屋上での雨の中、しおりは一ノ瀬に抱きしめられながら、ずっと泣いていた。
湿った制服にも、彼の温もりにもすがるようにして、心の奥底にしまいこんでいた不安と悲しみが、すべて流れ出していくようだった。
一ノ瀬はずっと黙っていた。言葉はなくても、その腕の力加減と、体温だけで安心できた。
やがてしおりが泣き止んだとき、彼はそっと離れ、少し距離を置くようにして顔を見せた。
「……しおり、顔……見せて」
その声は震えていたけれど、真剣そのものだった。
しおりはゆっくりと顔を上げ、濡れた唇を震わせながらも彼を見つめた。
「……ごめんね」
それが彼の最初の言葉だった。
しおりの胸を締めつけるその響きに、彼女は自然と目を閉じた。
「俺のせいで、傷つけてしまって、本当にごめん」
しおりは小さく首を振った。
雨は止む気配さえなく、二人の周りだけ世界が静かに揺れていた。
「芽衣のこと……いまだにわからないけど、でも、俺がしっかりしなきゃいけなかった。俺がちゃんと守らなきゃいけなかったんだ」
その言葉に、しおりの胸がぎゅっと締めつけられた。
「うん……私も、言わなきゃよかったのかも」
「……何を?」
そっと問いかけられても、しおりはその言葉の続きを飲み込んだ。
「言わないで……私はただ、今は静かにしてたい」
「……そうか」
しおりの気持ちを察して、彼はそっと頷いた。
しばらく二人は、ただ雨音を聴いていた。
雨が完全に止むまで、屋上で寄り添ったまま。
「──しおり」
彼が呼ぶ声は、肩で聞こえるだけだった。
「うん……」
「──俺のこと、まだ信じられる?」
その問いに、しおりは言葉に詰まった。心の中ではずっと答えを探していた。
「……うん、でも……」
「でも?」
また距離を保つように離れて、彼はじっと見つめてきた。
「だって……怖い。もう、誰かに裏切られるのが、怖い」
しおりの声は震えていた。彼女は初めて、自分の痛みに正直に向き合っていた。
「わかる。俺も怖いんだよ」
彼はそっと手を伸ばし、しおりの唇を優しく撫でた。
「芽衣とキスしたこと……ずっと後悔すると思う。でも、ここで現実から逃げずに、僕が一緒に居たいと思ったのが、しおりだった。だから……そのしおりを、俺は信じたい」
しおりの瞳に、また涙がにじんだ。
「……私を好きでいてくれるの?」
「うん」
夕暮れの屋上、まだ微かに湿った空気の中。
しおりは制服の袖で自分の頬を拭っていた。けれど、一ノ瀬はその手をそっと止めた。
「……いいよ、泣いても」
その言葉だけで、しおりの胸がまたきゅっと鳴る。
「でも……あなたの前では、もう泣きたくないの……」
彼女のかすれた声に、一ノ瀬は黙って首を振った。
そして、何かを決意したように、しおりの頬に手を添えた。
「じゃあ……泣かないようにするね」
「え……?」
次の瞬間。
彼の唇が、そっと彼女のそれに触れた。
湿った空気の中で、それは信じられないほど柔らかく、そして長く続いた。
彼の指先がそっと頬をなぞり、しおりの肩に腕が回された。
深く、深く、確かめるように。
それは言葉よりも優しい告白であり、
心の痛みをそっと溶かしてくれるような、穏やかなキスだった。
しおりは一瞬、息を止めるようにして目を閉じた。
心の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
──こんなに優しいキスを、私は知らなかった。
彼の唇がわずかに動くたび、体が熱を帯びていく。
苦しくて、でも幸せで。
もう二度と、離れたくないと思ってしまった。
やがて彼は、そっと唇を離した。
額を彼女の額に当てながら、静かに囁く。
「……大丈夫。俺が、しおりのこと全部、包んであげるから」
しおりの目から、自然とまた涙がこぼれた。
でも、それは悲しみの涙じゃなかった。
「……ありがとう」
そう言って、しおりは自分からもそっと彼の胸に顔を埋めた。
もう一人じゃない。そう思えたから。
長いキスのあと、しおりは息をゆっくりと整えながら、そっと一ノ瀬を見上げた。
彼の目は真っすぐで、だけどどこか切なげだった。
「……しおり」
「……うん」
一ノ瀬の指先が、しおりの頬をなぞる。
そして、そっと彼女の胸元に伸びた。
制服のカッターシャツの、上のボタンに、彼の指がかかった。
しおりの体が、ぴくんとわずかに反応する。
「怖かったら、言って」
その言葉に、しおりは小さく首を振った。
「……こわい、けど……あなたが触れてくれるなら、嫌じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、一ノ瀬は少しだけ眉を下げ、真剣な眼差しで彼女を見つめ返した。
そして、ゆっくりとボタンを一つ外す。
シャツの間から覗く、うっすらと白い肌。
空気が触れただけで、しおりは自分の心臓が高鳴るのを感じた。
彼の指が、そっとその肌に触れようとしたとき──
「……待って」
しおりが小さく声を上げた。
彼の手が、ぴたりと止まる。
「嫌だった……?」と一ノ瀬が問おうとしたそのとき、しおりはかすかに微笑みながら、首を振った。
「……ごめん、違うの。……嬉しいの。でも、いまの私じゃ……ちゃんと受け止めきれないかも」
その言葉に、一ノ瀬は目を見開き、そして静かに手を引っ込めた。
何も言わず、ただしおりの肩をそっと抱き寄せた。
「……大丈夫。俺も、同じ気持ちだった」
「……ほんとに?」
「うん。……しおりのこと、大切にしたいんだ。ちゃんと、ゆっくり」
その言葉に、しおりの目からまた一筋の涙がこぼれた。
「ありがとう……そう言ってくれて」
二人は、もうそれ以上言葉を交わさなかった。
けれど、重なった肩と肩、手と手のあたたかさが、何よりも強く想いを伝えていた。