大学進学と一ノ瀬の引っ越し──卒業は喜びだけではない。
しおりは、胸の奥で静かに芽生えた不安を抱えていた。
駅前カフェの窓際で、しおりはココアのマグを静かに両手で包み込んでいる。
午後の日差しがグラスに反射して、居心地のいいはずの空間が少しばかり冷たく感じた。
「……卒業まで、あと三週間か」
一ノ瀬が言った。お茶をすすりながら、軽いトーンで。
しおりは笑おうとして、うまくいかない。
「そうだね」と短く答えると、視線はテーブルの木目に沈んだ。
彼はスマホを取り出し、通学圏の大学の資料をちらりと見せた。
「俺、来月から一人暮らしすることになってね。大学近くに引っ越す。君のそばから離れるわけだけど、寂しくなる?」
そう尋ねられた瞬間、しおりの胸が締めつけられた。
距離が物理的にも心理的にも開いていく怖さ。
「……寂しいよ。でも、あなたの夢だから。応援してる」
言葉には出したものの、声が震えてしまった。
彼はにっこり微笑むが、その目には遠さと少しの寂しさが滲んでいた。
「ありがとう。でもさ……不安?」
一ノ瀬は目を見開く。正直な表情だった。
「うん、不安だよ。遠くに行っても、私のこと忘れないかなって……」
彼の眉がわずかに寄る。
「しおり、俺も不安だよ。でも……一緒に乗り越えたい」
彼の言葉は真剣だった。だが、しおりにはその先が見えなかった。
テーブルの上のマグがゆらりと揺れる。
ふと、入口が開き、顔見知りの人影が視界に入った。
「……あ、芽衣っぽい?」
しおりの心臓が高鳴る。親友の芽衣――。
このタイミングでここに来るなんて。
ドキリとしながらも、しおりは店を飛び出した。
「もう帰るね」とだけ言い残し、カフェのドアを押し開ける。
外の風はひんやりしていて、その体温を少し冷やした。
広場のベンチ。しおりは一人、空を見上げていた。
涙がこらえきれずに、頬をつたう。
「しおり?」
ふいに声がして振り返る。芽衣だった。
「芽衣、どうして……」
問いはすぐに胸の奥に飲み込まれる。芽衣は目に涙を溜めながら、しおりの前で立ち尽くしていた。
「ごめん。出てきちゃった……話したくて」
芽衣の声は震えていた。
彼女もまた、ふたりの進路に不安を抱えていたのだろうか。
「……私……あなたと話したかった。だって、私だって、大事なんだもん」
しおりは言葉を詰まらせた。
芽衣はそっと座り、しおりの手を握った。
「まだ好きだよ、一ノ瀬のこと」
その一言で、しおりの胸は押しつぶされそうになる。
遠くへ行ってしまう彼への愛と、不安と、親友の告白と……。
「芽衣、ありがとう……でも、今は──」
しおりは言葉を飲み込む。
芽衣は肩を落とし、視線を落としたまま俯く。
「……わかったよ。無理しない。だけど、私はずっと友達だから」
芽衣が立ち去る後ろ姿を、しおりはじっと見つめた。
しおりはカフェに戻る気分になれなかった。
夜のホームに再び立ち、行き交う人波に埋まる。
スマホの画面を見ると、一ノ瀬からの未読メッセージ。
「大丈夫? 季節変わって風邪ひかないようにね」
予想通り、返信ができない。
涙がこぼれ、視界が揺れた。
(私なんだか、あっちもこっちも、無理してる)
不安に押しつぶされそうになりながら、しおりはベンチに腰を下ろした。
帰宅して、シャワーを浴びたあとも、胸のざわつきは止まらなかった。
浴室の鏡に映る自分と向き合いながら、しおりは震える声で問いかける。
「私、どうしたいの……?」
心は答えを探して彷徨っていた。
カーテンを閉めてベッドにうつ伏せになると、涙は止まらなかった。
(一ノ瀬のことも、大事にしたい。でも……芽衣も、助けになってほしい)
抱えた想いは重く、胸を締めつけて、しおりは深い夜に沈んでいく。
翌朝、しおりは笑顔になろうと鏡の前で深呼吸した。
けれど、その裏にはまだ整理できない想いがあった。
卒業式まであとわずか。
心は揺れ、距離はだんだんと形をとりはじめている。
この先どうすればいいのか、しおりはまだ手探りをしていた。