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第3話 「甘い孤独」

放課後の図書室で、あの日一ノ瀬と交わした約束は、それから何度か繰り返された。


 週に二度、決まった時間。しおりは、図書室の窓際に座って彼を待つようになった。最初のころはドキドキして、何を話せばいいのかわからなかったけれど、一ノ瀬はいつも自然体だった。小さな話題でもよく笑い、本のことを素直に「面白い」と言ってくれた。


 それだけで、世界が少しずつやさしくなっていく気がした。


 会話を交わすたびに、しおりの心はほんのわずかずつ解けていった。


 「……一ノ瀬くんって、こんなに話しやすい人だったんだな……」


 自分でも、そう思うほどに。


 けれど、その穏やかで優しい時間は、ずっと続くとは限らなかった。


 *


 その日は金曜日。

 帰り支度をしながら、しおりは廊下を歩いていた。


 その時だった。昇降口の手前の渡り廊下。

 視界の隅に、見慣れた後ろ姿が映った。


 一ノ瀬悠真。


 彼が誰かと話している。


 それだけで、しおりの胸はわずかに浮き立った。けれど——


 「え……」


 その相手を見た瞬間、全身が凍りついた。


 相手は、白石芽衣だった。

 同じクラスで、明るく人懐っこく、クラスの中心にいるような女の子。けれどしおりにとっては、他人事ではなかった。

 白石芽衣は、しおりにとって、唯一と言っていい“親友”だったからだ。


 距離が近い。声が弾んでいる。芽衣は、一ノ瀬の腕を軽く叩きながら笑っている。


 ——あれは、どう見ても“友達同士”の距離じゃない。


 しおりの心が、音もなく軋んだ。


 立ち尽くしたまま、その光景を見ているしかなかった。芽衣が、少し背伸びをするようにして、一ノ瀬の耳元に何かをささやいた。彼は、驚いたように目を丸くしたあと、少し困ったように笑った。


 ——なに、話してるの。

 ——どうして、あんなに楽しそうなの。


 息が詰まった。目の奥が熱い。意味がわからない。


 「……嘘……」


 しおりは、駆け出すようにその場を離れた。

 心臓が苦しかった。何かが崩れ落ちていくような感覚。

 図書室の時間は、あんなに優しかったのに。彼の言葉は、全部、ただの気まぐれだったの……?


 放課後のグラウンド脇、誰もいないベンチに腰を下ろす。

 夕日が差す。目を伏せる。唇を噛む。


 けれど、堪えきれなかった。


 「……やだ、やだ……やだ……っ……」


 ぼろぼろと、涙が頬を伝っていく。


 好きだった。あの時間が、好きだった。

 一ノ瀬の声、笑顔、自分の名前を呼ぶ音。


 全部が、特別だと思っていた。思いたかった。


 なのに。

 目の前で芽衣と話す姿が、あまりにも自然で、あまりにも“馴染んで”いたせいで、自分の居場所が偽物のように思えてしまった。


 そして、運命はさらに冷たくしおりを突き放す。


 *


 その数日後、しおりは偶然、芽衣の後を歩く一ノ瀬を見かけた。


 校舎裏の、人気のない渡り廊下。すぐに立ち去るつもりだった。

 けれど、その瞬間、信じたくない光景が視界に飛び込んできた。


 ——キス。


 一ノ瀬が、芽衣と。

 ほんの一瞬、短い口づけ。けれど、それは確かに「キス」だった。


 足元から世界が崩れ落ちる感覚。


 しおりはその場にしゃがみ込み、声もなく泣いた。

 胸の奥が焼けつくように痛い。息ができない。

 心臓が壊れてしまったみたいに、痛かった。


 芽衣。

 どうして、何も言ってくれなかったの。

 ずっと友達だったのに。私、あの人が好きって、あんなに——


 ふと、芽衣の笑顔を思い出す。何度も励ましてくれた言葉。

 しおりの孤独を知っていたはずの人。

 なのに、どうして。


 怒りと哀しみが入り混じった感情の渦に、しおりは一人で沈んでいった。


 その夜、布団の中で声を押し殺して泣き続けた。

 スマホを握りしめても、誰にも送れない。言葉が見つからない。


 好きにならなければよかった。

 関わらなければ、こんなふうに壊れなくて済んだのに。


 そう思った。でも、本当は——


 「……好きだったんだよ、ずっと……」


 その呟きが、自分の心を一番深く刺した。


 *


 翌日から、しおりは図書室へ行かなくなった。


 一ノ瀬のことを避けた。芽衣の顔も、見られなかった。

 話しかけられても、うまく返せなかった。

 教室の空気が苦しかった。逃げ出したくなるほどに。


 けれど、逃げきれなかった。昼休み、教室で食事もせずに机に突っ伏していたしおりのもとに、静かに声が落ちてきた。


 「……佐伯さん」


 その声に、びくりと体が反応する。

 一ノ瀬だった。


 「話、できる?」


 顔を上げることができなかった。けれど、その場を離れることもできなかった。


 「——あのとき、見てたよね。俺と芽衣の……キス」


 その言葉に、しおりの心臓が跳ねた。

 やっぱり、気づいてたんだ。全部、見透かされていた。


 「でもあれ……芽衣が、いきなりだったんだ。俺……びっくりして、避けきれなかった。だからって言い訳にならないけど……」


 「……やめて」


 しおりは絞り出すように言った。


 「もういい。わたし……わかってるから。私なんかじゃ、最初から無理だったんだよね」


 「違う。そうじゃない」


 机の隣に立つ一ノ瀬の手が、しおりの手元にそっと伸ばされた。

 そのぬくもりに、しおりはまた、涙がこぼれそうになる。


 「俺……ずっと佐伯さんのこと、見てたよ。図書室で笑ってくれた顔も、目を伏せるときの仕草も。芽衣は……俺の親友。でも、それだけなんだ。たぶん、嫉妬したんだと思う。俺が、佐伯さんのこと見てるのが」


 しおりの中に、静かに何かが流れ込んできた。


 「それでも……キス、したでしょ……」


 「……ごめん。本当に、ごめん。だけど、ちゃんと話したかった。俺、もうごまかしたくなかったから」


 彼の声はまっすぐで、揺れていた。


 しおりはゆっくりと顔を上げ、一ノ瀬の目を見た。

 その瞳は、真剣だった。泣きそうだったのは、自分だけじゃなかった。


 「……私、もう、どうしたらいいのかわからない……」


 「……それでも。もう一度、図書室で会ってくれない?」


 その提案に、しおりはしばらく言葉を失っていた。


 けれど心の奥で、小さな声が叫んでいた。

 “もう一度、信じたい”と。

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