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第63話 カロンの沈黙


 春の個展の熱気が少しずつ静まり、街が新緑の香りに包まれ始めた頃、ユンとヴァロワは心の高鳴りを胸にその日を迎えた。

 彼らが企画したライブペイントの展示は、これまでの個展とは異なる形で多くの人々の注目を浴びていた。

 来場者はその生きた芸術の現場で、色と筆跡が交わる瞬間を目撃し、声を上げ、歓声を上げた。絵がただの「作品」ではなく、人と人が繋がる「対話」となった時間だった。


 その賑わいのなか、しかし、ユンの心には一つの大きな不安があった。


 ——カロンはどう思うだろうか。


 あの冷徹な批評家がこのライブペイントを目撃したという噂はすぐに広がった。

 彼は数年前からユンとヴァロワの作品を執拗に批判し、彼らの成長に影を落としてきた張本人だ。

 彼の一言が市場に及ぼす影響の大きさは計り知れず、ユンは何度も彼の記事に傷つけられてきた。


 展示会の翌日、ギャラリーのスタッフや出席者たちは期待に胸を膨らませて、各メディアを待ち構えた。

 ところが、数日経ってもカロンからの評はどこにも現れなかった。

 いつもなら早々に掲載される彼の批評が、一切書かれなかったのだ。


 「どうして……?」


 ヴァロワは不思議そうに眉をひそめ、ユンも胸のざわつきを押さえきれなかった。ナイルは冷静に言った。


 「カロンが記事を書かないなんて、彼にしてはかなり珍しいことだ。普通は黙って見過ごすことはないはずだが……」


 日が経つにつれて、その沈黙は不気味な重みを帯びてきた。

 批評の欠如は、一見すると好意的なサインにも見えたが、どこかに違和感があった。まるで彼の中で何かが揺れ動き、言葉にできない葛藤があるようだった。


 ユンはある晩、孤独なアトリエの中で窓越しに星空を見上げながら、ふと思いを巡らせた。


 ——カロンは本当に何も感じなかったのか?


 ——それとも、言葉にすることをためらっているのかもしれない。


 これまで彼の冷徹な評論は、鋭くそして時に残酷だった。

 だが、その裏に隠れた感情や過去の痛みをユンは知っていた。

 かつて画家としての夢を断念した彼の、心の深奥に眠る何か。

 自分とヴァロワの表現が、その深みに触れたのかもしれない。


 その沈黙は、まるで何かを内に秘めた重い沈黙だった。


 数日後、ユンのもとに匿名の一通の手紙が届いた。

 封筒には見覚えのない筆跡が書かれているだけで、差出人の名はなかった。

 中には短いメッセージが綴られていた。


 「言葉にできないものがある。だが、それは決して否定ではない。あなたたちの描くものが、その深さに触れているからだろう。」


 ユンはその手紙を何度も読み返した。

 言葉の裏にある意味を、慎重に探った。

 心のどこかで、カロンが自分たちの作品に対してこれまでとは違う何かを感じているのだと理解した。


 その夜、ユンはヴァロワと話した。


 「カロンは言葉を失ったのかもしれない。もしかすると、私たちのライブペイントが、彼の内面に何かを揺さぶったのかもしれない」


 ヴァロワは静かに頷いた。


 「たしかに。これまであれほど断罪していた男が、沈黙を選ぶということは、彼なりの葛藤があるんだろう」


 二人はその沈黙の意味を深く噛み締めた。

 批評の言葉が届かないことで生まれる空白が、逆に新しい可能性を示しているのかもしれないと。


 数週間後、カロンは依然として公の場での言及を避けている。

 しかし、その姿勢は徐々に周囲の注目を集めていた。

 かつては冷徹な言葉でアーティストを切り裂いた彼が、今は言葉を紡げずにいるという事実は、芸術界に微かな波紋を広げていた。


 ユンはそのことを思い返しながら、改めて自分の創作に向き合う決意を固めた。

 言葉で批評されることの重みは計り知れないが、沈黙の中に潜む真実もまた深いものがあるのだと。


 カロンの沈黙は、彼なりの表現の一つだったのかもしれない。


 そして、その沈黙のなかでこそ、新たな対話が静かに始まっているのだと、ユンは感じていた。


 春の風が柔らかく吹き抜ける中、ユンの心には新たな希望の光が灯っていた。

 言葉にできないものが、やがてやさしく世界を包み込む日を信じて。


 静かな沈黙の中で、アートはまた一歩、深みを増していくのだった。


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