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第16話

早川って名字?

斎藤康平は本気で気にしているわけではなく、ただ理音にもう少し話させたくて茶化しただけだった。「斎藤ルフィ?」

理音は気分が沈んでいて、こういう冗談に付き合う余裕もなかった。

康平は手を伸ばして、彼女が抱えているハチを受け取ろうとする。

理音はとっさに身を引いた。「私のだから。」

「……」康平の手が空中で止まる。「汚れてるし、動物病院で予防接種と駆虫も必要だろ。君のものとか僕のものとか関係ないよ。僕は君の夫なんだから。」

「自分で連れていけるよ。」

康平はしばらく理音を見つめ、犬を抱くのはやめて、代わりに理音の腰を引き寄せて抱きしめた。

「出かけるときは一言言ってくれよ。」声を落として続ける。「せっかく名医を呼んだのに、すっぽかされたら困るだろ。」

理音は首をかしげた。「すっぽかしてないよ。麻衣がいるじゃない。ついでに脈でも見てもらって、男の子か女の子か聞けばいいでしょ。」

「……」

「行く?行かないなら私タクシーで行くから。」理音はイライラして言った。

康平は口元を引き締めて、助手席のドアを開け、理音を車に押し込んでシートベルトを締める。

理音は彼に世話されるのに慣れていて、窮屈さも感じていない。気分がいい時はふざけてキスしたりして、いつも康平を手のひらで転がしていた。

今回はわざとゆっくりと、理音の好みそうな角度で顔を寄せる——理音は顔重視なのだ。

すると理音は犬に触った手で康平を押しのけた。「離れて。生理的に無理な時はどうしようもないの。」

「……」


車は動物病院へ向かう。

康平は険しい顔で、理音の返事を待たずに次々と質問をぶつけてくる。「スフレ、美味しかった?」

「うん。」

「高橋夏実の家にいたけど、スフレの匂いなんてしなかったけど?」

「風邪でも引いたんじゃない?」

「……」康平は顎を固くした。「高橋夏実の家からペットショップまで、どう考えても2時間はかかるよ。」時間が合わない。

彼が高橋夏実の家に着いた時、「ちょうど理音さんが出たばかりですよ」と言われた。仮に「出たばかり」が1時間前だったとしても、理音がペットショップに着くのは早すぎる。タクシー待ちや渋滞も考えれば無理がある。今はちょうど帰宅ラッシュで、この辺りは特に混む。

つまり……最初からこの近くにいたのか。

一人だったのか?

本当に高橋夏実の家に行ったのか?

本気で調べようと思えばすぐに分かる。でも康平はそうしない。もしかしたら、真実を見るのが怖いのかもしれない。見なければ、理音の嘘を信じ続けられる。理音がずっと自分だけを愛していると信じていたい。

理音がハチを撫でる手が、ほんの一瞬止まった。心理クリニックに行ったことを隠すのに必死で、時間の辻褄を合わせるのを忘れていたのだ。

理音は平然と返す。「頭いいね。」

「……」

「でも、都合のいい時だけ頭が回るんだよね。」理音は続ける。「麻衣のことになると、聞こえないふりしてばっかり。下手に賢くなりすぎて彼女を傷つけたくないって思ってるでしょ。」

その時、右側から宝石のような青い車が強引に割り込んできた。

康平はすかさずクラクションを鳴らす。

理音は無言で、窓の外に顔を向けた。

前の青い車は、数メートル走ったところで急ブレーキをかけた。

康平の性格なら、絶対に引き下がらない。追突くらい、どうってことはない。むしろこの怒りをぶつけたかった。

でも、今日は理音が隣にいる。

車が前の車にぶつかりそうになった瞬間、理性が戻り、康平は急ブレーキを踏んだ。

「ちゃんと座ってろ。」康平は怒気を含んだ声で言った。「絶対に降りるなよ。」

そう言うと、ドアを開けて車を降り、青い車の運転席に向かって歩き、いきなりドアを引き開けた。

理音は気にしなかった。斎藤家の次男が月ノ港で好き放題やってきたのに、こんなことで我慢できるはずがない。きっと、この怒りの半分は自分へのものだろう。

2台の車が道を塞ぎ、あっという間に渋滞になった。

フロントガラス越しに、相手のドライバーが警棒を持って降りてきて、康平が腹にパンチを食らわせるのが見えた。

理音はハチの頭を撫でた。「お腹すいたよね? 先に行こっか。」

ハチは分からないまま、うるうるした目で理音だけを見つめている。

その視線に、理音の胸の奥に溜まったモヤモヤが、少し和らぐのを感じた。

「大丈夫だよ。」理音はやさしく囁いた。「これからは家族ができるんだよ。私にも家族ができたんだ。」

理音はハチをバッグに入れて、静かに車を降りた。


動物病院までは少し距離があり、30分ほど歩いて到着した。

診察の結果、ハチはワクチンと駆虫をしてもらった。

その間も、理音のスマホは鳴りっぱなしだった。全部、康平からの着信だ。

うるさくて、電源を切ってしまった。


きれいになったハチは、どこに行くにも理音の後ろをぴったりついてくる。小さな足で、靴のかかとを踏みそうなほどだ。

理音は思わず笑った。「そんなについてきたら、踏んじゃうよ。」

理音とハチは竹庭の邸に帰った。

明日は大晦日。マンションの中は飾り付けがされ、赤い提灯がずらりと並び、管理組合の新年メッセージも貼られて、どこも賑やかだ。

理音はネットでハチのために最高級のペット用品を注文した。

人は、やっぱり何かを大切にすることで、働く意味も見えてくるんだなと実感する。

そう思いながら、彼女はスマホの電源を入れて、棋院の責任者に電話をかけた。来年から棋院で働くことを決めたのだ。

棋院は祖父の遺した事業だ。理音は気まぐれな性格で、当時は祖父に無理やり三段まで取らされたものの、子どもたちに教えるくらいなら十分できる。

進む道が決まり、新年の目標も決まった。あとは離婚と、子どもを産むかどうか考えることだけ。

康平の様子を見る限り、簡単には手放してくれそうもない。斎藤家は権力もあるし、康平自身も強引な性格だ。理音は本気で、彼が暴走したら自分には太刀打ちできないと感じていた。

男って本当に身勝手だ。自分がいらないと言いだすことはあっても、女から振られるのは絶対に許せないらしい。

理音はどうにかして、康平の方から離婚を切り出させる方法を考えなければ、と頭を巡らせた。

まだ答えが出ないうちに、また電話が鳴った。

出ると、賑やかな声と共に、懐かしい声が聞こえてきた。「理音ちゃん! 宗介くんが帰ってきたぞ!」

小林宗介は康平の幼なじみで、理音が唯一気に入っている友人でもある。

この2年、小林宗介は家の都合で北極圏に飛ばされていた。康平から聞いた話では、ようやく親を説得して帰ってきたらしい。

理音は驚いた。「本当に帰ってきたの?」

「もちろん! 今すぐ集合だよ、みんなで遊ぼう!」

そのグループには必ず康平がいるはずで、理音のやる気は一瞬で消えた。

「行かない。」

「そんなこと言わずにさ、早く! もうすぐ理音ちゃんの家に着くから。赤いカーペットでも敷いて迎えてやろうか?」

「……」


電話を切ると、小林宗介は運転席の康平に向かって顔をしかめた。「お前、理音ちゃんに何かしたんじゃないのか?」

「僕の妻だぞ。なんでお前が呼ぶとすぐ出てくるんだよ。」康平は不機嫌そうに言う。

宗介は呆れて目をむいた。「それは……俺が普通の人間だからじゃない?」

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