朝の光はまだ薄く、空は雲の切れ間から静かに青をのぞかせていた。
卒業式当日。
しおりは制服のまま、川沿いの道を歩いていた。
まだ時間は早い。誰にも会いたくなくて、でも――本当は、誰かを待っていた。
歩道脇の土手には、芽吹き始めた草が揺れている。
風に揺れるその小さな音に、胸が締めつけられるような気がした。
(もう、卒業なんだ……)
この数ヶ月、しおりはほとんど誰とも言葉を交わさず過ごしていた。
笑うことも、泣くことも減って、ただ淡々と、毎日をやり過ごすだけだった。
ふと、河川敷のベンチに、ひとつの人影が見えた。
風が吹いて、彼の制服の裾が揺れる。
目を疑った。けれど、その背中を見間違えるはずがなかった。
「……一ノ瀬くん……?」
その声に、彼がゆっくりと振り向いた。
「……しおり」
数秒、どちらからも言葉は出なかった。
でも、視線が合った瞬間、しおりの胸の奥に抑え込んでいた感情が一気にこみ上げてきた。
「どうして……こんなとこに……」
「……来る気がしてた」
その一言で、もう何もかもが崩れた。
「バカ……バカだよ、なんで……なんで今になって……っ」
しおりの声が震え、視界がぼやけていく。
胸が苦しくて、痛くて、どうしていいか分からなくて、その場に膝をついた。
「もう、やめてよ……こんな顔、見られたくなかったのに……っ」
頬を伝う涙が止まらない。声を押し殺しても、嗚咽が漏れてしまう。
「しおり……っ」
駆け寄った一ノ瀬が、彼女の肩をそっと抱きしめる。
拒もうとするのに、腕が回されるだけで心が決壊してしまった。
「……離して、駄目、駄目だよ……」
「ごめん。俺、バカだった。……でも、今だけは、こうさせて」
しおりは彼の胸に顔を埋めた。泣きじゃくりながら、言葉にならない気持ちを、ただ彼にぶつけるように。
「怖かった……離れてから、毎日ずっと……怖くて、悲しくて……」
「俺も……同じだった。お前がいない日々、何も感じられなかった」
「じゃあ、なんで……」
「それでも、また好きになってた。ずっと、しおりだけだったんだ」
「……バカ……バカ……」
しおりは震える手で一ノ瀬の制服をぎゅっと掴んだ。
「駄目だよ、こんなこと……」
「駄目でも、やり直したい。もう一度……お前とちゃんと、付き合いたい」
「……また傷つくかもしれないよ?」
「傷ついてもいい。俺は、お前と一緒にいたい」
「……私、もう逃げない。怖いけど……一ノ瀬くんと、また笑いたい」
言葉のかわりに、ふたりは唇を近づけた。
触れるだけの優しいキス――だけでは、足りなかった。
一ノ瀬の手がしおりの頬に触れ、少しずつ角度を変え、長く、深く、気持ちをこめるように唇を重ねる。
しおりも、目を閉じて応える。ずっと言えなかった「好き」を、身体ごと伝えるように。
離れると、二人とも少しだけ涙をにじませたまま、微笑んだ。
「……ちゃんと、彼女にしてね」
「もちろん。しおりは俺の、たったひとりの彼女だから」
式が始まる少し前、しおりは教室の窓際に座っていた。
向かいの席から、一ノ瀬が視線を送ってくる。
「髪、なんかいい匂いする」
「ちょ、なに急に……っ」
「緊張してる?」
「……少し」
「大丈夫。俺がいる」
一ノ瀬は机越しに、そっとしおりの指先を取った。
しおりは戸惑いながらも、きゅっと握り返した。
卒業証書を受け取る瞬間も、壇上から降りるときも、何度も彼の姿を探してしまう。
目が合うと、笑ってくれる。その笑顔だけで、胸がいっぱいになる。
式が終わったあと、ふたりは裏庭の桜の木の下で再び向き合う。
「卒業、おめでとう」
「ありがとう。……ねぇ、一ノ瀬くん」
「ん?」
「私、ちゃんと歩いていく。これからは、自分に少しずつ自信持てるように」
「一緒に歩こう。全部、ふたりで分け合って」
「……キスして、今の気持ち、伝えてほしい」
「もう、しおりってば……」
一ノ瀬は照れながら、そっと彼女の髪を撫で、静かに唇を重ねた。
そして、手を彼女の頬から肩に、肩から背中へと滑らせて、もう一度――深く、確かに。
風が吹いた。
桜のつぼみが、ぱちんと音を立てて膨らむような、そんな予感がした。
学び舎を出た校門前。
群れをなす卒業生たちと、その家族の声に包まれながら、しおりは制服のスカートの裾を整えていた。
一ノ瀬は少し前を歩いて、一度振り返り、しおりに手を差し出す。
──今日の光の中で二人きりになれる空気が、まるで特別な時間みたいだった。
しおりがそっと手を取ると、二人は一緒に校舎を背に歩き出す。
「……これから、どうする?」
一ノ瀬はポケットから地図を取り出し、遠くを指差す。
「大学が○○で、地元だから……毎週は無理かもしれない。けど」
視線を上げると、しおりの瞳が揺れていた。
「でも……あなたがいる景色が、もうわたしの中にある」
その言葉に一ノ瀬は微笑み、すっと腕を引き寄せる。
卒業旅行ではないけれど、二人は約束した場所へ向かった。
小さな駅からローカル線に乗り込み、汗ばむ陽気の中、景色を眺めた。
並んで座る雰囲気がもう、恋人としての始まりだった。
「春からも……時々、こうやって来られるようにするよ」
「うん。あなたといると、どこでも好きになれそう」
お互いの手をしっかりと握りながら、二人は小旅行を楽しんだ。
帰り道、夕焼けが道を金色に染めていた。
人通りは少なくなり、二人きりの空間が広がる。
「……死角じゃないんだけど、この時間が好き」
しおりの声が夕暮れに溶けていく。
「俺も。……何かが始まってる気がする」
心臓がじんわりと温かくなる言葉。
「……ねえ、一ノ瀬くん。覚えててほしい」
しおりは一ノ瀬の顔を見つめ、指で彼の胸元を指す。
「どんなことがあっても、私を大切にしてね」
「──お前を絶対に、大切にする」
その誓いを聞いた瞬間、しおりは胸がいっぱいになった。
夜、二人はそれぞれの部屋で、スマホを手にしていた。
しおりは画面にメモを打つ。
「来週は土日にあのカフェで勉強しよう」
一ノ瀬は返信をしようか迷いながら、静かに笑った。
「わかった。でも、お前優先な」
そして、続けた。
「卒業おめでとう、俺の大切な人へ」