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第7話「心がほどけていく、その瞬間」

あの屋上でのことが、まるで夢だったかのように感じる朝。

 けれど、シャツの襟に指を添えるたび、しおりの胸の奥がじんわりと熱くなった。


(……あのとき、私……)


 一ノ瀬に抱き寄せられ、そっと触れられそうになって、それを止めた。

 自分の弱さを知った瞬間でもあり、でも確かに、彼に“大切にされている”ことを感じた瞬間だった。


 教室のドアを開けると、すでに一ノ瀬は席についていて、何かノートを見ていた。

 彼はしおりに気づくと、そっと微笑んだ。

 まるで「おはよう」と言葉の代わりに差し出されたような、優しい眼差しだった。


 (……好きだな)


 しおりの胸が、また熱くなる。


 「おはよう、しおり」


 彼が普通に声をかけてくるだけで、しおりの世界はきらきらと音を立てる。


 「……おはよう」


 彼の隣を通り過ぎるだけで、鼓動がうるさいくらいになるのに、それを彼はどうしてこんなにも穏やかに受け止めてくれるのだろう。


昼休み。廊下の窓辺に並んで座る二人。

 校舎の向こうには、朝の雨が嘘のように晴れた空が広がっていた。


 「……昨日のこと、ちゃんと覚えてる?」


 不意にしおりが尋ねると、一ノ瀬は少し驚いたような顔をした。


 「もちろん。……忘れるわけないよ」


 そう言って、彼は手を伸ばしてしおりの指先に触れた。

 昨日の夜の余韻のように、静かで、でも確かに熱を帯びた感触。


 「俺……正直、あのとき、もう少し触れてしまいたかった」

 「……っ」


 言葉に詰まるしおりに、一ノ瀬は続けた。


 「でも、止めてくれて、よかったって思ってる」


 「……え?」


 「俺、焦ってたんだと思う。……好きな気持ちが強くなりすぎて、もっとしおりに触れたくなって、でもそれは“自分のため”だったかもしれないって……」


 一ノ瀬は、はにかむように笑った。


 「しおりが、ちゃんと自分の気持ちを言ってくれたから、俺もちゃんと“好き”を大事にできた。……ありがとう」


 しおりの目が潤んだ。


 「私こそ……ありがとう。……あなたのそばにいると、自分の弱いところも、全部出せちゃうの。……でも、それでいいって、思えるの」


 小さな沈黙が流れた。

 でも、それは気まずいものじゃなく、あたたかい空気だった。


帰り道、一ノ瀬が突然立ち止まった。


 「ねえ、しおり。今度の土曜日、どっか行かない?」


 「……どこかって?」


 「水族館とか。……デート、したい」


 「っ……デート……」


 口にしただけで、顔が一気に熱くなった。


 「でも……」


 しおりはふと、過去の自分の姿を思い出す。

 いじめられていた頃。誰かと並んで歩くことすら怖かった。

 それが今、誰かと“外に出たい”と思っている。


(私は……変わろうとしてる)


 ゆっくりと、でも確かに。


 「……行きたい。……あなたとなら」


 一ノ瀬は満面の笑みを浮かべ、しおりの手を強く握った。


しおりの手を握ったまま、一ノ瀬はゆっくりと歩き出す。

 けれど、ほんの数メートル先の植え込みの陰で、ふいに彼は立ち止まった。


「……ねぇ、しおり。ちょっと、こっち来て」


 彼に手を引かれ、しおりは人目のない小さな裏道に誘われる。

 静まり返った夕暮れの空気。セミの声だけが遠くに響いていた。


 「どうしたの……?」


 問いかける間もなく、彼の手がそっと、彼女の頬に触れた。

 目が合った瞬間、唇が重なる。


 さっきより、深く、熱を孕んだキス。

 しおりの背中が木の幹にそっと押しつけられ、逃げ場がなくなる。

 一ノ瀬の手が彼女の髪を梳きながら、唇の奥へと優しく舌を差し入れる。


「……っ……」


 しおりは目を閉じた。

 溢れそうなほどの感情に、呼吸が浅くなる。

 でも、怖くはなかった。むしろ——


 「……ドキドキ、してるね」


 一ノ瀬の囁きが、耳たぶにかかる。

 その吐息だけで、体が跳ねるように反応してしまう。


 「しおりのここ、……触れてみてもいい?」


 そう言って彼の指先が、シャツの胸元のボタンにそっとかかる。

 返事を待つように、彼は見つめてきた。


 しおりは喉を鳴らして息をのみ、そして、ほんのわずかにうなずいた。


 「……うん……でも、やさしく、して……?」


 カチ、という音を立てて、ボタンが一つ外される。

 その下の肌に、彼の指がすっと触れた。


 指先が、まるで花びらに触れるように胸元をなぞる。

 その一瞬、体中の感覚が集中して、しおりは小さく震えた。


 「ごめん、……止まらなくなりそう」


 「……いいよ」


 声にならない声が喉を抜ける。

 でも、胸の奥では確かに“愛されたい”という気持ちが芽生えていた。


 彼はそれ以上深くは求めず、シャツのボタンにそっと触れたまま、しおりの額にキスを落とす。


 「今日はここまでにする。……俺、約束するよ。しおりの心が追いつくまで、ちゃんと待つ」


 その言葉に、胸がきゅっと鳴る。

 しおりは静かに笑って、彼の胸元に額を預けた。


 「……ありがとう。すき。すきだよ……」


 彼女の声は震えていたけど、確かに、熱を持っていた。

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