斎藤理音が個室に入ると、ほとんどのメンバーはすでに揃っていた。
幼い頃から斎藤康平とは一緒に育ったが、二人はそれぞれ違う交友関係を持っていた。斎藤麻衣が加わってからは、お互いのグループはまるで深い溝で隔てられてしまった。
たとえば、向かいにいる山口達也という男は、斎藤麻衣の熱心な味方だ。理音と麻衣が揉めるたび、山口は必ず麻衣の肩を持つ。森田亮も、どっちつかずの立場だ。
理音が入ってくると、麻衣が立ち上がって声をかけた。
「理音さん。」
リュックの中から、ハチが興味津々で頭を出し、小さく「ワン」と鳴いた。
麻衣は一瞬驚いたように後ずさりした。
「理音さん、犬を連れてきたの?」
「うん。」理音は紹介する。「うちの子、早川ハチ。」
「……」
理音は麻衣をじっと見つめた。「どうかした?」
まるで幽霊でも見たような顔だ。
「ごめんなさい……」麻衣はおずおずと言う。「先生に言われたんです。妊婦はペットと一緒にいないほうがいいって。トキソプラズマっていう感染症にかかると、赤ちゃんに影響があるからって。」
理音は何も言わずに黙った。
「じゃあ、フロントに預けておけば?」と山口が提案する。「ここ、俺たちも煙草我慢してるし。」
理音は薄く笑って応じた。「うちのハチは私と離れられないの。もう顔出したし、帰るわ。」
「違うの、理音さん!」麻衣は慌てて弁解した。「追い出そうなんて思ってないから……」
「誰も追い出されたなんて言ってないよ。」理音は淡々と答えた。「私が自分で決めたの。」
ちょうどその時、康平と小林宗介が入ってきた。
麻衣はすぐに康平のほうを向いて、少し涙声で訴える。
「お兄ちゃん、私、本当にそんなつもりじゃ……」
「俺が証人だよ。」山口が手を挙げる。「麻衣は何も言ってない。」
理音は内心でうんざりした。
自分は何も言っていない。
なのになぜか、まるで自分が麻衣に何か罪を着せたかのような雰囲気になっている。宗介が帰国するこの日に、わざわざ揉め事を起こすつもりなんてないのに。
こんな状況は、これまで何度も繰り返されてきた。
理音が何とか自分を弁解しようとすればするほど、相手は「許してあげる」と寛容な顔をし、理音はますます苛立ってしまう。最後には「許された」ことになってしまうのだ。
でも今の理音は、誰にも媚びるつもりも、もう何も怖くなかった。
彼女は麻衣をじっと見据えて、はっきりと言った。
「清楚系ビッチ。」
麻衣の顔色が一瞬で真っ青になる。
理音の視線は山口に移る。「尻軽男。」
山口は怒りで顔をゆがめた。
最後に康平の方へと視線が止まる。「クソ野郎。」
「……」康平は眉をひそめた。「俺が何したって言うんだよ?」
「先に言っておくの。」理音はつまらなそうに言う。「あとでまた気が変わって黙るかもしれないから。」
暴れそうな山口を宗介が押さえ、もう片手で胸を叩く。
「理音と俺は仲いいから、俺だけは罵られないよな。」
「もう帰る。」理音が席を立つ。
「待てよ。」康平が彼女の腕を掴む。
「もし麻衣の赤ちゃんに何かあったら、また私やハチのせいにされるのはごめんだから。」理音ははっきり言う。
「大げさだろ。」康平が言う。
「大げさじゃない。」理音は言い切る。「なんでこんなくだらない人間関係に巻き込まれなきゃいけないの。」
その一言は部屋全体に響いた。
康平は周囲を睨みつけてから、理音のほうを向いて、声を和らげた。
「じゃあ、医者に電話して聞いてみるよ。」
理音はそれを止めなかった。
康平は麻衣の目の前で、知り合いの産婦人科医に電話をかけ、スピーカーモードで「数時間ペットと一緒にいても胎児に影響はないか」と尋ねた。
麻衣の顔はますます赤くなった。
