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第14話

斎藤康平は何も言わせず、大きなダウンジャケットで理音をすっぽりと包み込み、体格の差を活かして強引に理音を病院へと連れて行った。


「何もする必要はないよ」康平の声は優しいが、どこか背筋が寒くなるような響きがあった。「俺のそばにいてくれれば、それだけでいい」


理音はぶかぶかのダウンに身をすくめ、まるで彫像のように黙り込んでいた。


祖父が入院したときは、康平があれこれ動き回っていた。今は祖母が体調を崩しただけで、理音としては一緒に付き添うこと自体は別に苦ではない。


ただ、こうして強引に引っ張り回されるのはどうしても我慢できなかった。


車内は静まり返り、暖房がきいている。


康平がちらっと理音を見て、からかうような口調で言った。「もしかして、ばあさんにはもう目覚めてほしくないとか考えてるんじゃない?」


その一言で、さっき美咲からの電話で一度途切れた苛立ちが一気にぶり返し、さらに爆発した。


理音は怒りを抑えきれず、勢いよくドアノブを引いた。「じゃあ、私が死ねばいいんでしょ!!」


朝の通りに、急ブレーキの音が響き渡る。


二人ともシートベルトにきつく引き戻された。


康平は荒い息をつきながら、怒りをあらわにした。「理音!」


身を乗り出してドアをバタンと閉め、ロックをかけた。運転手以外、もう中からは開けられない。


「走行中にドアを開けるのがどれだけ危険かわからないのか!」康平は声を荒げた。「お前は……」


しかし、言いかけて理音の頬を伝う涙を見た瞬間、康平の言葉は途切れた。


理音は今にも切れそうな糸のように張り詰めていたが、ついにぷつんと音を立てて全てが崩れた。


康平は大きく息をし、そっと理音の頬を拭った。「ただ、少し話してほしかっただけなんだ。驚かせたか?」


「どうしていつも、私のことを最悪の方向で疑うの!」理音は涙声で叫んだ。「私が麻衣に何かした?お祖母様に死んでほしいとでも?そんなこと、思ったこともない!これが最後の説明よ!これ以上言わせたら、私なんて最低の人間だ!」


