しおりは、学校に行けなかった。
あの日、芽衣と一ノ瀬のキスを見たあの瞬間から、胸の奥に張り詰めた何かが壊れてしまったようだった。
時間が止まったようで、でも、世界は容赦なく動き続けていた。朝が来て、昼が過ぎて、夕方が訪れて——それでも、心だけが置き去りにされたままだった。
ベッドの中、カーテンを閉めきった暗い部屋で、しおりは毛布に包まっていた。
スマホは通知が点いたままテーブルに置かれている。芽衣から、一ノ瀬から、何通もメッセージが届いていた。でも、開けなかった。読むのが怖かった。文字のひとつひとつが、自分を壊してしまいそうで。
「……なんで……」
ぽつりと呟く。声はかすれて、涙が喉の奥に詰まっていた。
——あのキスが、ただの冗談だったとしても。
——一ノ瀬が本当に好きだったのが、私だったとしても。
芽衣が「何も言わずに」キスをしたことが、ただただ痛かった。
信じていた。たった一人の、気を許せた女の子だったのに。
その事実が、一ノ瀬からの裏切りよりも、もっと深く心をえぐった。
3日間、学校を休んだ。
親は「風邪」と思っていた。熱もないのに、喉の奥がいつも痺れていて、涙が勝手に出てきた。
食欲もなく、眠っても夢の中に彼と芽衣が現れた。
——どんな顔をして、学校に戻ればいいの。
考えるだけで吐き気がした。けれど4日目の朝、目を覚ましたしおりは、不思議とベッドから身体を起こしていた。
「……もう、これ以上逃げても……」
鏡の中の自分は、少しやつれて、瞳の下にくまが浮いていた。
でも、制服に袖を通すと、わずかに“自分”を取り戻せた気がした。
*
教室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
誰もが一瞬だけ視線を向ける。けれど、すぐに目をそらす。
中には、何かをひそひそと話している生徒たちもいた。しおりは気づかないふりをして、自分の席まで歩いた。
机の中には、いつものように教科書とノート。
けれど、日常は戻ってこなかった。
しばらくして、昼休みのチャイムが鳴ったときだった。
後ろから声をかけられた。
「しおり……ちょっと、屋上、来てくれる……?」
振り返ると、そこには芽衣がいた。
数日ぶりに見たその顔は、意外にも、やつれていなかった。むしろ、決意を持ったような目をしていた。
しおりは無言で立ち上がった。断れなかった。
言葉を交わさなくても、避けてはいけないと直感していた。
*
屋上の風は、春の匂いがしていた。
柵の近くまで歩いてから、芽衣は立ち止まり、静かに口を開いた。
「……しおり、怒ってるよね。……ほんとに、ごめん」
その声は、泣きそうだった。けれど、しおりの胸には届かなかった。
「怒ってるよ。……でも、それだけじゃない」
しおりの声は、かすれていた。
体の奥から絞り出すような感情が、ようやく言葉になった。
「……あの時、私、全部……見ちゃった。二人が……キス、してるの」
「……うん。知ってた。しおりが、あそこにいたの」
芽衣は、しおりの視線を避けるように目を伏せた。
「……ごめん。本当は、ちゃんと話すつもりだった。でも、止められなかったの。……私も……私も、一ノ瀬くんのこと、好きになっちゃったの」
その瞬間、しおりの中で何かが崩れた。
——やっぱり、そうだったんだ。
「……なんで、言ってくれなかったの……?」
「言えなかった。しおりが一ノ瀬くんのこと、どれだけ好きか、知ってたから……でも、でもね……私だって……」
言い訳みたいな言葉が続いていく。
でも、もう聞きたくなかった。
「……やめて。聞きたくない……」
唇が震える。涙が溢れて止まらない。
「芽衣は、私のこと、親友って……言ってたよね……? だったらどうして、どうしてそんなこと、したの……!」
叫ぶような声が、屋上に響いた。
芽衣は言葉を失い、唇を噛みしめたまま何も言わなかった。
「……ごめん」
それだけを残して、芽衣はしおりの横を通り過ぎ、扉の向こうへと消えていった。
しおりはその場に崩れ落ちた。
風が頬をなでる。空が滲んで見える。
心が締めつけられる。苦しい。痛い。
こんな気持ち、誰にもわかってもらえない。
「……私だけが、バカみたいじゃん……」
涙が次から次へとあふれた。膝を抱え、声を殺して泣いた。
そのとき——
「……佐伯さん……?」
聞き慣れた声が、背後から落ちてきた。
その瞬間、時間が止まった。
ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは——一ノ瀬悠真だった。