午後の光が、窓ガラスを淡く照らしていた。
春がすぐそこまで来ているのに、しおりの心にはまだ冬の冷たさが残っていた。
「一ノ瀬くん、今日、少しだけ話せる?」
送信ボタンを押す指が震える。すぐに「いいよ」と返事が届いた。
(ちゃんと、自分の言葉で……)
決めていた。答えはずっと前から、自分の中でぼんやりと浮かんでいた。
それを形にするだけ。
好きなのに、別れを選ぶなんて──そんな矛盾が自分の胸を苦しめていた。
待ち合わせたのは、ふたりの思い出が重なる場所──河川敷の小さなベンチだった。
春の風が穏やかに吹き抜ける。川の水面がきらきらと光る。
一ノ瀬が笑顔でやってきた。
「しおり、元気だった? 顔、ちゃんと見れてよかった」
しおりは微笑み返すのが精一杯だった。
ベンチに座り、しばらくふたりは並んで川を眺めていた。
「あのね……ずっと、言えなかったことがあるの」
しおりの声が少し震える。
「私……まだあなたのこと、好きだよ」
一ノ瀬がこちらをじっと見つめる。
「けど、もう……恋人ではいられない」
「……え?」
彼の声がかすれた。信じられないというように、眉がひそめられる。
「どうして?」
しおりはゆっくりと首を振った。
「怖いの。あなたが遠くに行って、私がここに残って……。
あなたの夢がどんどん前に進むのに、私はその隣に立つ自信が持てなくて。
比べちゃって、勝手に落ち込んで……」
「そんなこと、気にしなくていいよ。俺は──」
「でも、私は気にしちゃうの……」
言葉が遮られる。一ノ瀬は何かを言いかけて、拳を握った。
「君が泣いてたあの日、俺、なにもできなかった。あんなに近くにいたのに……俺、情けなかった」
しおりはゆっくりと息を吐いた。
「あなたのせいじゃない。私が、もっと自分を信じられていれば……きっと違った」
春風がふわりと髪を揺らす。沈黙が流れた。
やがて、しおりは立ち上がった。
「今日は、ありがとう。ずっと……一緒にいられて幸せだった」
一ノ瀬も立ち上がり、しおりの手をそっと握った。
「俺は、まだ君が好きだよ。別れたくない」
その言葉に、心が大きく揺れた。
だけど──しおりは首を横に振った。
「その気持ちをもらえて、うれしい。でもね……私は、あなたの未来を縛りたくないの」
「そんなの、俺の勝手じゃん……しおり、もう一度だけ考えて」
しおりの目に、涙が浮かぶ。
「ごめんね。一ノ瀬くん」
駅のホーム。
電車が到着するベルが響き、夕方の空に吸い込まれていく。
ふたりは並んで立っていた。
沈黙が続く中で、しおりは握られた手をそっと離した。
「さよならじゃないから。ありがとう。大好きだったよ」
一ノ瀬は言葉を失い、ただしおりの顔を見つめていた。
電車がホームに滑り込む。ドアが開く。
しおりはゆっくりと乗り込み、振り返って一ノ瀬を見つめた。
彼の姿が、夕焼けの光の中で滲んで見えた。
ドアが閉まり、電車が走り出す。
──春の風が吹いた。
ホームに残された彼の足元に、ひとひらの桜の花びらが舞い降りる。
車窓の向こうで、しおりは静かに涙を流していた。
だけどその瞳には、ほんの少しだけ前を向こうとする決意が宿っていた。
──夜。
帰宅したしおりは、着替えもそこそこにシャワーを浴びていた。
ぬるま湯が肌を伝う感触も、何もかもがぼやけて感じられる。
体を洗いながらも、頭の中には一ノ瀬の横顔が浮かんで、消えない。
(……あれでよかったんだよね……?)
そう問いかけるたびに、胸がぎゅっと締めつけられた。
バスタオルで濡れた髪を拭き、部屋に戻ってスマホを手に取る。
何度も開いたメッセージ履歴。一ノ瀬の「また会いたいな」の文字。
涙が止まらなくなった。
「……好きなのに……っ……!」
声にならない嗚咽。
しおりはスマホを握りしめたまま、ベッドの上で小さく丸まった。
肩を震わせ、子どもみたいに泣き続ける。
その涙は、誰にも届かない夜に静かに吸い込まれていった。
一方──。
同じ頃、一ノ瀬は学校の屋上にいた。
部活動の音が消えた、誰もいない静寂。
グラウンドを見下ろす金網の前で、彼は立ち尽くしていた。
空はどんよりと曇り、小雨が降り始めていた。
それでも彼は動かなかった。
額に、頬に、冷たい雨が打ちつける。
──しおりの「好きだよ、でももう恋人じゃいられない」の言葉が何度もよみがえる。
「……なんで……俺、何が足りなかったんだよ……」
自分の中に押し込めていた弱さと悔しさがあふれ出す。
「……しおり……」
絞り出すような声とともに、彼はその場に膝をついた。
ずぶ濡れのまま、空を仰ぐ。
雨と、涙とが混ざり合って、もうどちらかわからなくなっていた。
こうして、ふたりは離れた場所で、同じように涙を流していた。
会いたいと思うその想いが、届かないまま夜は深まっていく──。