白い壁に囲まれた、小さなギャラリー。
春の午後。差し込む光の中にあるのは、長い影と沈黙。
だが、その光の中に佇むのは、ただ一人の画家だけだった。
折りたたみ椅子に腰掛けたユンは、展示された自作の絵を見つめていた。
抽象絵画、現代アート、ミクストメディア、パフォーマンスの記録——
自分が魂を削って描いた作品たちが、誰にも見られず、そこにある。
来場者はゼロ。ポストカードも売れず、受付の来場者記録も空欄のまま。
SNSで何度も告知した。DMも、メールも送った。
それでも、この空間には、ユンと沈黙だけがいた。
「……まぁ、予想通りか」
ユンはひとり呟いた。
それすら、何も跳ね返らない空虚な空間に吸い込まれていく。
ユン(29歳)
現代アート専攻の美大を卒業後、東京で暮らすフリーランス画家。
日中はイラスト制作やデザイン会社の下請けで生計を立て、
夜と休日をすべて「アート」のために捧げてきた。
描くのは、意味のある作品。問いかけるような表現。
社会や自分自身を切り裂くような抽象と、思索の塊。
——だが、評価はされない。
受賞歴ゼロ。フォロワー数は鳴かず飛ばず。
「すごいね」と言われても、それ以上が続かない。
それでもユンは描いてきた。
「誰も理解しなくても、自分が表現しないと“生きた”って言えない」
——そんな情熱に突き動かされて。
夕方。個展の撤収をはじめ、ユンは段ボールに作品を詰めながらふと立ち止まった。
「……私は、何のために描いてるんだろう」
誰にも届かない声。誰にも届かない絵。
それでも描き続けることに、意味はあるのだろうか。
そのとき——
バチンッ!
天井の照明が閃光を放った。
耳鳴り。眩しさ。崩れる足元。
次の瞬間、ユンの視界は真っ白に染まった。
身体が浮いている。重力がない。
筆も、キャンバスも、名刺も、SNSも存在しない世界。
「ここは……どこ?」
目を覚ますと、ユンは木造のアトリエらしき空間、簡易ベッドに寝かされていた。
蝋燭の灯り。重厚な家具。
そして壁に並ぶのは——
息を呑むほど精密な写実画ばかり。
起き上がると、鏡に映るのは、10代後半の少女の顔だった。
自分のものではない手。声も若返っている。
「え……嘘……? 誰の身体これ……」
机の上には一枚の新聞のような紙。
大きな見出しが、ユンの心を撃ち抜いた。
「王立画学院・新人選抜試験 テーマ:写実こそ至高 王立美術院では『実在の再現こそ芸術』という原則が絶対視されており…」と、ある。
王立画学院——それは、この大陸で最も格式高く、最も苛烈な美術教育機関。
貴族の子弟から才能ある平民まで、あらゆる階層の若者たちがその門を叩くが、入学を許されるのは毎年ほんの一握り。
「新人選抜試験」とは、公開制作・静物模写・人体構造論までを課される三日間の審査であり、合格すれば国家奨学金とともに、名門画家たちによる直接指導が約束される。
すなわち、ここに受かれば、画家としての人生が開ける。落ちれば、二度と王の御前には立てぬ——それほどの重みがあった。
写実こそ至高——
その言葉は、ユンの人生で最も否定されてきた価値観そのものだった。
けれどユンは、静かに口角を上げた。
「……いいじゃない。やってやろうじゃん」
「この写実至上主義の牢獄で、“美”の定義ごとぶっ壊してやる」