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第13話「あなたのいない春」

午後の光が、窓ガラスを淡く照らしていた。

 春がすぐそこまで来ているのに、しおりの心にはまだ冬の冷たさが残っていた。


 「一ノ瀬くん、今日、少しだけ話せる?」


 送信ボタンを押す指が震える。すぐに「いいよ」と返事が届いた。


 (ちゃんと、自分の言葉で……)


 決めていた。答えはずっと前から、自分の中でぼんやりと浮かんでいた。

 それを形にするだけ。

 好きなのに、別れを選ぶなんて──そんな矛盾が自分の胸を苦しめていた。


待ち合わせたのは、ふたりの思い出が重なる場所──河川敷の小さなベンチだった。

 春の風が穏やかに吹き抜ける。川の水面がきらきらと光る。


 一ノ瀬が笑顔でやってきた。


「しおり、元気だった? 顔、ちゃんと見れてよかった」


 しおりは微笑み返すのが精一杯だった。

 ベンチに座り、しばらくふたりは並んで川を眺めていた。


 「あのね……ずっと、言えなかったことがあるの」


 しおりの声が少し震える。


「私……まだあなたのこと、好きだよ」


 一ノ瀬がこちらをじっと見つめる。


「けど、もう……恋人ではいられない」


「……え?」


 彼の声がかすれた。信じられないというように、眉がひそめられる。


「どうして?」


 しおりはゆっくりと首を振った。


「怖いの。あなたが遠くに行って、私がここに残って……。

 あなたの夢がどんどん前に進むのに、私はその隣に立つ自信が持てなくて。

 比べちゃって、勝手に落ち込んで……」


「そんなこと、気にしなくていいよ。俺は──」


 「でも、私は気にしちゃうの……」


 言葉が遮られる。一ノ瀬は何かを言いかけて、拳を握った。


「君が泣いてたあの日、俺、なにもできなかった。あんなに近くにいたのに……俺、情けなかった」


 しおりはゆっくりと息を吐いた。


「あなたのせいじゃない。私が、もっと自分を信じられていれば……きっと違った」


 春風がふわりと髪を揺らす。沈黙が流れた。


 やがて、しおりは立ち上がった。


「今日は、ありがとう。ずっと……一緒にいられて幸せだった」


 一ノ瀬も立ち上がり、しおりの手をそっと握った。


「俺は、まだ君が好きだよ。別れたくない」


 その言葉に、心が大きく揺れた。

 だけど──しおりは首を横に振った。


「その気持ちをもらえて、うれしい。でもね……私は、あなたの未来を縛りたくないの」


「そんなの、俺の勝手じゃん……しおり、もう一度だけ考えて」


 しおりの目に、涙が浮かぶ。


「ごめんね。一ノ瀬くん」


駅のホーム。

 電車が到着するベルが響き、夕方の空に吸い込まれていく。


 ふたりは並んで立っていた。

 沈黙が続く中で、しおりは握られた手をそっと離した。


「さよならじゃないから。ありがとう。大好きだったよ」


 一ノ瀬は言葉を失い、ただしおりの顔を見つめていた。


 電車がホームに滑り込む。ドアが開く。


 しおりはゆっくりと乗り込み、振り返って一ノ瀬を見つめた。


 彼の姿が、夕焼けの光の中で滲んで見えた。


 ドアが閉まり、電車が走り出す。


 ──春の風が吹いた。


 ホームに残された彼の足元に、ひとひらの桜の花びらが舞い降りる。


 車窓の向こうで、しおりは静かに涙を流していた。

 だけどその瞳には、ほんの少しだけ前を向こうとする決意が宿っていた。


──夜。


 帰宅したしおりは、着替えもそこそこにシャワーを浴びていた。

 ぬるま湯が肌を伝う感触も、何もかもがぼやけて感じられる。

 体を洗いながらも、頭の中には一ノ瀬の横顔が浮かんで、消えない。


 (……あれでよかったんだよね……?)


 そう問いかけるたびに、胸がぎゅっと締めつけられた。


 バスタオルで濡れた髪を拭き、部屋に戻ってスマホを手に取る。

 何度も開いたメッセージ履歴。一ノ瀬の「また会いたいな」の文字。


 涙が止まらなくなった。


「……好きなのに……っ……!」


 声にならない嗚咽。

 しおりはスマホを握りしめたまま、ベッドの上で小さく丸まった。

 肩を震わせ、子どもみたいに泣き続ける。

 その涙は、誰にも届かない夜に静かに吸い込まれていった。


一方──。


 同じ頃、一ノ瀬は学校の屋上にいた。

 部活動の音が消えた、誰もいない静寂。

 グラウンドを見下ろす金網の前で、彼は立ち尽くしていた。


 空はどんよりと曇り、小雨が降り始めていた。

 それでも彼は動かなかった。

 額に、頬に、冷たい雨が打ちつける。


 ──しおりの「好きだよ、でももう恋人じゃいられない」の言葉が何度もよみがえる。


 「……なんで……俺、何が足りなかったんだよ……」


 自分の中に押し込めていた弱さと悔しさがあふれ出す。


 「……しおり……」


 絞り出すような声とともに、彼はその場に膝をついた。

 ずぶ濡れのまま、空を仰ぐ。


 雨と、涙とが混ざり合って、もうどちらかわからなくなっていた。


こうして、ふたりは離れた場所で、同じように涙を流していた。

会いたいと思うその想いが、届かないまま夜は深まっていく──。

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