もう自分を弁解したくなかった。

どれだけ説明しても無意味だとわかっている。

でも、もう限界だった。もともと嘘をつくのが苦手なのに、なぜこんな酷い疑いをかけられなければならないのか。


康平の胸の奥に、重たい痛みが押し寄せた。


彼は腕を伸ばし、理音をしっかりと抱きしめた。「違う、全部俺が悪かった。冗談のつもりだったんだ……」


けれど、何を言っても、理音の心にはもう高い壁ができてしまい、そこに信頼は残っていなかった。


なぜ、ほかの誰かに同じことを言わないのだろう。

なぜ、ほかの誰かをからかうことはしないのだろう。

「理音なら耐えられる」と思って、何をしても許されると思っているのか。

私だって、もっと大切に扱われたっていいはずなのに――。



斎藤和子は突然の肺炎で呼吸不全を起こしたが、幸い処置が早く命に別状はなかった。


病院に着いたとき、理音の目は赤く腫れていた。


和子はベッドで弱々しく笑いながら、「死ねなかったわね。せっかく泣いたのに、無駄だったわ」と皮肉を言った。


康平は、逃げようとする理音の手をしっかりと握り、「お祖母様、理音は心配して泣いていただけです」と淡々と告げた。


和子は鼻で笑った。


面会が終わると、理音は一刻も早く病室を出たがった。これ以上いたら、何か言って祖母を本当に怒らせてしまいそうだった。


すべては、かつて康平が祖父の世話をしていたことへの恩義で、我慢しているだけだった。


理音の様子を察したのか、康平と慎一が病室に残り、美咲が理音を外へ連れ出した。


和子は薬を飲んだ後、すぐに眠りについた。


慎一は弟に目を向ける。「また喧嘩したのか?」


康平は唇を固く閉じ、眉間に深いしわを刻んだ。「最近は本当に手がつけられない。どうやっても機嫌が直らないんだ」


「前は理音さんがこんなにお祖母様に反発することなかったのにな」と慎一は冷静に言う。「今の彼女は、もうどうでもいいって投げやりな感じだな」


慎一は康平の肩を軽く叩いた。「祖父が亡くなって、彼女も辛いんだ。もっと気にかけてやれよ」


康平はそっけなく言う。「言われなくてもわかってる」


「さっき電話したのに出なかったけど?」と慎一が尋ねる。


「今それどころじゃなかった」と康平は苛立たしげに髪をかき上げた。「くだらない男と繋がってるゲームを消せって説得してたんだ」


しばし、兄弟の間に沈黙が流れる。


「正月が明けたら、理音を連れてしばらく海外に行くつもりだ。こっちは任せるよ」と康平が言った。


「向井の投資の件だけど、もう少し違う方法もあるんじゃないか」と慎一。


「裏でこっそりやるってことか?ただの投資案件だし、タダで金をやるわけじゃない」と康平は気のない返事をした。


ふと、鼻で笑って言った。「最近は俺に金をねだるようになったし、稼がないと妻を養えないしな」


慎一はそれ以上何も言わなかった。「好きにしろ」



理音はカウンセリングの予約を入れていた。自分の心のバランスが急激に崩れつつあるのをはっきり感じていて、とにかく病院を抜け出す口実が欲しかった。


「こっちで少し休もうか」と美咲が腕を取ってくる。「顔色が良くないし」


理音は素直にうなずき、スマートフォンで夏実に「5分後に電話して」とメッセージを送り、すぐ削除した。


美咲は理音の腫れたまぶたをじっと見つめた。「また喧嘩?」


「ううん」と理音は疲れ切った声で答えた。「私が一方的に取り乱してるだけ」


康平はいつも通り、何を言ってもどこか他人事のようで、理音の感情をまともに受け取ろうとしない。


そんな日々が続くと、全てが自分のわがままで騒いでいるだけのように思えてくる。


美咲はそっと理音の髪を撫でた。「ただの投資プロジェクトよ?康平も出資してるし、きっと慎重に判断してるはず……」


「……」理音は驚いて美咲を見つめた。「康平も投資してるの?」


美咲は自分の失言に気づいた。


一瞬の沈黙の後、理音は視線を落とし、頬が熱くなるのを感じた。


こんな状況になっても、どこかでまだ康平が自分の気持ちを考えてくれることを期待していた自分が馬鹿みたいだった。


もし本当に少しでも思いやりがあれば、こんなふうにはならなかったのだろう。


「ビジネスの世界なんてそんなものよ」と美咲は理音の手を握り、「向井も今では家族同然だし、問題がなければ助け合うのが普通なの」


そうやって家族は強くなっていくのだ。


理音はどこかぼんやりした顔で答えた。「でも、違うの」


「え?」


「私は麻衣とうまくいってない。でも、夫なら私の味方になってくれると思ってた。損得じゃなくて、みんなが正しいと言うからって理由じゃなくて……」


美咲は何も言えなくなった。


斎藤家のような家で育った男性たちは、幼いころから「正しいことをする」ように教育されてきた。

妻たちは、結婚したその日から、夫のビジネスに口を出さないのが当たり前だとされてきた。


理音もそんなことは分かっていた。それでも、どうしても納得できなかった。


タイミングよく、夏実から電話がかかってきた。


理音は電話を取ると、すぐに立ち上がった。「お姉さん、夏実と約束があるので先に行くね」


「……康平には伝えなくていいの?」と美咲は少し迷いながら聞く。


「焼きたてのスフレだから、待たせたら美味しくなくなっちゃう。お姉さん、代わりに伝えておいて」


会計窓口の近くまで来たとき、理音は麻衣と向井にばったり出くわした。


麻衣は進路をふさぐように立ち、「理音さん、兄さんが手配した漢方医を連れてきたの」と、わざとらしい優しさを見せた。


向井の隣には、確かに白髪の医師が立っていた。


理音は心の中で冷笑した。康平は本当に人を見る目がない。麻衣にどれだけ嫌な思いをさせられたか、そんな人が連れてきた医者なんて、信用できるわけがない。


「それ、聞き間違いじゃない?兄さんが頼んだのは、あなたのためだと思うけど」


そう言いながら、理音は麻衣の顔を一瞥し、全てを見透かすような冷ややかな眼差しを向けた。


「そういえば、もう“兄さん”はあなた専用の兄さんになったのね」

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