目次
ブックマーク
応援する
23
コメント
シェア
通報

第17話

斎藤理音はハチを連れてきた。


斎藤康平が目配せをすると、小林宗介は素早く助手席を空けて自分は後部座席へ移った。

理音は視線を逸らすことなく助手席のドアを閉め、身をかがめて後部座席に乗り込んだ。


宗介は唖然とする。


「もう少し詰めてよ」と理音が言う。「ハチが窮屈になっちゃうでしょ」


宗介は前方をちらりと見る。「運転手」は険しい顔でルームミラー越しにある女性を見つめている。


「いつの間に俺に子どもができたんだよ……俺、父親だったっけ……」

宗介が言いかけたその時、前からキーホルダーが飛んできた。


康平が冷たく言い放つ。「それは俺の息子だ!」


宗介は呆れて、「はいはい、わかったよ」と投げやりに返す。雰囲気を和らげようとしただけなのに。


理音はハチを抱き上げて優しく語りかける。「ほら、これが宗介おじさんだよ」


……宗介は“宗介おじさん”と呼ばれた瞬間、一気に二十歳は老け込んだ気分で、「宗介くんって呼んでよ」と抗議する。


「理音」と康平が振り返り、彼女をじっと見て言う。「俺はハチの何なんだ?」


理音は不思議そうに、「斎藤おじさん」と答える。


康平:「……?」


宗介は“宗介おじさん”の呼び名が、急に心地よく思えてきた。


「俺たちの婚姻届はちゃんと受理されてる。お前が母親なら、俺が父親で当然だろ、わかるか?」

康平が詰め寄る。


理音は前を見据えたままきっぱり言う。「ハチは私の子よ。私だけの」


「……」


「誰とも分かち合いたくないの。あなたとも」


康平の胸がズキリと痛む。


宗介は右を見、左を見、ぎこちなく場を繕う。「ま、まあ康平、理音とそんなことで争うなよ。いずれお前らの子どもはちゃんと二人のものになるんだし……」


康平は少し表情を和らげて、「その通りだな」と答える。


理音は視線を落とし、ハチの潤んだ瞳を見つめる。


「一応、個室を取っといたから」と宗介は話題を変えようとする。「人も多いし、友達も呼んでみんなで盛り上がろうよ」


理音は首を横に振る。「いいえ、みんな忙しいから」


「そんなこと言わずに」と宗介は食い下がる。「もうすぐお正月だし、少しは休まないと」


理音は淡々とした口調で言う。「宗介くん、あなたがいなかったら、このグループには来なかったと思う」


……


せっかく和らいだ空気が、またピリつき始める。


宗介は心の中で嘆く。北極にでもいた方がマシだったかも。帰ってきた途端、なんでこんな難題を押し付けられるんだ。そりゃ康平が「親切」に親父さんに頼み込んでくれたわけだ。


宗介は気まずそうに、「そ、そんなこと言うなよ。山口とか森田とか、みんないいヤツじゃん……」とごまかす。


「この四人の中で」と理音は正直に言う。「麻衣に会って、あからさまに嫌な顔をするのは宗介くんだけ」


……


しばし沈黙。


やがて宗介は大げさに太ももを叩く。「理音ちゃん、それは図星かもな!人間って、相性の七割は生まれつきで三割は努力だっていうけど、俺、彼女を初めて見た瞬間からどうも苦手でさ……」


