一方、海城。
文は、社長の新婚の妻から電話を受けたとき、ちょうど神崎司をホテルまで送り届けたところだった。
今夜はプライベート色の強い会食だった。神崎株式会社が最近進めているプロジェクトのために、朝倉家の年長者たちが集まっていた。普段ほとんど酒を口にしない社長も、今夜は数杯飲んだ。
文はまだ残務処理があり、朝倉紗織からの電話には少し驚いた。
この新妻から個人的に連絡が来ることはほとんどない。それも当然だろう――夫婦間のことは直接やり取りすればいいだけで、わざわざ自分の出番はない。社長の好みや性格を探ってくるわけでもなさそうだ。もしそのつもりならもっと早く聞いてくるはずだし、数日前には社長自ら丁寧にまとめた「情報シート」と「記入用テンプレート」を夫人に渡している。
この新婚夫婦のやりとりは、いかにも神崎司らしいスタイルだ。しかし、意外と仲は良さそうにも見える。
もしかして、本人には聞きにくいことでもあるのだろうか?それともチェックか?
そんなことを考えつつ電話に出ると、予想外の質問が返ってきた。
朝倉紗織は率直に聞かず、控えめに切り出した。「彼、最近は忙しいですか?」
文は社長夫人の意図を探りながら、もしかして社長の仕事熱心ぶりに寂しい思いをしているのかと考えつつ、慎重に答えた。「社長はこちらでいくつかのプロジェクトを同時に進めておりまして、海城は神崎株式会社の下半期の重点開発エリアです。この数日はスケジュールがかなり詰まっております。」長年神崎司のそばにいるだけあって、文の受け答えには隙がない。
朝倉紗織は話を続けた。「それだと、すぐには戻らない感じですか?」
文は答える。「あと数日はかかる見込みです。」
朝倉紗織は「分かりました」とだけ返した。
神崎株式会社は海城に三つの子会社を持つ。ひとつは酒造、ひとつはホテルチェーン、もうひとつが芸能育成事業のスターライトメディア――松本雅子がかつて取り込みたがっていた会社だ。
今回の神崎司の海城出張は、提携の話もあるが、各子会社の視察が主な目的だ。
会議が終わり、吉田思が会議室を出て神崎司の横に歩み寄った。「社長。」
神崎司が横目で見る。「何かあるのか?」
「スターライトメディアの最近の状況について、いくつかご相談したいことがありまして……今夜、お時間いただけますか?」
吉田思は叔母の松本雅子の姪にあたる。
少し前にスターライトメディアの経営陣が一新され、新しい責任者が決まらないまま、今は彼女が暫定で取りまとめている。会議報告を見る限り、運営は安定しているが、細かい点で補足すべきことがあるのかもしれない。
神崎司は「詳細な報告書をまとめて提出してくれればいい」とだけ返した。
吉田思は一瞬詰まり、慌てて付け加えた。「やはり、今夜直接お話しできればと…ちょうど食事でもご一緒に、と。二姨(叔母)からも、しっかりおもてなしするよう言われていますし。」
神崎司は即答した。「気持ちは受け取るが、他に予定がある。スターライトの件は報告書の方が効率的だ。」食事の誘いはあっさり断られ、仕事のレポートだけが残った。
吉田思は無理に笑顔を作った。「……承知しました。」
高橋航はそのやりとりを遠くから見ていて、すべてを察していた――この吉田さんには明らかに別の意図がある。しかし神崎司は昔からそういうことに無頓着で、裏の意味などまるで理解しない。高橋航は心の中で苦笑し、吉田思が去ってから足早に近づいた。
「兄さん。」高橋航は神崎司の叔父の娘・高橋夢の夫であり、妻に合わせてこう呼んでいる。彼は神崎株式会社の海城エリアでホテルブランド――オセアニアホテルの責任者だ。
神崎司は会議後、ちょうどオセアニアホテルの視察に向かうところで、高橋航も同行した。神崎株式会社の高級ホテルブランドとして、オセアニアは宿泊だけでなく周辺商業圏と連動した独自の小さな経済圏を築いている。
神崎と朝倉の縁組をきっかけに、両家の連携も本格化していた。朝倉家は食品事業が主力で、ホテル業との連携が最も分かりやすい。商品はホテルや近隣の百貨店にも徐々に取り入れられている。
ホテルと百貨店はすぐ近くにあり、神崎司もついでに百貨店を見て回った。高橋航が担当するプロジェクトはどれもきちんと整っていた。神崎司はこの後も予定があったため、長居はしなかった。
高橋航が出口まで見送る途中、入居しているジュエリーブランドの店先で店員に声をかけられた。
「高橋様、ご注文のジュエリーが入荷しました。ご自身で取りにいらっしゃいますか、それともいつものご住所にお届けしますか?」
高橋航は「後で自分で取りに来る」と答えた。
「かしこまりました。」
高橋航は振り返り、神崎司の冷静なまなざしと目が合い、なぜか少し緊張して慌てて説明した。「夢へのサプライズなんです。」夫婦で海城の事業を任されているが、高橋夢は仕事柄出張が多く、今回は香港へ一週間ほど行っていて間もなく帰ってくる。
神崎司は思案顔で言った。「夢はあまりこういう物に興味がないと記憶していたが。」叔母の松本雅子と違い、高橋夢は控えめで実直な性格で、同年代がブランド物に夢中になっている時も、仕事や勉強に打ち込んでいた。
高橋航は笑った。「興味がなくても、贈り物をもらえばやっぱり嬉しいものですよ。」
実際、付き合い始めてから結婚に至るまで、彼は大小さまざまなプレゼントを贈ってきた。値段の問題ではなく、気持ちがこもっていれば高橋夢はいつも喜んでくれた。
兄さんも結婚したばかりで、しかも政略結婚のような形で、お互いの気持ちはまだ浅いだろう。そんな思いから、高橋航は「ちょっとした心遣いが、夫婦仲にはとても大事ですよ」とアドバイスせずにはいられなかった。
高橋航と高橋夢の関係は本当に良好だ。神崎司は黙ってうなずいた。
文も二人の後ろで一部始終を聞いており、少し迷ったが、ついに社長に夫人の件を切り出した。
「昨晩、奥様からお電話がありまして、社長のご様子を尋ねられました。」
神崎司は部下の報告書に目を通していたが、その言葉にふと顔を上げ、目にかすかな疑問の色が浮かぶ。
優秀な秘書は会話の主旨を正確に抽出するだけではなく、相手の気持ちを読み取ることも求められる。文は言葉を選びながら続けた。「奥様は、社長がいつご帰宅されるかと気にされていました。」そして、少し冗談めかして善意の“解釈”を添える。「お声からすると……奥様は、少し寂しがっていらっしゃるようですよ。」