放課後の図書室で、あの日一ノ瀬と交わした約束は、それから何度か繰り返された。
週に二度、決まった時間。しおりは、図書室の窓際に座って彼を待つようになった。最初のころはドキドキして、何を話せばいいのかわからなかったけれど、一ノ瀬はいつも自然体だった。小さな話題でもよく笑い、本のことを素直に「面白い」と言ってくれた。
それだけで、世界が少しずつやさしくなっていく気がした。
会話を交わすたびに、しおりの心はほんのわずかずつ解けていった。
「……一ノ瀬くんって、こんなに話しやすい人だったんだな……」
自分でも、そう思うほどに。
けれど、その穏やかで優しい時間は、ずっと続くとは限らなかった。
*
その日は金曜日。
帰り支度をしながら、しおりは廊下を歩いていた。
その時だった。昇降口の手前の渡り廊下。
視界の隅に、見慣れた後ろ姿が映った。
一ノ瀬悠真。
彼が誰かと話している。
それだけで、しおりの胸はわずかに浮き立った。けれど——
「え……」
その相手を見た瞬間、全身が凍りついた。
相手は、白石芽衣だった。
同じクラスで、明るく人懐っこく、クラスの中心にいるような女の子。けれどしおりにとっては、他人事ではなかった。
白石芽衣は、しおりにとって、唯一と言っていい“親友”だったからだ。
距離が近い。声が弾んでいる。芽衣は、一ノ瀬の腕を軽く叩きながら笑っている。
——あれは、どう見ても“友達同士”の距離じゃない。
しおりの心が、音もなく軋んだ。
立ち尽くしたまま、その光景を見ているしかなかった。芽衣が、少し背伸びをするようにして、一ノ瀬の耳元に何かをささやいた。彼は、驚いたように目を丸くしたあと、少し困ったように笑った。
——なに、話してるの。
——どうして、あんなに楽しそうなの。
息が詰まった。目の奥が熱い。意味がわからない。
「……嘘……」
しおりは、駆け出すようにその場を離れた。
心臓が苦しかった。何かが崩れ落ちていくような感覚。
図書室の時間は、あんなに優しかったのに。彼の言葉は、全部、ただの気まぐれだったの……?
放課後のグラウンド脇、誰もいないベンチに腰を下ろす。
夕日が差す。目を伏せる。唇を噛む。
けれど、堪えきれなかった。
「……やだ、やだ……やだ……っ……」
ぼろぼろと、涙が頬を伝っていく。
好きだった。あの時間が、好きだった。
一ノ瀬の声、笑顔、自分の名前を呼ぶ音。
全部が、特別だと思っていた。思いたかった。
なのに。
目の前で芽衣と話す姿が、あまりにも自然で、あまりにも“馴染んで”いたせいで、自分の居場所が偽物のように思えてしまった。
そして、運命はさらに冷たくしおりを突き放す。
*
その数日後、しおりは偶然、芽衣の後を歩く一ノ瀬を見かけた。
校舎裏の、人気のない渡り廊下。すぐに立ち去るつもりだった。
けれど、その瞬間、信じたくない光景が視界に飛び込んできた。
——キス。
一ノ瀬が、芽衣と。
ほんの一瞬、短い口づけ。けれど、それは確かに「キス」だった。
足元から世界が崩れ落ちる感覚。
しおりはその場にしゃがみ込み、声もなく泣いた。
胸の奥が焼けつくように痛い。息ができない。
心臓が壊れてしまったみたいに、痛かった。
芽衣。
どうして、何も言ってくれなかったの。
ずっと友達だったのに。私、あの人が好きって、あんなに——
ふと、芽衣の笑顔を思い出す。何度も励ましてくれた言葉。
しおりの孤独を知っていたはずの人。
なのに、どうして。
怒りと哀しみが入り混じった感情の渦に、しおりは一人で沈んでいった。
その夜、布団の中で声を押し殺して泣き続けた。
スマホを握りしめても、誰にも送れない。言葉が見つからない。
好きにならなければよかった。
関わらなければ、こんなふうに壊れなくて済んだのに。
そう思った。でも、本当は——
「……好きだったんだよ、ずっと……」
その呟きが、自分の心を一番深く刺した。
*
翌日から、しおりは図書室へ行かなくなった。
一ノ瀬のことを避けた。芽衣の顔も、見られなかった。
話しかけられても、うまく返せなかった。
教室の空気が苦しかった。逃げ出したくなるほどに。
けれど、逃げきれなかった。昼休み、教室で食事もせずに机に突っ伏していたしおりのもとに、静かに声が落ちてきた。
「……佐伯さん」
その声に、びくりと体が反応する。
一ノ瀬だった。
「話、できる?」
顔を上げることができなかった。けれど、その場を離れることもできなかった。
「——あのとき、見てたよね。俺と芽衣の……キス」
その言葉に、しおりの心臓が跳ねた。
やっぱり、気づいてたんだ。全部、見透かされていた。
「でもあれ……芽衣が、いきなりだったんだ。俺……びっくりして、避けきれなかった。だからって言い訳にならないけど……」
「……やめて」
しおりは絞り出すように言った。
「もういい。わたし……わかってるから。私なんかじゃ、最初から無理だったんだよね」
「違う。そうじゃない」
机の隣に立つ一ノ瀬の手が、しおりの手元にそっと伸ばされた。
そのぬくもりに、しおりはまた、涙がこぼれそうになる。
「俺……ずっと佐伯さんのこと、見てたよ。図書室で笑ってくれた顔も、目を伏せるときの仕草も。芽衣は……俺の親友。でも、それだけなんだ。たぶん、嫉妬したんだと思う。俺が、佐伯さんのこと見てるのが」
しおりの中に、静かに何かが流れ込んできた。
「それでも……キス、したでしょ……」
「……ごめん。本当に、ごめん。だけど、ちゃんと話したかった。俺、もうごまかしたくなかったから」
彼の声はまっすぐで、揺れていた。
しおりはゆっくりと顔を上げ、一ノ瀬の目を見た。
その瞳は、真剣だった。泣きそうだったのは、自分だけじゃなかった。
「……私、もう、どうしたらいいのかわからない……」
「……それでも。もう一度、図書室で会ってくれない?」
その提案に、しおりはしばらく言葉を失っていた。
けれど心の奥で、小さな声が叫んでいた。
“もう一度、信じたい”と。