いているような感覚があった。


 図書室の扉が開く音がしたとき、しおりは自然と顔を上げていた。


 「……あれ? 佐伯さん?」


 まるで誰かに導かれたかのように、そこにいたのは一ノ瀬悠真だった。


 シャツの袖を少しめくり、髪にうっすらと汗をにじませている。部活終わりなのだろう、首にタオルをかけたままの姿が、どこか無防備だった。


 「こんなところで会うなんて、なんか運命っぽいな」


 冗談めいた言葉に、しおりは喉が詰まりそうになる。

 でも、彼の笑顔は柔らかくて、からかっているわけではないのが伝わってきた。


 「え、えっと……い、いつも、ここで本……読んでるから……」


 なんとか言葉をつなぎながら、しおりは無意識に胸の前で指を組み合わせていた。

 こういうとき、どんな表情をすればいいのか、わからない。


 「へぇ。いいね、落ち着いた場所。俺、今日たまたま図書室寄ってみたんだ」


 彼はそう言いながら、しおりの真正面の席に、当然のように腰を下ろした。


 「隣、いい?」


 そう言った時には、もう椅子を引いて座っていた。しおりは驚きと戸惑いで、呼吸を整えることさえ忘れそうになる。


 「さっきの本、まだ持ってる?」


 「う、うん……」


 震えそうになる手で本を差し出す。彼の指がほんの一瞬、自分の手に触れた。

 その一瞬の感触が、胸の奥に焼きつく。あたたかくて、やわらかい感覚。


 「タイトル……“春の棘”。恋愛小説、ってやつ?」


 「……うん。すれ違って……でも、お互いずっと好きで……でも言えなくて……」


 話しながら、しおりの声はだんだん小さくなっていく。けれど一ノ瀬は、ふっと目を細めて頷いた。


 「なんか、そういうのいいな。最近、俺も考えることあって」


 「……考えること?」


 「うん。気になってる人がいてさ。なんて言えばいいかわかんなくて」


 その言葉に、しおりの胸がふっと締めつけられた。

 ——誰だろう。気になってる人って。

 もしかしたら、自分じゃない……いや、それは当然。期待なんて、してはいけない。


 「そ、その人……どんな人?」


 気づけば、質問を口にしていた。心臓がドクンと鳴る。答えが怖いのに、聞いてしまった。


 「……静かな人。あんまり目立たないけど、ちゃんと見てるとすごく素敵で。……一緒にいると、落ち着く」


 彼の声は、どこか照れくさそうだった。けれどその言葉は、確かにしおりの胸の奥を撫でていく。


 ——私……じゃないかな。


 そんな期待と不安が、波のように交互に押し寄せる。


 「そういう人と、ちゃんと話せるといいね……」


 しおりはうつむいて、絞り出すようにそう言った。

 本当は、彼のその“気になってる人”が自分であってほしかった。でもそれは、口にできる願いじゃない。


 「うん、そうだね。……でも、今ちょっとだけ勇気出してみようかな、って思ってる」


 一ノ瀬の目が、まっすぐしおりを見ていた。

 その目が、自分に向けられている気がして、しおりは視線をそらせなくなった。


 図書室の空気が、少しだけ甘くなったように感じた。

 二人の間に流れる沈黙は、決して気まずくはなかった。

 むしろ心地よくて、怖いほど静かだった。


 「……あのさ」


 一ノ瀬が不意に言った。


 「また……ここで会っても、いい?」


 しおりの心臓が跳ねた。


 「わたし……で、いいの……?」


 言ったあとで恥ずかしくなって、すぐに視線を落とす。けれど彼は、笑って答えた。


 「俺が会いたいって思ってるんだもん。いいに決まってるでしょ」


 その言葉に、しおりは目を見開いた。胸の奥に、小さな火がともる。

 それはきっと、はじめての——“誰かに望まれる”という実感。


 「……うん」


 小さく、けれど確かに頷いたその瞬間、彼女の世界はまた少し、色づいていた。

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