高橋夏実は心配そうに「どうしたの?」と声をかけてきた。
斎藤理音は多くを語りたくなくて、「病院はもう飽きたの。少し外の空気が吸いたくて」とだけ曖昧に答え、高橋夏実の付き添いもやんわり断った。
理音は一人でタクシーに乗り、カウンセリングルームへ向かった。
カウンセラーは一連の検査を行い、心に引っかかることを全て話すよう促した。
理音は長い沈黙のあと、戸惑いながら言った。「うまく言葉にできません」
たくさんのことがあるはずなのに、今は何ひとつ具体的に思い浮かばない。
それらはまるで泥水のように溶け合い、形を失って、どこから手をつけていいのか分からなかった。
「大丈夫ですよ」とカウンセラーは穏やかに微笑む。「じゃあ、別の話から始めてみましょう」
まずは身近な人について話してみませんか、と提案された。
理音が最初に思い浮かべたのは麻衣の名前だった。
理音は康平より10ヶ月年下、麻衣より8ヶ月年下だった。
麻衣は物静かで、どこかお姫様のような雰囲気があった。理音が康平に一番純粋な憧れを抱いていた頃、麻衣と仲良くなりたいと夢見ていたことすらある。
二人とも康平のことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。
家で唯一の娘として、理音はとても大切にされていた。祖父が海外から可愛いドレスを買ってきてくれると、理音は「麻衣ちゃんにも買ってあげて」とねだったものだった。
だが、今思い返すと、そのドレスを麻衣が着ているのを見たことはなかった。
当時の理音は分かっていなかった。よそ者である麻衣にとって、自分の好意が上から目線の同情に映っていたのかもしれない、と。
ある日、理音が斎藤家を出たとき、偶然、家政婦がゴミを捨てに出てくるのを見かけた。
ゴミ袋の中には、理音が麻衣にあげた小さなパンが捨てられていた——それは理音が初めて焼いたパンで、一番ふわふわに焼けたものを選び、リボンまでつけて贈ったものだった。
康平にすらあげなかった貴重なパンだった。
理音は我慢できず、パンを持って麻衣に問い詰めに行った。
家族全員がいる前でのことだった。
麻衣はまるで本物のお姫様のように家族に囲まれて、か弱く、無垢な存在に見えた。
理音は初めて、胸がちくりと痛むような違和感を覚えた。
麻衣は怯えた声で「お兄ちゃん」と呼び、理音の胸はひどく苦しくなった。
麻衣は、パンは飼い猫のアリが倒して汚してしまったから捨てたのだと説明した。
そして、アリに代わって理音に謝った。
理音はその謝罪を受け入れなかった。
家族が見ている前で、理音は目に涙を浮かべて言った。「もう友達になりたくない。あなたは私のこと好きじゃないって、分かるんだ」
麻衣は手を伸ばして理音を引き止めようとし、理音以上に泣き出してしまった。
大人たちは「たかがパン一つのことよ」「姉妹仲が悪くならないで」となだめた。
理音は混乱した。
なぜ自分が悪者になってしまったのか、納得できなかった。
家に帰る途中、理音はあの捨てられたパンを抱えて泣きながら口に押し込んだ。
その時、康平が追いかけてきて、理音が汚れたパンを食べようとするのを止めた。「なんで麻衣だけにあげるの? 僕の分は?」
そう言って、康平はパンを取り上げ、自分で食べてしまった。
理音は、あっけなく機嫌を直した。
——だが、その三日後、アリが死んだ。ゴミ箱の中で死んでいた。
理音は唯一の疑いの目を向けられる存在となった。
斎藤家は両家の関係を壊さないため、その件を表沙汰にせず、麻衣には十分な補償を与えた。
しばらくして、麻衣の友人がうっかり口を滑らせたことで、理音は初めて自分が「猫を殺した」と思われていることを知った。
家族の誰もが、理音にその「罪」を背負わせていた。
康平ですら、何も教えてくれなかった。
理音にとって、それは裏切りだった。
一週間、康平を無視し続けた。
康平は、理音がずっと欲しがっていた限定の「スターリーベア」を持ってきてくれた。祖父が「もうおもちゃは十分だ」と買ってくれなかったあのぬいぐるみだ。
理音は尋ねた。「信じてくれる?」
