「……佐伯さん……?」
雨が、しとしとと降り始めていた。
視界の端に、ぼやけた人影。
その声を聞いた瞬間、しおりはまるで夢を見ているようだった。
ゆっくりと顔を上げると、制服の肩を濡らしながら一ノ瀬悠真が立っていた。
髪がわずかに濡れ、彼の表情は戸惑いと困惑、それともうひとつ……心配の色を滲ませていた。
「……どうしたの……? そんなに泣いて……」
しおりは答えられなかった。
口を開こうとしても、言葉が喉に引っかかって出てこない。涙で霞んだ視界に彼の姿がにじむ。
震える肩。濡れた髪。握った拳。
彼が数歩、近づいてくるたびに、心が軋む音がした。
やめて。来ないで。見ないで。
でも、声にできなかった。
「佐伯さん……? 本当に、大丈夫……?」
心配そうな声が、胸をえぐる。
“優しい”その響きが、今は何より苦しかった。
何も知らないくせに、って、思ってしまった。
私がどんな思いでここにいるのか、知らないくせに——
──その瞬間、過去の記憶がフラッシュバックのように、しおりの脳裏に甦った。
中学2年のとき。
「ねぇ、佐伯さんってさ、なんか気持ち悪くない?」
「わかる。なんかジトッとしてるし、いつも黙っててさ」
ノートに落書きをされた。
筆箱の中にゴミを入れられた。
体育の時間にはペアができず、一人だけ残されて、笑われた。
「なんで私だけ……?」
先生には、言えなかった。
親にも、友達にも、誰にも言えなかった。
“そんなことで傷つくな”って、言われる気がして。
だから、ずっと黙っていた。
教室の隅っこで、声を殺して泣く毎日。
唯一の救いは、本の中の世界だった。
登場人物たちが誰かを想い、言葉にし、抱きしめ合う物語。
そこだけが、自分が息をできる場所だった。
屋上の雨が、しおりを現実へ引き戻す。
彼女の制服は濡れ、髪からは雫がぽとぽとと落ちていた。
一ノ瀬がそっと差し出してきた手を、しおりは無意識に振り払っていた。
「……やめて……」
ようやく出た声は、掠れていた。
「……もう、私に優しくしないで。……お願いだから……」
一ノ瀬は驚いたように動きを止めた。
「……俺、何か、した?」
その言葉に、胸の奥にあったものが破裂した。
「したよ……! ……あの時、あの場所で……芽衣と……っ」
声が震え、嗚咽が混ざる。
「……見たの……二人が……キスしてるの……!」
叫んだその瞬間、雨が強くなった。
冷たい雨粒が顔に打ちつけられても、涙と混ざってもう何もわからなかった。
一ノ瀬の顔が一瞬、青ざめる。
「……あれは、違う。俺……本当に、何も考えてなかった。芽衣が突然——」
「違う? そんなの、関係ないよ……っ!」
嗚咽混じりに声を張り上げる。
どれだけ冷静になろうとしても、心が追いつかない。
「……私、ずっと怖かったんだよ……」
しおりの声が小さくなる。
「……また誰かに、裏切られるんじゃないかって。……また、誰にも必要とされないんじゃないかって……」
目の前が真っ白になって、しおりはその場に崩れ落ちた。
両手で顔を覆って泣く。
声が漏れても止められなかった。
でも次の瞬間——そっと、雨の中で誰かがしおりを抱きしめた。
柔らかく、あたたかい、腕。
それは、一ノ瀬だった。
「……ごめん」
彼の声が耳元で震える。
「……本当に、ごめん。俺、ちゃんと向き合うべきだった。……でも、佐伯さんが、こんなに傷ついてるなんて思わなくて……」
しおりは、彼の胸に顔を埋めた。
雨の音と、一ノ瀬の心音が混ざって、自分の存在がようやく“ここ”にあるような気がした。
「……私、どうすればいいの……?」
雨の中でつぶやくその声は、まるで子供のように震えていた。
「どうすれば、好きな人を……信じられるようになるの……?」
彼は何も言わなかった。ただ、しおりを抱きしめ続けていた。
時間が止まっていた。
冷たい雨の中で、二人だけがそこに取り残されたようだった。