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第6話「心に触れて」

屋上での雨の中、しおりは一ノ瀬に抱きしめられながら、ずっと泣いていた。

 湿った制服にも、彼の温もりにもすがるようにして、心の奥底にしまいこんでいた不安と悲しみが、すべて流れ出していくようだった。


 一ノ瀬はずっと黙っていた。言葉はなくても、その腕の力加減と、体温だけで安心できた。


 やがてしおりが泣き止んだとき、彼はそっと離れ、少し距離を置くようにして顔を見せた。


「……しおり、顔……見せて」


 その声は震えていたけれど、真剣そのものだった。

 しおりはゆっくりと顔を上げ、濡れた唇を震わせながらも彼を見つめた。


「……ごめんね」


 それが彼の最初の言葉だった。

 しおりの胸を締めつけるその響きに、彼女は自然と目を閉じた。


「俺のせいで、傷つけてしまって、本当にごめん」



 しおりは小さく首を振った。

 雨は止む気配さえなく、二人の周りだけ世界が静かに揺れていた。


「芽衣のこと……いまだにわからないけど、でも、俺がしっかりしなきゃいけなかった。俺がちゃんと守らなきゃいけなかったんだ」


 その言葉に、しおりの胸がぎゅっと締めつけられた。


「うん……私も、言わなきゃよかったのかも」


「……何を?」


 そっと問いかけられても、しおりはその言葉の続きを飲み込んだ。


「言わないで……私はただ、今は静かにしてたい」


「……そうか」


 しおりの気持ちを察して、彼はそっと頷いた。

 しばらく二人は、ただ雨音を聴いていた。


 雨が完全に止むまで、屋上で寄り添ったまま。


「──しおり」


 彼が呼ぶ声は、肩で聞こえるだけだった。


「うん……」


「──俺のこと、まだ信じられる?」


 その問いに、しおりは言葉に詰まった。心の中ではずっと答えを探していた。


「……うん、でも……」


「でも?」


 また距離を保つように離れて、彼はじっと見つめてきた。


「だって……怖い。もう、誰かに裏切られるのが、怖い」


 しおりの声は震えていた。彼女は初めて、自分の痛みに正直に向き合っていた。


「わかる。俺も怖いんだよ」


 彼はそっと手を伸ばし、しおりの唇を優しく撫でた。


「芽衣とキスしたこと……ずっと後悔すると思う。でも、ここで現実から逃げずに、僕が一緒に居たいと思ったのが、しおりだった。だから……そのしおりを、俺は信じたい」


 しおりの瞳に、また涙がにじんだ。


「……私を好きでいてくれるの?」


「うん」



夕暮れの屋上、まだ微かに湿った空気の中。

 しおりは制服の袖で自分の頬を拭っていた。けれど、一ノ瀬はその手をそっと止めた。


「……いいよ、泣いても」


 その言葉だけで、しおりの胸がまたきゅっと鳴る。


「でも……あなたの前では、もう泣きたくないの……」


 彼女のかすれた声に、一ノ瀬は黙って首を振った。

 そして、何かを決意したように、しおりの頬に手を添えた。


「じゃあ……泣かないようにするね」


「え……?」


 次の瞬間。

 彼の唇が、そっと彼女のそれに触れた。


 湿った空気の中で、それは信じられないほど柔らかく、そして長く続いた。

 彼の指先がそっと頬をなぞり、しおりの肩に腕が回された。

 深く、深く、確かめるように。


 それは言葉よりも優しい告白であり、

 心の痛みをそっと溶かしてくれるような、穏やかなキスだった。


 しおりは一瞬、息を止めるようにして目を閉じた。

 心の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。


 ──こんなに優しいキスを、私は知らなかった。


 彼の唇がわずかに動くたび、体が熱を帯びていく。

 苦しくて、でも幸せで。

 もう二度と、離れたくないと思ってしまった。


 やがて彼は、そっと唇を離した。

 額を彼女の額に当てながら、静かに囁く。


「……大丈夫。俺が、しおりのこと全部、包んであげるから」


 しおりの目から、自然とまた涙がこぼれた。

 でも、それは悲しみの涙じゃなかった。


「……ありがとう」


 そう言って、しおりは自分からもそっと彼の胸に顔を埋めた。

 もう一人じゃない。そう思えたから。


長いキスのあと、しおりは息をゆっくりと整えながら、そっと一ノ瀬を見上げた。

 彼の目は真っすぐで、だけどどこか切なげだった。


「……しおり」


「……うん」


 一ノ瀬の指先が、しおりの頬をなぞる。

 そして、そっと彼女の胸元に伸びた。


 制服のカッターシャツの、上のボタンに、彼の指がかかった。

 しおりの体が、ぴくんとわずかに反応する。


「怖かったら、言って」


 その言葉に、しおりは小さく首を振った。


「……こわい、けど……あなたが触れてくれるなら、嫌じゃない」


 その言葉を聞いた瞬間、一ノ瀬は少しだけ眉を下げ、真剣な眼差しで彼女を見つめ返した。

 そして、ゆっくりとボタンを一つ外す。


 シャツの間から覗く、うっすらと白い肌。

 空気が触れただけで、しおりは自分の心臓が高鳴るのを感じた。


 彼の指が、そっとその肌に触れようとしたとき──


「……待って」


 しおりが小さく声を上げた。

 彼の手が、ぴたりと止まる。


 「嫌だった……?」と一ノ瀬が問おうとしたそのとき、しおりはかすかに微笑みながら、首を振った。


「……ごめん、違うの。……嬉しいの。でも、いまの私じゃ……ちゃんと受け止めきれないかも」


 その言葉に、一ノ瀬は目を見開き、そして静かに手を引っ込めた。

 何も言わず、ただしおりの肩をそっと抱き寄せた。


「……大丈夫。俺も、同じ気持ちだった」


「……ほんとに?」


「うん。……しおりのこと、大切にしたいんだ。ちゃんと、ゆっくり」


 その言葉に、しおりの目からまた一筋の涙がこぼれた。


「ありがとう……そう言ってくれて」


 二人は、もうそれ以上言葉を交わさなかった。

 けれど、重なった肩と肩、手と手のあたたかさが、何よりも強く想いを伝えていた。

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