春休みが近づく気配を感じながらも、しおりの心はずっと冬のままだった。
「……あ、図書室行こう」
教室の空気が、いつもより遠く感じる。誰かと会話をするわけでもなく、ただ時間を過ごすだけの毎日。そんな自分を、しおりはどこか遠くから眺めているような気がしていた。
誰もいない昼休みの図書室。静まり返った空間に、紙をめくる音だけが響く。
古い小説を開いても、字が目に入ってこない。代わりに、脳裏には一ノ瀬の笑顔が浮かんだ。
──「しおりの声、好きだよ」
──「無理に笑わなくても、俺には伝わってるから」
その言葉たちが、胸の奥で何度もリフレインする。
(……今、どこで何してるんだろ)
窓の外に目を向けると、薄曇りの空に鳥が舞っていた。
もうすぐ春が来る。けれど、しおりの心はどこにも向かう場所がなかった。
一方その頃、一ノ瀬は教室の仲間たちと笑い合っていた。
「それでな?あいつ、弁当全部こぼしたんだよ」
「マジでか!やばすぎだろそれ!」
笑い声。肩を叩かれる。一見、何も変わらない日常。
けれど、その笑いの合間に、ふとした空白が生まれる。
(しおり……)
気がつくと、足が屋上へと向かっていた。
誰もいない昼下がりの屋上。そこは、二人で話したあの日と何も変わっていなかった。
風が吹き抜ける中、彼は金網越しに空を見上げる。
(本当は……今でも、ちゃんと話したいよ)
けれど、それがどんな顔をして言えばいいのか、わからなかった。
その日の放課後。しおりは電車のホームに立っていた。
視線の先、線路沿いに咲きかけた桜のつぼみが揺れていた。
(春が来るんだ……)
つぼみを見つめながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
(……私、ちゃんと前に進まなきゃいけないのかな)
でも、まだ「さよなら」のあとに残った空白が、癒えきっていなかった。
唇を噛みしめた瞬間、涙が一粒、頬を伝った。
「……まだ、好きだよ……」
誰に届くわけでもない、小さな呟き。
その声に、自分の気持ちの輪郭が浮かび上がってしまった。
その夜、しおりは日記帳を開いた。
ページの隅に、消えかけた文字があった。
「2月14日、一ノ瀬くんがくれたチョコレート、まだ食べられてない」
震える手でペンを取る。
ページの端に、少しずつ、記憶をなぞるように言葉を書き始めた。
──「初めて名前を呼んでくれた日」
──「手をつないで歩いた帰り道」
──「キスをした夜、私は一人じゃないと思えた」
書いているうちに、涙がまたぽろりとこぼれる。
だけど、心の奥底で少しだけ、あたたかい光が灯った。
(また、歩き出せますように)
それが、彼と出会ってから変わったしおりの、静かな祈りだった。