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第4話「涙の屋上」

しおりは、学校に行けなかった。


 あの日、芽衣と一ノ瀬のキスを見たあの瞬間から、胸の奥に張り詰めた何かが壊れてしまったようだった。

 時間が止まったようで、でも、世界は容赦なく動き続けていた。朝が来て、昼が過ぎて、夕方が訪れて——それでも、心だけが置き去りにされたままだった。


 ベッドの中、カーテンを閉めきった暗い部屋で、しおりは毛布に包まっていた。

 スマホは通知が点いたままテーブルに置かれている。芽衣から、一ノ瀬から、何通もメッセージが届いていた。でも、開けなかった。読むのが怖かった。文字のひとつひとつが、自分を壊してしまいそうで。


 「……なんで……」


 ぽつりと呟く。声はかすれて、涙が喉の奥に詰まっていた。


 ——あのキスが、ただの冗談だったとしても。

 ——一ノ瀬が本当に好きだったのが、私だったとしても。


 芽衣が「何も言わずに」キスをしたことが、ただただ痛かった。

 信じていた。たった一人の、気を許せた女の子だったのに。


 その事実が、一ノ瀬からの裏切りよりも、もっと深く心をえぐった。


 3日間、学校を休んだ。

 親は「風邪」と思っていた。熱もないのに、喉の奥がいつも痺れていて、涙が勝手に出てきた。

 食欲もなく、眠っても夢の中に彼と芽衣が現れた。


 ——どんな顔をして、学校に戻ればいいの。


 考えるだけで吐き気がした。けれど4日目の朝、目を覚ましたしおりは、不思議とベッドから身体を起こしていた。


 「……もう、これ以上逃げても……」


 鏡の中の自分は、少しやつれて、瞳の下にくまが浮いていた。

 でも、制服に袖を通すと、わずかに“自分”を取り戻せた気がした。


 *


 教室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。


 誰もが一瞬だけ視線を向ける。けれど、すぐに目をそらす。

 中には、何かをひそひそと話している生徒たちもいた。しおりは気づかないふりをして、自分の席まで歩いた。


 机の中には、いつものように教科書とノート。

 けれど、日常は戻ってこなかった。


 しばらくして、昼休みのチャイムが鳴ったときだった。

 後ろから声をかけられた。


 「しおり……ちょっと、屋上、来てくれる……?」


 振り返ると、そこには芽衣がいた。

 数日ぶりに見たその顔は、意外にも、やつれていなかった。むしろ、決意を持ったような目をしていた。


 しおりは無言で立ち上がった。断れなかった。

 言葉を交わさなくても、避けてはいけないと直感していた。


 *


 屋上の風は、春の匂いがしていた。


 柵の近くまで歩いてから、芽衣は立ち止まり、静かに口を開いた。


 「……しおり、怒ってるよね。……ほんとに、ごめん」


 その声は、泣きそうだった。けれど、しおりの胸には届かなかった。


 「怒ってるよ。……でも、それだけじゃない」


 しおりの声は、かすれていた。

 体の奥から絞り出すような感情が、ようやく言葉になった。


 「……あの時、私、全部……見ちゃった。二人が……キス、してるの」


 「……うん。知ってた。しおりが、あそこにいたの」


 芽衣は、しおりの視線を避けるように目を伏せた。


 「……ごめん。本当は、ちゃんと話すつもりだった。でも、止められなかったの。……私も……私も、一ノ瀬くんのこと、好きになっちゃったの」


 その瞬間、しおりの中で何かが崩れた。


 ——やっぱり、そうだったんだ。


 「……なんで、言ってくれなかったの……?」


 「言えなかった。しおりが一ノ瀬くんのこと、どれだけ好きか、知ってたから……でも、でもね……私だって……」


 言い訳みたいな言葉が続いていく。

 でも、もう聞きたくなかった。


 「……やめて。聞きたくない……」


 唇が震える。涙が溢れて止まらない。


 「芽衣は、私のこと、親友って……言ってたよね……? だったらどうして、どうしてそんなこと、したの……!」


 叫ぶような声が、屋上に響いた。

 芽衣は言葉を失い、唇を噛みしめたまま何も言わなかった。


 「……ごめん」


 それだけを残して、芽衣はしおりの横を通り過ぎ、扉の向こうへと消えていった。


 しおりはその場に崩れ落ちた。


 風が頬をなでる。空が滲んで見える。


 心が締めつけられる。苦しい。痛い。

 こんな気持ち、誰にもわかってもらえない。


 「……私だけが、バカみたいじゃん……」


 涙が次から次へとあふれた。膝を抱え、声を殺して泣いた。


 そのとき——


 「……佐伯さん……?」


 聞き慣れた声が、背後から落ちてきた。


 その瞬間、時間が止まった。


 ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは——一ノ瀬悠真だった。

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