早川って名字?
斎藤康平は本気で気にしているわけではなく、ただ理音にもう少し話させたくて茶化しただけだった。「斎藤ルフィ?」
理音は気分が沈んでいて、こういう冗談に付き合う余裕もなかった。
康平は手を伸ばして、彼女が抱えているハチを受け取ろうとする。
理音はとっさに身を引いた。「私のだから。」
「……」康平の手が空中で止まる。「汚れてるし、動物病院で予防接種と駆虫も必要だろ。君のものとか僕のものとか関係ないよ。僕は君の夫なんだから。」
「自分で連れていけるよ。」
康平はしばらく理音を見つめ、犬を抱くのはやめて、代わりに理音の腰を引き寄せて抱きしめた。
「出かけるときは一言言ってくれよ。」声を落として続ける。「せっかく名医を呼んだのに、すっぽかされたら困るだろ。」
理音は首をかしげた。「すっぽかしてないよ。麻衣がいるじゃない。ついでに脈でも見てもらって、男の子か女の子か聞けばいいでしょ。」
「……」
「行く?行かないなら私タクシーで行くから。」理音はイライラして言った。
康平は口元を引き締めて、助手席のドアを開け、理音を車に押し込んでシートベルトを締める。
理音は彼に世話されるのに慣れていて、窮屈さも感じていない。気分がいい時はふざけてキスしたりして、いつも康平を手のひらで転がしていた。
今回はわざとゆっくりと、理音の好みそうな角度で顔を寄せる——理音は顔重視なのだ。
すると理音は犬に触った手で康平を押しのけた。「離れて。生理的に無理な時はどうしようもないの。」
「……」
—
車は動物病院へ向かう。
康平は険しい顔で、理音の返事を待たずに次々と質問をぶつけてくる。「スフレ、美味しかった?」
「うん。」
「高橋夏実の家にいたけど、スフレの匂いなんてしなかったけど?」
「風邪でも引いたんじゃない?」
「……」康平は顎を固くした。「高橋夏実の家からペットショップまで、どう考えても2時間はかかるよ。」時間が合わない。
彼が高橋夏実の家に着いた時、「ちょうど理音さんが出たばかりですよ」と言われた。仮に「出たばかり」が1時間前だったとしても、理音がペットショップに着くのは早すぎる。タクシー待ちや渋滞も考えれば無理がある。今はちょうど帰宅ラッシュで、この辺りは特に混む。
つまり……最初からこの近くにいたのか。
一人だったのか?
本当に高橋夏実の家に行ったのか?
本気で調べようと思えばすぐに分かる。でも康平はそうしない。もしかしたら、真実を見るのが怖いのかもしれない。見なければ、理音の嘘を信じ続けられる。理音がずっと自分だけを愛していると信じていたい。
理音がハチを撫でる手が、ほんの一瞬止まった。心理クリニックに行ったことを隠すのに必死で、時間の辻褄を合わせるのを忘れていたのだ。
理音は平然と返す。「頭いいね。」
「……」
「でも、都合のいい時だけ頭が回るんだよね。」理音は続ける。「麻衣のことになると、聞こえないふりしてばっかり。下手に賢くなりすぎて彼女を傷つけたくないって思ってるでしょ。」
その時、右側から宝石のような青い車が強引に割り込んできた。
康平はすかさずクラクションを鳴らす。
理音は無言で、窓の外に顔を向けた。
前の青い車は、数メートル走ったところで急ブレーキをかけた。
康平の性格なら、絶対に引き下がらない。追突くらい、どうってことはない。むしろこの怒りをぶつけたかった。
でも、今日は理音が隣にいる。
車が前の車にぶつかりそうになった瞬間、理性が戻り、康平は急ブレーキを踏んだ。
「ちゃんと座ってろ。」康平は怒気を含んだ声で言った。「絶対に降りるなよ。」
そう言うと、ドアを開けて車を降り、青い車の運転席に向かって歩き、いきなりドアを引き開けた。
理音は気にしなかった。斎藤家の次男が月ノ港で好き放題やってきたのに、こんなことで我慢できるはずがない。きっと、この怒りの半分は自分へのものだろう。
2台の車が道を塞ぎ、あっという間に渋滞になった。
フロントガラス越しに、相手のドライバーが警棒を持って降りてきて、康平が腹にパンチを食らわせるのが見えた。
理音はハチの頭を撫でた。「お腹すいたよね? 先に行こっか。」
ハチは分からないまま、うるうるした目で理音だけを見つめている。
その視線に、理音の胸の奥に溜まったモヤモヤが、少し和らぐのを感じた。
「大丈夫だよ。」理音はやさしく囁いた。「これからは家族ができるんだよ。私にも家族ができたんだ。」
理音はハチをバッグに入れて、静かに車を降りた。
動物病院までは少し距離があり、30分ほど歩いて到着した。
診察の結果、ハチはワクチンと駆虫をしてもらった。
その間も、理音のスマホは鳴りっぱなしだった。全部、康平からの着信だ。
うるさくて、電源を切ってしまった。
—
きれいになったハチは、どこに行くにも理音の後ろをぴったりついてくる。小さな足で、靴のかかとを踏みそうなほどだ。
理音は思わず笑った。「そんなについてきたら、踏んじゃうよ。」
理音とハチは竹庭の邸に帰った。
明日は大晦日。マンションの中は飾り付けがされ、赤い提灯がずらりと並び、管理組合の新年メッセージも貼られて、どこも賑やかだ。
理音はネットでハチのために最高級のペット用品を注文した。
人は、やっぱり何かを大切にすることで、働く意味も見えてくるんだなと実感する。
そう思いながら、彼女はスマホの電源を入れて、棋院の責任者に電話をかけた。来年から棋院で働くことを決めたのだ。
棋院は祖父の遺した事業だ。理音は気まぐれな性格で、当時は祖父に無理やり三段まで取らされたものの、子どもたちに教えるくらいなら十分できる。
進む道が決まり、新年の目標も決まった。あとは離婚と、子どもを産むかどうか考えることだけ。
康平の様子を見る限り、簡単には手放してくれそうもない。斎藤家は権力もあるし、康平自身も強引な性格だ。理音は本気で、彼が暴走したら自分には太刀打ちできないと感じていた。
男って本当に身勝手だ。自分がいらないと言いだすことはあっても、女から振られるのは絶対に許せないらしい。
理音はどうにかして、康平の方から離婚を切り出させる方法を考えなければ、と頭を巡らせた。
まだ答えが出ないうちに、また電話が鳴った。
出ると、賑やかな声と共に、懐かしい声が聞こえてきた。「理音ちゃん! 宗介くんが帰ってきたぞ!」
小林宗介は康平の幼なじみで、理音が唯一気に入っている友人でもある。
この2年、小林宗介は家の都合で北極圏に飛ばされていた。康平から聞いた話では、ようやく親を説得して帰ってきたらしい。
理音は驚いた。「本当に帰ってきたの?」
「もちろん! 今すぐ集合だよ、みんなで遊ぼう!」
そのグループには必ず康平がいるはずで、理音のやる気は一瞬で消えた。
「行かない。」
「そんなこと言わずにさ、早く! もうすぐ理音ちゃんの家に着くから。赤いカーペットでも敷いて迎えてやろうか?」
「……」
—
電話を切ると、小林宗介は運転席の康平に向かって顔をしかめた。「お前、理音ちゃんに何かしたんじゃないのか?」
「僕の妻だぞ。なんでお前が呼ぶとすぐ出てくるんだよ。」康平は不機嫌そうに言う。
宗介は呆れて目をむいた。「それは……俺が普通の人間だからじゃない?」