話しているうちに、宗介の声が次第に小さくなる。今さらながら、斎藤麻衣は康平の名義上の妹だと気づく。


宗介は無理やり話を変える。「もしかして俺、彼女にアレルギーあるのかも」


理音も応じる。「私もアレルギー」


「じゃあ俺たち、気が合うね!」宗介は再び明るくなり、「あとで理音ちゃん、俺の隣に……」


その時、理音はふと顔を横に向けて聞く。「麻衣も来るの?」


宗介は答えに詰まる。「……俺が呼んだわけじゃないよ」


理音は特に何も言わず、ハチを宗介に預ける。「ちょっと抱っこしといて」


宗介は前方を気にしつつ、得意げに笑う。どこかで誰かに自慢したい気分だ。


車はスピードを上げ、通常なら三十分かかる道のりを十五分で走り抜けた。


康平は車を降りると、すぐに後部座席のドアを開けてハチを抱き上げ、もう片方の手で理音の腰を引き寄せ、強引に自分の胸元に抱き寄せた。


「何するのよ!」理音は苛立って言う。「自分で歩けるってば!」


康平は険しい表情で言う。「さっきなんで逃げた?車の中にいろって言ったのに、電話も出ないし!俺はお前の旦那だぞ、なんか大きな恨みでもあるのか?」


宗介は慌ててなだめる。「康平、そんなに怒るなって……」


「怒ったってこの子はビビらないさ」と康平は冷たく言い放つ。「また勝手に消えたら、今度こそ足の骨折るぞ?」


理音は顔を上げて、「どうぞ」と一言。


「……」


「おい康平、怪我してるのか?」宗介がわざと大げさに言う。「理音ちゃん、旦那の手が血だらけだぞ」


康平は皮肉っぽく言う。「俺のこと心配するなら、勝手に消えたりしないだろ」


「それは違うでしょ」理音も負けじと返す。「私が死にそうな時だって、あなた“死ぬなら死ねば”って言ったじゃない」


宗介は小声で、「康平、マジでそんなこと言ったのか?」


康平は胸を上下させ、怒りを必死で抑えている。「それ、本当かどうか、本人に聞いてみろよ」


理音の中に湧いていた怒りは、すっと消えた。


なんでこんなところで彼と張り合ってるんだろう。


理音は視線を落とし、ハチを抱き戻してそのまま会場へと歩いていった。


康平はその背中をじっと見つめる。


「康平さ」宗介は複雑な顔で、「理音に関しては二つの可能性がある。一つは、もし嘘だったら、元気ってことで安心だろ?でも、もし本当だったら……お前、結構やばいぞ」


康平はぎこちなく宗介を見る。


宗介は頭を掻きながら言う。「お前、一度でも本当にそういうことがあったかもって考えたことある?」


「……」


そんなこと、考えたこともなかった。


あの時、康平は怒り心頭で、理音は何も言わずに出ていき、彼の誕生日パーティも無視した上に、電話もブロックされた。そして、見知らぬ男から知らない番号で電話がかかってきて、「理音は俺のところにいる」と言われた。


口では「関係ない」と言いながらも、康平は宴会場の全員を放り出して雪岡町まで飛んでいった。


そこで見たものは——


理音は民宿で無傷でいた。


何事もなかったのは確かに良かった。


けれども、康平はどうにもバカにされたような気持ちが拭えなかった。


民宿の店主に尋ねても、店主はしどろもどろで、「理音が服を捨てていった」と言う。さらに電話の男の声が若かったため、康平の想像はどんどん悪い方へ向かっていった。


「ありえない」康平は冷たく言う。「ただ拗ねて、俺に来てほしかっただけだ」


宗介は口をとがらせる。「“ありえない”んじゃなくて、“信じたくない”だけじゃねえの?」


もし信じてしまったら、康平は一生後悔するだろう。理音は絶対に許してくれないし、康平自身も自分を許せないかもしれない。


だから、彼は理音が拗ねているだけだと、無理やり思い込もうとした。


「お前、余計なこと言うなよ」康平は低くかすれた声で言う。「俺が麻衣に付き添って病院行っただけだ。今後はもう行かない」


宗介は彼をじっと見て、からかうように言った。「へえ~、そんなことまでしてたんだ~。そりゃ自業自得だな~」


康平は苛立ちを隠せない。「死にたいならそう言え!理音だって他の男と遊んでたのに、俺は何も言わなかったぞ!」


……宗介はしばし黙り、「そんなわけないだろ。理音が康平を好きなのは、誰だって知ってることだ」


その言葉を聞いた瞬間、康平の眉間が明らかに緩み、満足げに「余計なこと言うな」と返した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?