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第5話「涙の屋上」(後編)

「……佐伯さん……?」


 雨が、しとしとと降り始めていた。


 視界の端に、ぼやけた人影。

 その声を聞いた瞬間、しおりはまるで夢を見ているようだった。


 ゆっくりと顔を上げると、制服の肩を濡らしながら一ノ瀬悠真が立っていた。

 髪がわずかに濡れ、彼の表情は戸惑いと困惑、それともうひとつ……心配の色を滲ませていた。


「……どうしたの……? そんなに泣いて……」


 しおりは答えられなかった。


 口を開こうとしても、言葉が喉に引っかかって出てこない。涙で霞んだ視界に彼の姿がにじむ。

 震える肩。濡れた髪。握った拳。


 彼が数歩、近づいてくるたびに、心が軋む音がした。

 やめて。来ないで。見ないで。


 でも、声にできなかった。


「佐伯さん……? 本当に、大丈夫……?」


 心配そうな声が、胸をえぐる。


 “優しい”その響きが、今は何より苦しかった。

 何も知らないくせに、って、思ってしまった。

 私がどんな思いでここにいるのか、知らないくせに——


 ──その瞬間、過去の記憶がフラッシュバックのように、しおりの脳裏に甦った。


 中学2年のとき。


「ねぇ、佐伯さんってさ、なんか気持ち悪くない?」


「わかる。なんかジトッとしてるし、いつも黙っててさ」


 ノートに落書きをされた。

 筆箱の中にゴミを入れられた。

 体育の時間にはペアができず、一人だけ残されて、笑われた。


「なんで私だけ……?」


 先生には、言えなかった。

 親にも、友達にも、誰にも言えなかった。

 “そんなことで傷つくな”って、言われる気がして。


 だから、ずっと黙っていた。

 教室の隅っこで、声を殺して泣く毎日。


 唯一の救いは、本の中の世界だった。

 登場人物たちが誰かを想い、言葉にし、抱きしめ合う物語。

 そこだけが、自分が息をできる場所だった。



屋上の雨が、しおりを現実へ引き戻す。


 彼女の制服は濡れ、髪からは雫がぽとぽとと落ちていた。


 一ノ瀬がそっと差し出してきた手を、しおりは無意識に振り払っていた。


「……やめて……」


 ようやく出た声は、掠れていた。


「……もう、私に優しくしないで。……お願いだから……」


 一ノ瀬は驚いたように動きを止めた。


「……俺、何か、した?」


 その言葉に、胸の奥にあったものが破裂した。


「したよ……! ……あの時、あの場所で……芽衣と……っ」


 声が震え、嗚咽が混ざる。


「……見たの……二人が……キスしてるの……!」


 叫んだその瞬間、雨が強くなった。

 冷たい雨粒が顔に打ちつけられても、涙と混ざってもう何もわからなかった。


 一ノ瀬の顔が一瞬、青ざめる。


「……あれは、違う。俺……本当に、何も考えてなかった。芽衣が突然——」


「違う? そんなの、関係ないよ……っ!」


 嗚咽混じりに声を張り上げる。

 どれだけ冷静になろうとしても、心が追いつかない。


「……私、ずっと怖かったんだよ……」


 しおりの声が小さくなる。


「……また誰かに、裏切られるんじゃないかって。……また、誰にも必要とされないんじゃないかって……」


 目の前が真っ白になって、しおりはその場に崩れ落ちた。


 両手で顔を覆って泣く。

 声が漏れても止められなかった。


 でも次の瞬間——そっと、雨の中で誰かがしおりを抱きしめた。


 柔らかく、あたたかい、腕。


 それは、一ノ瀬だった。


「……ごめん」


 彼の声が耳元で震える。


「……本当に、ごめん。俺、ちゃんと向き合うべきだった。……でも、佐伯さんが、こんなに傷ついてるなんて思わなくて……」


 しおりは、彼の胸に顔を埋めた。

 雨の音と、一ノ瀬の心音が混ざって、自分の存在がようやく“ここ”にあるような気がした。


 「……私、どうすればいいの……?」


 雨の中でつぶやくその声は、まるで子供のように震えていた。


 「どうすれば、好きな人を……信じられるようになるの……?」


 彼は何も言わなかった。ただ、しおりを抱きしめ続けていた。


 時間が止まっていた。


 冷たい雨の中で、二人だけがそこに取り残されたようだった。



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