康平は手に持っていた巻きたての充電ケーブルを強く握りしめていた。プラグの金属部分が、じんわりと掌に食い込む。
彼の目からは完全に温かみが消え失せていた。
「どういう意味だ?」
「斎藤麻衣に産んでもらえば?」
理音の声は鋭く、まるで刃物のようだった。
「あの人なら、きっと喜んであなたのベッドに入るわ――」
その言葉が終わる前に、康平は充電ケーブルを勢いよく床に叩きつけた。
部屋の空気が一瞬で凍りつく。
康平の胸は大きく波打ち、息が荒くなっている。下げた手は微かに震えていた。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?」
彼は歯を食いしばった。言葉一つひとつが、唇の隙間から絞り出される。
「人間の言うことか、それ。」
理音はさらに言葉を尖らせた。
「そうよ、私は最低。何度でも言うわ、麻衣に産ませれば。あなたたち斎藤家の“高貴な血”、他人なんかに渡したらもったいないでしょ!」
康平の首筋が赤く染まり、浮き出た血管が激しく脈打っている。拳を握りしめ、顎の筋肉がぴんと張っていた。彼の視線は、ドアのそばに立つ理音に釘付けになる。
理音は一歩も引かず、むしろ顎を少し上げて、挑むような目つきを返す。まるで、その一発を期待しているかのように。
その一撃で、彼女のわずかな期待を粉々にしてほしかった。
その一発で、残り少ない依存心を吹き飛ばしてほしかった。
そして最後に残った、捨てきれない惨めな恋心も消し去ってほしかった。
窓の外から雪が舞い落ちる音が、静寂の中で微かに耳に届く。
時間がゆっくりと過ぎていく。張り詰めた空気は、今にも破裂しそうな風船のよう。ほんの小さな火花で、すべてが爆発しそうだった。
どれほど経ったのか、康平はゆっくりと視線を外し、抑えた声で言った。
「お腹すいてるだろ? 何か買ってくるよ。」
そう告げると、無表情で床に転がったケーブルをまたぎ、そのまま部屋を出ていった。
再び、部屋にはしんとした静寂が戻った。
理音は乱暴に目元をぬぐい、強い自己嫌悪に包まれた。どんどん棘のある自分に嫌気が差し、すぐに感情的になる自分も、そしてこの息苦しい現実も、すべてが大嫌いだった。
結婚しても、何も良くならなかった。
ずっと憧れていた人と結ばれても、夢見た相手を手に入れても、幸せにはなれなかった。
雪松町は典型的なリゾート地で、年末が近づくと観光客でごった返し、宿泊費も高騰する。インスタントラーメンすら品薄になるほどだった。
康平はやっとの思いで、南港料理を出す食堂を見つけ、カウンターで料理ができるのを待っていた。
「ご安心ください、私のこの訛り、間違いなく南港生まれですよ。料理担当はうちの奥さん、きっと奥様の口に合うはずです。」
店主が胸を張る。
「ありがとうございます。」
店主は興味深そうに尋ねた。
「奥様、南港の味じゃないとダメなんですか?」
「まあ、そんな感じですね。かなりの偏食家で。」
康平は丁寧に答えた。
「せっかく同郷なんですし、奥様もご一緒にどうです? うちは暖かいですよ。」
「少し気まずくて。」
康平はスマホをいじりながら答えた。
「今ちょうど機嫌を取ろうとしてるところで。」
店主は意味深に目を細めて笑う。
「どんなに格好良くても、奥さんのご機嫌取りは男の務めですからね。なんだかホッとしましたよ、はは。」
康平は苦笑いを浮かべる。
料理を受け取り、ふと窓辺の花瓶に目を止めた。
「この花、譲ってもらえませんか?」
「ボタンですか?」
店主は驚く。
「それはうちの奥さんに聞かないと。あの花は大事にしてるんですよ。」
この雪深い季節に、見事な黄いボタンを手に入れるのは至難の業だった。
店主の奥さんは最初は渋ったが、康平は優しく頼み込んだ。
