「紗織ちゃん、ようこそ異世界転生小説へ。キャラクター運勢をロード中です。」
意識がはっきりした瞬間、朝倉紗織の頭に響いていたのは、この一言だけだった。目の前の華やかなパーティー会場の明かりが目に眩しく、遅れて現実が押し寄せてくる――
自分は過労死したのだ。
そして、こんな訳の分からない世界に放り込まれた。
「紗織ちゃん、明日はバレンタインデーだよ。神崎司が白鳥由奈を誘ったって噂だし、あんまり落ち込まないでね?」隣で松本美咲が、気遣うふりをして声をかけてきた。
紗織は横目でこの火種を投げ込む女を見やる。この発言はあからさまに自分をけしかけて、白鳥由奈に何か仕掛けさせようとしているのだ。わざわざ伝える必要なんてないはず。
神崎司……白鳥由奈……この名前が出た瞬間、紗織は自分がどの小説の中に入り込んだのかすぐに理解した。
つい数日前の休みに徹夜で読破したR18小説『純白に染まる欲望』――ドロドロの展開にツッコミどころ満載で、文句を言いながらも最後まで読んでしまった。お決まりの社長と清楚系ヒロイン、何十億円も動く大げさなドラマ、怒涛の愛憎劇、そして……やたら多い濃密な描写。
それなのに、自分はまさかの同姓同名の悪役女子に転生してしまった。
きっと、読みながら毒づきすぎた罰だ。
「バレンタイン?」紗織は念のため聞き返す。
「そうだよ!」美咲は彼女の反応に違和感を覚えつつ、「白鳥由奈みたいな子が神崎司の隣に立つなんておかしいよ。やっぱり紗織ちゃんこそ……」
紗織はもう聞く気もなく、早く帰って寝たいだけだった。過労死の影がまだ残る今、無理したらまた死にそうだ。
「明日は私は……」
言い終わる前に、またあの幼い女の声が頭の中に響く。「紗織ちゃん、悪役女子としてメインキャラのイベントにちゃんと参加してくださいね。他はご自由に~」
思わず口から出かかった暴言を飲み込む。つまり、令嬢の肩書を背負いながらも、主役の男に振り回されろってこと?彼が宇宙の中心か何か?
そのお金があるなら、イケメンモデルでも雇ったほうがよっぽど幸せだろうに。R18小説ではみんなスタイル抜群なのに。
そんな考えをかき消すかのように、会場にざわめきが起こった。数人の女子が、白いワンピースにナチュラルメイクでいかにも儚げな少女を囲んで歩いてくる。
説明不要、これが原作のヒロイン、白鳥由奈だ。
「朝倉さん、ごめんなさい……神崎くんがどうしてもって言うから、断りきれなくて……もし不快なら、私、行かないから……」由奈はそう言って紗織の手を取ろうとする。
紗織はすばやく一歩後退した。
「白鳥さん、さっき何を飲んでたの?」
周囲が一瞬静まり返る。由奈の隣の女子がすかさず割り込む。「また由奈ちゃんがあなたの高級ワインを知らないって馬鹿にしたいの?」
由奈の顔がわずかに引きつる。
紗織は気にせず肩をすくめ、手首の最新ブランドのブレスレットに目を落とす。悪役女子って、案外悪くないかもと思い始めていた。
「ただ、何を飲んだか気になっただけなのに、どうしてそれが嫌味になるの?私は悪役だから仕方ないって分かってるよ」と無邪気に返す。
美咲は、これまでただのお嬢様だと思っていた紗織を少し見直した様子。政略結婚も無駄じゃなかったかも、と内心思う。
「みんな、楽しんでね。私は先に失礼するわ」相手の困った顔を見て、紗織はバッグを手に取ろうとする。ストーリーを思い出す時間が必要だった。
その瞬間、肩に強い衝撃を受け、バッグが手から落ちそうになる。
「そんなに急いでどこ行くの?」大切なバッグを抱え直し、思わず口から出る。
「また由奈に何かしようとしてるのか?」鋭い男の声が響いた。
紗織が顔を上げると、黒いスーツに端正な顔立ちの男が由奈を庇い、こちらを睨みつけている。この過保護ぶり、間違いなく主人公の神崎司だ。
司は紗織の視線に気づき、どこか得意げになりつつも冷たく言い放つ。「何見てるんだ?」
我に返った紗織は、まずバッグに傷がないか確認し、安心してからカップルを見やる。
「あなたのスーツを見てたの。大企業の社長ならオーダーメイドくらい着たら?さっきぶつかった時、こっちが痛かったし、バッグが壊れなくて良かったわ」と皮肉を込めて言う。
その場が一気に静まり、みんなの視線が神崎司に集中する。彼は面目を保てず、「何を言ってる!俺はこういう贅沢好きな女が一番嫌いなんだ!」と声を荒げた。
紗織は真剣な表情になった。自分は過労死前はオートクチュールのデザイナーで、ハイブランドに引っ張りだこの存在だったのだ。スーツを見誤るはずがない。どうせ有名ブランドの既製品、真の財閥とは程遠い。
「贅沢の何が悪いの?あなたの命ってそんなに価値あるの?」と小声で呟く。「いつも価値のないものばかりくれるくせに。」
由奈は、司の「命をあげる」というセリフを思い出し、確かにいらないかも、と納得してしまう。
「バッグ?壊れたなら十個でも弁償する!」大きな投資を決めて気が大きくなっている司が言い放つ。
紗織の目が輝く。「エルメスのアンクルよ。一個二億円だけど、十個もいいの?ぜひお願い!」
会場の隅で、彼女の急なテンションの上がりっぷりを見て吹き出す者が現れ、動画をグループチャットに投稿する。
「伸哉さん、あんな魔性の女が奥さんだったら、尻尾振りまくりだろうな。」
周囲がどよめく。
司は、バッグ数個で会社のキャッシュフローが危うくなる現実に顔を赤らめ、紗織の手元のシルバーのバッグを見て、「別に壊れてないじゃないか。嘘ついてるのか?」と睨む。
「……」
これが噂の豪快な社長?本物の社長はどこ?目の前の神崎司は、財閥の隠し子で事業も始めたばかり。家を見返すどころか、せいぜい毎日顔を洗うくらいしかできなさそうだ。
「もう黙ってくれる?私が嘘をつくわけないでしょ。じゃ、帰って美容のために寝るわ。」
バッグから車のキーを取り出すと、そこには生前憧れていた高級車のロゴが。紗織はご機嫌で髪を揺らし、変わり者たちを後にして颯爽と立ち去った。
その頃、動画を送ったグループチャットに、黒いアイコンのアカウントから冷ややかなメッセージが届く。
「俺の妻?勝手に決めるな。」