あの頃の理音は、康平にだけ信じてもらえればそれでよかった。
康平は淡々と「本当の犯人を調べていて、言う暇がなかった」とだけ告げた。
その一言で、理音の心のつかえはすっと消えた。
——けれど、今思い返してみると、やはり納得できない。アリの死因も分からないのに、なぜ自分だけが疑われたのか。麻衣はその中でどんな役割を果たしていたのか。誰も彼女を問い詰めなかったのはなぜ? しかも麻衣は泣きながら理音のために「許してあげて」と頼んだという——まるで理音が本当に「犯人」であるかのように。
あの頃は、康平が「犯人を探してる」と言ってくれただけで信じられた。
でも今は違う。
25歳になった理音は「本当に私を信じてくれるなら、麻衣ときっぱり距離を置いてほしい」と思っている。
けれど、康平にはそれができないようだ。
だったら、麻衣と一緒にどこか遠くに行ってしまえばいい。
できるだけ遠くに——
――――
理音は薬を拒否した。
カウンセラーは「ペットを飼ってみるとか、何か別のものに頼ってみては?」と提案した。「一人や一つのことに心を預けるのではなく、寄りかかる場所を増やしたほうがいいですよ」
そうすれば、何か一つを失っても、世界のすべてが壊れるような気持ちにはならないから、と。
理音は冗談めかして「子どもでもいいですか?」と尋ねた。
「……」
「分かりました。じゃあ、子どもと犬を飼えば寄りかかるものが二つですね」
カウンセラーは少し困った様子で、
「何か不安になったら、いつでも連絡してください」
と言った。
理音はお礼を言った。
「いえいえ、お金をいただいてますからね」とカウンセラーは微笑んだ。
――――
携帯の電源を入れると、メッセージと不在着信が一気に押し寄せた。
ほとんどが康平からのものだった。
その中に夏実からの連絡もあった。
理音はまず夏実に電話をかけ直した。「どうしたの?」
「どこにいるの? 旦那さんがうちまで来たのよ!」
「……」
「もうスフレの口実は使えないから、何か他の理由を考えて。私はあなたがさっきまでうちにいたって言っておいたから」
理音は少し黙ってから、「その言い方だと、まるで浮気現場を押さえに来たみたいじゃない?」
「まあ、そんな感じよ」夏実はあっけらかんと続ける。「旦那さんの顔、浮気どころかベッドの上で現場を見つけたみたいな勢いだったわ」
「……」
「気をつけてね。あの人、外の人間には容赦しないから」
夏実の電話が切れると、すぐに康平から着信があった。
理音が出ると、しばし沈黙が続き、張りつめた声が届いた。「どこにいる?」
理音は周囲を見回してから答えた。「ペットショップ」
「……」康平は喉を鳴らし、「どうしてそんな所に… 一人で?」
「夏実はキッチンの片付けがあるから、無理に誘えなかったの」
理音は平然と嘘をついた。
康平の声は少し和らいだように聞こえた。「ペット、飼いたいの?」
「うん、もう切るね」
「……」康平は小さく咳払いして、「待ってて。一緒に選ぼう。君のペット、どうせ俺も世話することになるし」
理音は特に返事をしなかった。
ペットショップまではあと5分ほど。康平が来るのを待つのも面倒で、理音は店の中をぶらぶらと見て回った。
そして、黒い雑種の子犬を一匹選んだ。
「兄弟たちはみんなもらわれていったのに、この子だけ残ってしまって…」店主は言った。「特別安くしますよ、五百円で」
子犬は不安そうに身を寄せていた。
「もとの値段はいくら?」と理音が尋ねると、
「……二千円です」
「じゃあ、二千円で」
家族になったからには、値切るつもりはなかった。
理音は子犬を上着で包み、道路脇へ向かった。
康平の車はすでに到着していて、ピタリと理音の前に停まった。
康平が大股で歩み寄り、理音とその腕の中の犬をじっと見つめた。「買ったの? 拾ったの? まさか騙されてないよな? こんな地味で元気のない子犬を…」
理音は素早く犬の耳を隠し、
「うちの子に失礼なこと言わないで!」
「うちの子?」康平が吹き出した。「つまり俺の子でもあるってこと? 名前は?」
「早川ハチ。呼び名はハチ」
「……」