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第70話 その先の祈り


 爆発的な売れ行きは、二週間ほどでひとまずの落ち着きを見せた。

 ギャラリーの商談札はほとんど「売約済」に変わり、白い壁面のあちこちに空白が目立つ。

 照明が照らすのは、もうそこにない作品の輪郭だけ。

 ヴァロワは新たな補充を急かすでもなく、帳簿を閉じ、深く椅子に身を沈め、指先でペンをもてあそんでいた。


 ユンは、その姿を向かいの席から静かに見ていた。短く切った髪が頬にかかり、眼差しはどこか遠くを見ている。指先には絵具の痕が残り、洗っても取れない色が、彼女の時間を物語っていた。

 「……終わったみたいだね」

 「終わりじゃない。これはただの一区切りだ」

 ヴァロワは淡々と答え、窓の外の薄曇りの空を眺めた。

 街路樹の葉が風に揺れ、舗道の落ち葉が一枚、二枚と舞い上がっていく。


 市場の熱狂は確かに二人を押し上げた。

 けれど、その渦が去った後には、ぽっかりとした静けさが残る。

 人々の視線も耳も、すぐに次の話題へと移っていく。それは残酷で、同時に心地よい現実でもあった。


 ユンは、その静けさの中で、自分の胸の奥に残った感情を探した。

 ——喜びも、虚しさも、確かにあった。

 けれど、最後に残ったのは、描きたいという衝動だけ。

 売れたことよりも、描く時間そのものが、今の自分を支えている。


 「ヴァロワ」

 「ん?」

 「売れても、売れなくても、私は描き続けるよ」

 その声は、誰に向けたものでもない。ただ、自分の内側から自然に溢れ出た誓いだった。

 「たぶん、これがなかったら、生きていけない」

 そう口にした瞬間、胸の奥に、驚くほど穏やかな感覚が広がっていった。


 ヴァロワはしばらく黙ってユンを見つめ、低く言った。

 「……俺もだ」

 「え?」

 「俺も、批評家や市場のためじゃなく、自分のためにやる。売るのも、広めるのも、俺の喜びだ」

 その言葉は商人の宣言というより、ひとりの表現者の告白のように響いた。

 「結局、人は自分が信じるものしか守れない。俺は、お前の絵を信じてる」


 ユンは、目を細めて微笑んだ。彼らは立場も役割も違う。けれど今、この瞬間は同じ方向を向いていることを、はっきりと感じた。


 その頃——。


 カロンは、港町の小さなカフェのテラス席に腰を下ろしていた。

 潮風が紙ナプキンを揺らし、カップの中のコーヒーに淡い波紋をつくる。

 遠くでカモメの声が響き、午後の光が海面にきらめきを散らしていた。

 膝の上には最新号の美術誌。

 そこには、ユンとヴァロワの展示を紹介する記事が載っていた。


 カロンはページをゆっくり閉じ、視線を遠い海へ投げた。

 「……やっと、始まったか」

 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。その口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。


 会計を済ませ、海沿いの道を歩く。

 波打ち際で足を止め、水平線を見つめる。

 ——自分の役割は、ただ批評することではない。

 火種を見つけ、それを風で煽り、炎に変えることだ。

 あの二人は、さらに遠くへ行くだろう。その旅路を影の中から見守るのも、悪くない。


 正午を告げる鐘が港町に響き、カロンは背を向けた。


 同じ時刻、ユンはアトリエに戻っていた。

 壁には真っ白なキャンバスが立てかけられ、窓を開けると、海からの風がふっと入り、絵具の匂いをやわらかく揺らした。

 筆を握ると、指先にかすかな冷たさが伝わる。

 深く息を吸い、吐く。

 迷いは消えた。

 ——売れた後でも、描く理由は変わらない。

 描きたいから描く。ただ、それだけ。


 最初の一筆が、静かな音を立ててキャンバスを走る。

 その瞬間、再び物語は動き出していた。


 ヴァロワは、別室で新しい展示の企画書を書き進めていた。

 今度は国内ではなく、海を越える計画だ。

 まだ誰にも言っていないが、その準備は密かに始まっている。


 夕暮れが近づき、窓の外の光が金色に変わっていく。

 ユンは筆を止めず、ヴァロワはペンを走らせ続ける。

 彼らはまだ知らない。この先に待つのが栄光か、嵐か。

 だが、どちらでも構わない。


 ——物語は、次の旅へ。


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