目が覚めた瞬間、視界がぼやけていた。
柔らかい布に包まれた腕が、やけに短く、ぷにぷにとしたものに見える。
思わず指を動かしてみると、小さな手のひらがゆっくりと開いて閉じた。
……あれ? 私、赤ちゃんになってる……?
耳を澄ませると、遠くで木々を渡る風の音がした。
けれど、それ以上に近くから、ゆったりとした足音と優しい子守歌が聞こえてくる。
やがて視界がはっきりし、見上げた先に、長い栗色の髪をした女性が微笑んでいた。
彼女の瞳は深い灰青色で、どこか懐かしさを覚えるような、落ち着いた色をしている。
「ネセレ……今日もいい子ね。ほら、よく眠れているでしょう?」
どうやら、これが私の母らしい。
赤ちゃんである私は言葉を話せないが、頭の中でははっきりと理解していた。
ここはどうやら中世風の大きなお屋敷……いいや、窓の向こうに見える森の深さ、遠くの見張り塔の輪郭から察するに、辺境伯家の領館なのだろう。
そうだ、私は確かに死んだはずだ。
思い出すのは前世の記憶。
ブラック企業に勤めていた私は、過労と栄養失調の果てにぽっくりと逝ってしまったのだ。
最後の瞬間に、「次こそは好きなことをして生きたい」と強く願った……そのせいなのか、私はいまこの異世界に転生している。
しかも――
(あれ……これ、私、能力持ち?)
生まれながらに私の意識の奥に、ひとつの感覚があった。『等価交換』と呼ばれる特典。
どんな物でも、価値が釣り合えば、別の物に変換できる――そんな奇妙な力だ。
まだ生まれたばかりのこの小さな手で試すことはできないが、感覚としては確かにそこにある。
揺りかごの縁から少しだけ首を伸ばすと、すぐそばの小さなテーブルに乾いた木の枝が置いてあった。
もちろん赤ん坊の私は届かない。だが、試しに意識をそちらへと向け、心の中でつぶやいてみる。
(この枝を……ガラス玉に、等価交換。)
すると、枝がふっと淡く光り、音もなく消え、代わりに乳白色のガラス玉がぽとりと揺りかごのそばに転がった。
「……!? ネセレ? 今、何をしたの……?」
母が目を見開き、驚いたようにガラス玉を手に取る。
私は赤ちゃんのくせに思わずにやりと笑ってしまった。
これが私の転生特典、『等価交換』の力か……!
◇◇◇
日が経つにつれ、私は徐々にこの世界の環境に慣れていった。
母の名はレイネリア。
家は辺境を守るグラネイル辺境伯家で、父は領主として各地を巡っているらしい。
母の膝に抱かれながら、家臣たちの会話を聞き、屋敷の構造を頭に叩き込む毎日だった。
ある日、乳母が木箱を抱えて部屋に入ってきた。
中には砕けた陶器や欠けた銀食器が詰め込まれている。
「奥様、これ、処分いたしましょうか?」
「……待って、ネセレに見せてあげて。面白いものがあるかもしれないでしょう?」
私の目の前に、ひび割れた陶器の破片が差し出される。好奇心がむくむくと湧き上がる。
前世で得た知識を総動員して想像してみる。もしも、この陶器を溶かして再成型すれば……新しい器になるのでは?
(等価交換……陶器の破片を、完全なカップへ。)
破片が淡く光を帯び、ひとつに集まって形を成す。
瞬く間に艶やかな白磁のカップが母の膝の上に現れた。
「まあ……! ネセレ……! あなた、天才なのね!」
母の歓声に乳母が目を見張る。
私は両手をぱたぱたと動かし、赤ちゃん特有の笑顔で応えた。
胸の奥がくすぐったくなる。この力なら、きっと何でも再生できる。
価値を見抜き、価値を交換する――それが私の役割なのだ。
◇◇◇
その日を境に、母は私の傍に小さな木箱を用意するようになった。
古い釘や割れたガラス、森で拾った石ころなど、要らないものばかりを集めてくれる。
私は昼寝の合間にそれらを見つめ、想像を膨らませ、時折こっそり等価交換を試すのだ。
あるときは、欠けた石を削って小さな鏡に。あるときは、古い鎖を溶かして銀のブローチに。母は驚き、笑い、そして嬉しそうにそれらを飾ってくれる。屋敷の侍女たちは「小さな錬金術師様」と私を呼び始めた。
まだ外には出られない。私の世界は揺りかごと窓辺、母の膝の上だけ。
それでも、心はもう広い世界へと旅立っている。
いつかこの力で、私だけの店を作ろう。
古いものを生まれ変わらせ、人々を笑顔にする場所を――そう、異界のリサイクルショップ『錬金釜』を!
窓の外で風鈴が鳴る。遠い未来を想いながら、私は小さな手を胸の前でぎゅっと握った。
ネセレ、0歳。異界の錬金釜の夢を見た春の出来事である。