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第15話「春、ふたたび」

朝の光はまだ薄く、空は雲の切れ間から静かに青をのぞかせていた。

卒業式当日。

しおりは制服のまま、川沿いの道を歩いていた。


まだ時間は早い。誰にも会いたくなくて、でも――本当は、誰かを待っていた。


歩道脇の土手には、芽吹き始めた草が揺れている。

風に揺れるその小さな音に、胸が締めつけられるような気がした。


(もう、卒業なんだ……)


この数ヶ月、しおりはほとんど誰とも言葉を交わさず過ごしていた。

笑うことも、泣くことも減って、ただ淡々と、毎日をやり過ごすだけだった。


ふと、河川敷のベンチに、ひとつの人影が見えた。

風が吹いて、彼の制服の裾が揺れる。


目を疑った。けれど、その背中を見間違えるはずがなかった。


「……一ノ瀬くん……?」


その声に、彼がゆっくりと振り向いた。


「……しおり」


数秒、どちらからも言葉は出なかった。

でも、視線が合った瞬間、しおりの胸の奥に抑え込んでいた感情が一気にこみ上げてきた。


「どうして……こんなとこに……」


「……来る気がしてた」


その一言で、もう何もかもが崩れた。


「バカ……バカだよ、なんで……なんで今になって……っ」


しおりの声が震え、視界がぼやけていく。

胸が苦しくて、痛くて、どうしていいか分からなくて、その場に膝をついた。


「もう、やめてよ……こんな顔、見られたくなかったのに……っ」


頬を伝う涙が止まらない。声を押し殺しても、嗚咽が漏れてしまう。


「しおり……っ」


駆け寄った一ノ瀬が、彼女の肩をそっと抱きしめる。

拒もうとするのに、腕が回されるだけで心が決壊してしまった。


「……離して、駄目、駄目だよ……」


「ごめん。俺、バカだった。……でも、今だけは、こうさせて」


しおりは彼の胸に顔を埋めた。泣きじゃくりながら、言葉にならない気持ちを、ただ彼にぶつけるように。


「怖かった……離れてから、毎日ずっと……怖くて、悲しくて……」


「俺も……同じだった。お前がいない日々、何も感じられなかった」


「じゃあ、なんで……」


「それでも、また好きになってた。ずっと、しおりだけだったんだ」


「……バカ……バカ……」


しおりは震える手で一ノ瀬の制服をぎゅっと掴んだ。


「駄目だよ、こんなこと……」


「駄目でも、やり直したい。もう一度……お前とちゃんと、付き合いたい」


「……また傷つくかもしれないよ?」


「傷ついてもいい。俺は、お前と一緒にいたい」


「……私、もう逃げない。怖いけど……一ノ瀬くんと、また笑いたい」


言葉のかわりに、ふたりは唇を近づけた。

触れるだけの優しいキス――だけでは、足りなかった。


一ノ瀬の手がしおりの頬に触れ、少しずつ角度を変え、長く、深く、気持ちをこめるように唇を重ねる。

しおりも、目を閉じて応える。ずっと言えなかった「好き」を、身体ごと伝えるように。


離れると、二人とも少しだけ涙をにじませたまま、微笑んだ。


「……ちゃんと、彼女にしてね」


「もちろん。しおりは俺の、たったひとりの彼女だから」


式が始まる少し前、しおりは教室の窓際に座っていた。

向かいの席から、一ノ瀬が視線を送ってくる。


「髪、なんかいい匂いする」


「ちょ、なに急に……っ」


「緊張してる?」


「……少し」


「大丈夫。俺がいる」


一ノ瀬は机越しに、そっとしおりの指先を取った。

しおりは戸惑いながらも、きゅっと握り返した。


卒業証書を受け取る瞬間も、壇上から降りるときも、何度も彼の姿を探してしまう。

目が合うと、笑ってくれる。その笑顔だけで、胸がいっぱいになる。


式が終わったあと、ふたりは裏庭の桜の木の下で再び向き合う。


「卒業、おめでとう」


「ありがとう。……ねぇ、一ノ瀬くん」


「ん?」


「私、ちゃんと歩いていく。これからは、自分に少しずつ自信持てるように」


「一緒に歩こう。全部、ふたりで分け合って」


「……キスして、今の気持ち、伝えてほしい」


「もう、しおりってば……」


一ノ瀬は照れながら、そっと彼女の髪を撫で、静かに唇を重ねた。

そして、手を彼女の頬から肩に、肩から背中へと滑らせて、もう一度――深く、確かに。


風が吹いた。

桜のつぼみが、ぱちんと音を立てて膨らむような、そんな予感がした。


学び舎を出た校門前。

 群れをなす卒業生たちと、その家族の声に包まれながら、しおりは制服のスカートの裾を整えていた。

 一ノ瀬は少し前を歩いて、一度振り返り、しおりに手を差し出す。


 ──今日の光の中で二人きりになれる空気が、まるで特別な時間みたいだった。


 しおりがそっと手を取ると、二人は一緒に校舎を背に歩き出す。


 「……これから、どうする?」


 一ノ瀬はポケットから地図を取り出し、遠くを指差す。


 「大学が○○で、地元だから……毎週は無理かもしれない。けど」


 視線を上げると、しおりの瞳が揺れていた。


 「でも……あなたがいる景色が、もうわたしの中にある」


 その言葉に一ノ瀬は微笑み、すっと腕を引き寄せる。


卒業旅行ではないけれど、二人は約束した場所へ向かった。

 小さな駅からローカル線に乗り込み、汗ばむ陽気の中、景色を眺めた。


 並んで座る雰囲気がもう、恋人としての始まりだった。


 「春からも……時々、こうやって来られるようにするよ」


 「うん。あなたといると、どこでも好きになれそう」


 お互いの手をしっかりと握りながら、二人は小旅行を楽しんだ。


帰り道、夕焼けが道を金色に染めていた。

 人通りは少なくなり、二人きりの空間が広がる。


 「……死角じゃないんだけど、この時間が好き」


 しおりの声が夕暮れに溶けていく。


 「俺も。……何かが始まってる気がする」


 心臓がじんわりと温かくなる言葉。


 「……ねえ、一ノ瀬くん。覚えててほしい」


 しおりは一ノ瀬の顔を見つめ、指で彼の胸元を指す。


 「どんなことがあっても、私を大切にしてね」


 「──お前を絶対に、大切にする」


 その誓いを聞いた瞬間、しおりは胸がいっぱいになった。


夜、二人はそれぞれの部屋で、スマホを手にしていた。


 しおりは画面にメモを打つ。


 「来週は土日にあのカフェで勉強しよう」


 一ノ瀬は返信をしようか迷いながら、静かに笑った。


 「わかった。でも、お前優先な」


 そして、続けた。



    「卒業おめでとう、俺の大切な人へ」

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