土曜日の朝、鏡の前でしおりは制服じゃない自分に戸惑っていた。
ふわりと揺れる淡いブルーのワンピース。
髪は軽く巻いて、リップもほんの少しだけ。
(……大丈夫かな、こんな私で)
スマホが震える。一ノ瀬からのLINEだった。
「もうすぐ駅着くよ。焦らなくていいから、ゆっくりおいで」
その文字を見て、しおりは小さく息を吐く。
(……大丈夫。彼が、そう言ってくれてる)
待ち合わせの駅前。一ノ瀬は私服でも変わらず整っていて、どこか大人っぽく見えた。
目が合うと、彼は少し照れたように笑った。
「……めちゃくちゃ、かわいい」
「……なっ、なに言ってるの」
顔が一気に熱くなる。
でも、内心は嬉しくて仕方がなかった。
水族館に入ると、静かな青い光がふたりを包む。
小さな魚たちが泳ぐトンネルをくぐるたび、しおりの心は不思議と落ち着いていった。
「……水って、安心するね」
「うん。しおりがここ、好きそうだなって思って」
クラゲのゾーンでは、彼が小声で囁いた。
「この光に包まれてると……なんか、触れたくなる」
そう言って、彼はしおりの手をそっと握った。
手のひらが合わさった瞬間、胸が跳ねた。
ベンチに腰掛け、しばらく並んで水槽を眺めていた。
けれど、静けさのなかで、どんどん鼓動だけが大きくなる。
「ねぇ……」
しおりが意を決して口を開いた。
「……昨日のこと、あのあとずっと考えてた」
「うん……」
「私……ちゃんと、あなたのこと、好きなんだって気づいた。……ちゃんと、私からも伝えたいって思った」
言い終えた瞬間、しおりの目に涙が溜まっていた。
一ノ瀬は驚いたように見つめ、それから、そっとしおりの頬に手を伸ばした。
「……ありがとう。そう言ってもらえて、本当に嬉しいよ」
静かな展示ゾーンの隅、誰もいない休憩ベンチに腰掛けると、一ノ瀬が言った。
「……ちょっとだけ、キスしてもいい?」
しおりは小さくうなずく。
次の瞬間、唇が重なった。
昼の光ではなく、水の揺らめきの中で交わされるキス。
その感触は、夜の屋上よりも優しく、でもずっと深かった。
唇を離したあと、彼の指がまたそっと胸元へ。
「……この前は、止めたよね」
「うん……」
「でも、今日は……大丈夫?」
しおりは一瞬戸惑い、それでも自分の中にある答えを探し出した。
「……うん、大丈夫。……あなたのこと、信じてるから」
その言葉を聞いた彼は、優しくしおりを抱きしめ、シャツの上からそっと胸元に手を添えた。
指先の動きは慎重で、でも熱を持っていた。
「しおり……苦しかったら、言って」
「……ううん、ちがう……なんか、安心する」
彼の手のひらから、しおりの鼓動が伝わっていくようだった。
身体の距離が縮まっても、心はより深くつながっていた。
水族館を出るころには、空はすっかり夕暮れ色になっていた。
駅のホームで、しおりは一ノ瀬の制服の袖をぎゅっとつかんだ。
「今日は、すごく……幸せだった」
「俺も。……もっと、しおりのこと、知りたくなったよ」
「……私も」
電車が来るアナウンスが鳴る。
ふたりは最後にもう一度、静かにキスを交わした。
「じゃあ……また月曜、教室で」
「うん。……また、月曜」
電車に乗り込んで、しおりは窓際の席に腰掛けた。
ガタン、ゴトン……規則正しく響く音の中で、じんわりと熱が残る手のひらを見つめる。
(……さっき、触れてくれた指の感覚……まだ、消えない)
唇も、胸元も、そして何より、心の奥がずっと熱を持っていた。
水族館で過ごした時間、一ノ瀬の目に映る自分。
彼が手を重ねてくれたときの体温。
そして……キスのあとに言ってくれた、あの言葉。
(わたし……こんなに幸せで、いいのかな)
視線を落とすと、スカートの上に置いた手が震えていた。
心が、ふわふわと宙に浮いていくみたいに軽くて、でも同時に甘くて苦しい。
窓の外に流れる夕景は、今日だけの特別な色に見えた。
胸の奥で高鳴る鼓動が、いつか一ノ瀬に聞こえてしまいそうで、でもそれを止めたくなくて。
(また、早く会いたい……)
そう思った瞬間、スマホが震えた。
一ノ瀬からのメッセージだった。
「しおり、今どこ? 無事に電車乗れた?」
「うん、大丈夫。さっき乗ったよ。今日はほんとにありがとう」
「こっちこそ。……しおりの全部がかわいかった。会えてよかった」
その言葉に、また胸が跳ねる。
頬に手を当てて、そっと目を閉じた。
電車の揺れに身を任せながら、彼の声を思い出す。
(……また会える。次は、もっと自分からも……)
ふわりと笑ったその顔を、窓ガラスが映していた。