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第8話「愛情を伝える勇気」

土曜日の朝、鏡の前でしおりは制服じゃない自分に戸惑っていた。

 ふわりと揺れる淡いブルーのワンピース。

 髪は軽く巻いて、リップもほんの少しだけ。


(……大丈夫かな、こんな私で)


 スマホが震える。一ノ瀬からのLINEだった。


「もうすぐ駅着くよ。焦らなくていいから、ゆっくりおいで」


 その文字を見て、しおりは小さく息を吐く。


(……大丈夫。彼が、そう言ってくれてる)


待ち合わせの駅前。一ノ瀬は私服でも変わらず整っていて、どこか大人っぽく見えた。

 目が合うと、彼は少し照れたように笑った。


「……めちゃくちゃ、かわいい」


「……なっ、なに言ってるの」


 顔が一気に熱くなる。

 でも、内心は嬉しくて仕方がなかった。


水族館に入ると、静かな青い光がふたりを包む。

 小さな魚たちが泳ぐトンネルをくぐるたび、しおりの心は不思議と落ち着いていった。


「……水って、安心するね」


 「うん。しおりがここ、好きそうだなって思って」


 クラゲのゾーンでは、彼が小声で囁いた。


 「この光に包まれてると……なんか、触れたくなる」


 そう言って、彼はしおりの手をそっと握った。

 手のひらが合わさった瞬間、胸が跳ねた。


ベンチに腰掛け、しばらく並んで水槽を眺めていた。

 けれど、静けさのなかで、どんどん鼓動だけが大きくなる。


「ねぇ……」


 しおりが意を決して口を開いた。


「……昨日のこと、あのあとずっと考えてた」


「うん……」


「私……ちゃんと、あなたのこと、好きなんだって気づいた。……ちゃんと、私からも伝えたいって思った」


 言い終えた瞬間、しおりの目に涙が溜まっていた。

 一ノ瀬は驚いたように見つめ、それから、そっとしおりの頬に手を伸ばした。


「……ありがとう。そう言ってもらえて、本当に嬉しいよ」


静かな展示ゾーンの隅、誰もいない休憩ベンチに腰掛けると、一ノ瀬が言った。


「……ちょっとだけ、キスしてもいい?」


 しおりは小さくうなずく。

 次の瞬間、唇が重なった。


 昼の光ではなく、水の揺らめきの中で交わされるキス。

 その感触は、夜の屋上よりも優しく、でもずっと深かった。


 唇を離したあと、彼の指がまたそっと胸元へ。


 「……この前は、止めたよね」


 「うん……」


 「でも、今日は……大丈夫?」


 しおりは一瞬戸惑い、それでも自分の中にある答えを探し出した。


「……うん、大丈夫。……あなたのこと、信じてるから」


 その言葉を聞いた彼は、優しくしおりを抱きしめ、シャツの上からそっと胸元に手を添えた。

 指先の動きは慎重で、でも熱を持っていた。


「しおり……苦しかったら、言って」


「……ううん、ちがう……なんか、安心する」


 彼の手のひらから、しおりの鼓動が伝わっていくようだった。

 身体の距離が縮まっても、心はより深くつながっていた。


水族館を出るころには、空はすっかり夕暮れ色になっていた。

 駅のホームで、しおりは一ノ瀬の制服の袖をぎゅっとつかんだ。


「今日は、すごく……幸せだった」


 「俺も。……もっと、しおりのこと、知りたくなったよ」


 「……私も」


 電車が来るアナウンスが鳴る。

 ふたりは最後にもう一度、静かにキスを交わした。


 「じゃあ……また月曜、教室で」


 「うん。……また、月曜」


電車に乗り込んで、しおりは窓際の席に腰掛けた。

 ガタン、ゴトン……規則正しく響く音の中で、じんわりと熱が残る手のひらを見つめる。


(……さっき、触れてくれた指の感覚……まだ、消えない)


 唇も、胸元も、そして何より、心の奥がずっと熱を持っていた。

 水族館で過ごした時間、一ノ瀬の目に映る自分。

 彼が手を重ねてくれたときの体温。

 そして……キスのあとに言ってくれた、あの言葉。


(わたし……こんなに幸せで、いいのかな)


 視線を落とすと、スカートの上に置いた手が震えていた。

 心が、ふわふわと宙に浮いていくみたいに軽くて、でも同時に甘くて苦しい。


 窓の外に流れる夕景は、今日だけの特別な色に見えた。

 胸の奥で高鳴る鼓動が、いつか一ノ瀬に聞こえてしまいそうで、でもそれを止めたくなくて。


(また、早く会いたい……)


 そう思った瞬間、スマホが震えた。

 一ノ瀬からのメッセージだった。


「しおり、今どこ? 無事に電車乗れた?」


「うん、大丈夫。さっき乗ったよ。今日はほんとにありがとう」


「こっちこそ。……しおりの全部がかわいかった。会えてよかった」


 その言葉に、また胸が跳ねる。


 頬に手を当てて、そっと目を閉じた。

 電車の揺れに身を任せながら、彼の声を思い出す。


(……また会える。次は、もっと自分からも……)


 ふわりと笑ったその顔を、窓ガラスが映していた。

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