電話の後、医師から論文のリンクが送られてきた。
「なあ兄弟、何やってんだよ。」宗介が呆れたように言う。
康平は携帯を眺めながら、だるそうに答える。
「知識は大事だろ。俺も理音と子供考えてるし。」
宗介の手前、理音は自分から部屋の隅に座り、麻衣からできるだけ離れた。
宗介が隣に座ろうとしたが、康平に無理やり向かい側に押しやられる。
「なあ、こういうのは本当に気を付けないと。」康平は画面を見ながら言う。「リスクはあるんだって。」
「私はいらない。」理音がはっきり言った。
「……何が?」
「子供なんて。」
「……」康平は携帯の画面を消し、「じゃあ、欲しくなったらまた考えよう。」
部屋の中はネオンの光にゆらめいている。理音は顔をそらして康平を見つめた。
「明日は大晦日だね。」
「うん。」康平は身を乗り出し、唐突に彼女の頬にキスした。「お年玉、用意してるからな。」
理音は手の甲で頬を拭い、ゆっくりと言った。
「前に言ったこと、忘れてないよね?」
「……何の話?」
「離婚のこと。」理音は真剣な表情で言う。「年が明けたら、ちゃんと話し合おうって言ったよね。明日が終われば、もう年明けだよ。」
「……」
理音は首をかしげ、白い顔で真剣に見つめる。
「それとも、今話す?」
康平は深い目で彼女を見つめ返した。
二人の間には言葉のない空気が流れる。
周りは酒や笑い声で騒がしいのに、この一角だけが静まり返っている。
康平は生まれつき恵まれた存在で、その顔も周囲を惹きつける。理音がいたことで、彼の周りの女性たちを何度も遠ざけてきた。
今、理音が離婚を切り出しても、康平が簡単に受け入れるはずがない。
「何か条件があるなら、できるだけ協力するよ。」理音が言う。「例えば、外には『あなたが私を捨てた』ってことにしても……」
その先は、男の強い視線に遮られた。
騒がしい部屋の片隅で、二人だけが沈黙に包まれる。
長い沈黙。
康平は手を伸ばし、彼女の乱れた髪を指先で優しく整えた。その声は低く、穏やかだった。
「年明け、一緒に海外でも行こう。行きたい国ある?」
「……」理音は彼をまっすぐ見つめ返す。「ふざけないで。」
康平はさらに距離を詰め、鼻先が触れ合うほど近づき、低く囁く。
「もうやめてくれよ、理音。俺、ケガしてるんだ。治してくれよ。」
理音が彼の喧嘩や怪我を心配する性格なのを知っている。今日、彼女はまるで無関心だった。康平は態度を和らげ、甘えるように言う。
理音はただ、疲れた気持ちだった。
自分は真剣に話しているのに、康平ははぐらかすばかり。
理音はハチの毛をなでながら言った。
「そのくらいのケガ、あなたにはどうってことないでしょ。」
彼はかつて麻衣のために命を落としかけ、半月も入院したことがある。
そのことを思い出すと、理音は自分が感情的になったことを少し後悔した。兄妹の深い絆に、自分が割り込むべきじゃなかったのかもしれない。
胸が締め付けられるようで、理音は思わず言う。
「まずは、私に謝って。」
「……」康平の険しい表情が、その一言で少し緩んだ。理由も聞かずに、「わかった、ごめん。」と素直に謝る。
「何について謝るのか、聞かないの?」理音が聞く。
「うん。」康平は彼女の頬をつまもうとする。「ちゃんと謝ったんだから、もう怒るなよ。」
理音は彼をじっと見つめ、静かな声で言った。
「麻衣が入院してた時、私はお粥を作って持って行ったの。でも途中で犬に追いかけられて、全部こぼしてしまった。最後に保温容器に残った一口だけ食べたけど、あれは人生で一番苦かったお粥だった。その分、あなたに責任を取ってほしい。」
康平は、しばし沈黙したままだった。