「うちの妻は目が肥えていて、普通の花じゃ満足しないんです。他にはないものが好きで。十倍出しますから、二本……一本でもいいので、譲ってもらえませんか。」
店主の奥さんは彼をじっと見つめた。
質素な服装でも、モデルのように着こなす若者。しばし考えた末、頷いた。
康平は大切にボタンと料理を抱え、足早に宿へ戻った。花が冷えたり、料理が冷めたりしないようにと、足取りはいつもより急いでいた。
無事に旅館へ戻り、部屋の前でドアをノックする。
中からは何の反応もない。
もう一度、声を落としてノックする。
「理音、開けて。」
少し待つが返事はない。
康平はため息をつき、少し声を柔らかくした。
「悪かったよ。あんな言い方するべきじゃなかった。ほら、すぐ戻ってきただろ?」
口は悪いが、これまで本当に彼女を見捨てたことは一度もなかった。幼い頃からの付き合いで、何度も喧嘩して、何度も仲直りしてきた。お互いの性格なんて、とっくに分かりきっているはずだ。
「理音、他の女をベッドに入れてもいいのか? 本当にそうしたら、お前、俺の足を折るだろ……」
その時、隣から足音がして、疑問の声がかかった。「どなたかお探しですか?」
康平の言葉が止まる。
旅館の主人、田中恵が立っていた。
「理音を探してます。僕の妻です。」
田中は目を丸くした。
「ああ、あなたがご主人様でしたか。」
「……」
「もうノックしなくて大丈夫ですよ。」
田中は肩をすくめた。
「斎藤理音様は、もうチェックアウトされました。」
康平の表情が一瞬で固まる。
田中は彼を見ながら続けた。
「斎藤理音様には、あなたの写真を見せてもらったことがあります。」
何年も前のことだ。写真の中の彼は今よりずっと幼く、制服姿でバスケットボールを回し、ふとした視線をカメラに向けていた。その頃、理音は彼のことを話すたび、隠しきれない喜びと恥じらいを浮かべていた。
「今年は二日しか遊べないの。帰って補習しないといけないから、彼が教えてくれるの。」
その後、田中は彼女の薬指の指輪を見て、「ご主人は一緒じゃないんですか?」と冗談めかして聞いたことがある。
理音は平然と答えた。
「妹が結婚したから。」
翌年も田中が尋ねると。
「妹が離婚したの。」
そして今年、三度目に尋ねたとき、理音は笑ってこう言った。
「妹が死んだの。」
田中はふと考えた。好きな人と結婚したはずなのに、年々幸せそうに見えなくなっていくのは、どうしてだろう、と。
理音はただ目を細めて微笑むだけで、何も答えなかった。
廊下は静まり返っていた。
田中は沈黙している康平を見て、言葉を続ける。
「斎藤様は数日分の宿泊費を多めに支払われていますので、ご滞在はそのままで大丈夫です。」
康平は薄暗い廊下に立ち尽くし、前髪がうつむいた顔を隠していた。
「今日、彼女は外出していましたか?」
田中は少し間を置いて答える。「ええ、斎藤様はスキーが好きですから。」
「どれくらい出かけていました?」
「たぶん、五時間ほどですね。」
「戻ってきたときは……様子はどうでしたか?一人でしたか?」
田中は言葉を選びながら答えた。夕方、理音が帰ってきたとき、いつもと違う様子だった。大事にしていた腕輪さえ「誰かにあげた」と言っていた。この三年間一度も会ったことのなかった夫が、初めて現れてこんなふうに問い詰めるなんて――何かあったのかと不安がよぎった。
田中は、笑みを浮かべつつ静かに告げる。
「特に変わった様子はなかったですよ。斎藤様はいつもお一人です。昔はご両親やお祖父様も一緒でしたが、ここ数年はずっと一人です。」
康平は数秒沈黙し、さらに尋ねる。
「怖がっていたり、緊張したり、何か……特別な表情は?」
田中は慎重に言葉を選びながら答えた。
「……少し、元気がないようには見えました。帰ってくるなり、外で着ていた服を全部捨てていましたから。」