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「ふぅ……、お風呂で少し休憩しよっと。さすがに疲れちゃった……」
汐里は汗の染みた衣服を脱ぎ、脱衣所の棚に丁寧に畳んで置いた。
あれから噤はそっちのけで、寧々と『編集VS作家バトル』を繰り広げることになり……そのおかげで、寧々の小説の精度はぐっと上がった。
喜ばしいことだったが、タイピングに集中していた寧々が、突然ぷつんと糸が切れたように汐里の方へ倒れ込んできたのである。
『Zzzz……』
押し倒されるようなカタチになって驚いたが、これは寧々にはよくあることだった。
執筆に体力のすべてを注ぎ込む彼の『天性の作家魂』は『配分』という言葉を知らないらしい。
汐里の膝の上でイビキをかいて眠る寧々を見下ろしながら、汐里は肩をすくめて呟いた。
『もう、先生……またですか~』
彼の担当編集がいつも長続きしないのも、寧々の『変人すぎ』て『自分勝手すぎる』気風のせいだ。
そのせいで汐里は、他の作家の担当を外され、すっかり寧々専属の編集者のような扱いになってしまっている。
その扱いに、不満を覚えたことがなかったわけではない。
だが、寧々の小説に『恋している』といってもいい汐里にとっては、心から愛する作品に関われることこそ、この上ない喜びだった。
たとえ、その製造元が稀代の変人であろうとも。
そんな寧々が寝ている間に風呂にでも入ってこいと、噤が寧々を引き剥がしながら提案してくれた。
噤の家には露天風呂があるらしく、汐里は有難くその申し出を受け取る。
宵の薄明かりに照らされた山々を望む露天風呂は広々としていて、洗い場も湯殿も汐里ひとりで使うには、あまりにも贅沢だった。
瑞々しい香りが鼻腔を刺激し、解放感を高めてくる。
「わあ……! すごいキレイ! ひろ~い!」
汐里の肌は、しっとりと汗ばんでおり、早く湯を浴びて心地よい快楽を味わいたいと全身が訴えている。
胸を躍らせながら洗い場に踏み出し、白い湯気の向こう――湯殿を見つめた瞬間、汐里の体が凍りついた。
……何かが、『居』るのだ。
(……え……?)
ゆらり……白煙の先で、黒い影が蠢いた。
手形。宿でのあの夜。
汐里の脳裏に、あの不気味な記憶が一気に蘇る。
体が凍りつき、一歩も動けなかった。
「……ッ」
声も出ない。
影がこちらに気づき、ゆっくりと立ち上がる。
「きゃぁあああああぁあああぁ!」
汐里が悲鳴を上げるのと、影が湯殿から出てくるのは同時だった。
湯殿を包んでいた霧のような湯気が、山風に吹かれて晴れる。
そこに立っていたのは、精悍な男だった。
噤や寧々が『妖艶』とするならば、彼は『凛々しい』と表現すべきだろうか。
センター分けの前髪に長髪。鋭い眼差しをした青年。
「誰だ!」
怒鳴り声に、汐里はとっさに体を隠そうとする。が、タオル一枚さえ無い!
頭が混乱しながらも、青年の裸体が視界に入りそうになった瞬間、汐里は目を逸らし、走り去ろうとした。
「お、女……?」
相手の引きつった声と、汐里が洗い場で滑って転ぶのは、ほぼ同時だった。
「きゃあ!」
尻餅をついた汐里は、ぐるぐると目を回していた。
その時、脱衣所の方から噤の声が飛んでくる。
「ちょっと! すッごい叫び声したけど何があったのよ!? 入るわよ!」
「入らないで!」と叫ぶより早く、眼前にぼたぼたと赤い液体が落ちてきた。
何が起きたのか確認しようとした汐里は、すぐに青ざめる。
汐里は全裸のまま、青年の目前で大開脚した格好で転倒しており……。
しかも青年は、その光景に鼻血を噴いていたのだった。
「きゃあぁあああああああああああああぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!」
汐里が再び絶叫すると、青年は鼻血を拭いながら怒鳴った。
「な、何てはしたない女だ!」
「キャーッ! キャーッ! 誰なんですか、あなた!?」
汐里は必死に裸を隠しつつ問い詰めるが、お互いに全裸のため、どうにもこうにも身動きが取れない。
そんな汐里の頭に、ふわりと何かがかぶせられた。
それは噤の羽織だと気づく。
見上げると……。
「な に し て ん の よ」
阿修羅のような形相の噤が立っており……。
そして彼の怒声が、村中にまで響き渡らんばかりに轟いた。
「人んちのフロ場でラッキースケベイベント起こしてんじゃないわよぉぉおおお!!」
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