高校三年の時のことだった。
斎藤麻衣は美人で穏やかな性格、学校でも人気者だった。
どういうわけか、隣の専門学校の男子――あちらで有名な不良――に目をつけられてしまったらしい。
詳細は斎藤理音もよく知らない。文系クラスだったので、理系の校舎とは普段接点もない。理音がこの話を耳にした時には、すでに斎藤康平は病院に運ばれていた。
その不良グループが十人ほどで、康平が一人になるのを狙って襲いかかったと噂されている。
麻衣は泣きじゃくり、自分のせいだと繰り返していた。「私が話さなければよかった、康平兄さんを巻き込んじゃった……」
もし祖父が止めなければ、理音は思わず麻衣の口を塞いでしまいそうだった。
祖父は溜息まじりに言った。「兄妹なんだから、お前ももう少し優しくしてやれ。」
祖父の言外の意図は、距離感を考えろということだと理音はわかっていた。やはり、血の繋がりのある兄妹には敵わない。
康平がこんな大怪我をしたのは初めてだった。理音は腹立たしさと心配が入り混じり、会いたくないのに、どうしても様子を見に行かずにはいられなかった。
結局、我慢できたのは二日だけ。
康平から電話がかかってきたのだ。かすれた声で「今日配られたプリント持ってきてくれ、見たいから」と。
「……」理音は一気に気が抜けてしまった。「自分がそんな状態なのに、私のプリントが気になるの?」
「理音、お前また赤点だったんじゃないだろうな?」
病院に向かう前、理音はキッチンで長いこと粥を作っていた。病人でも食べやすいように、土鍋でじっくり煮込んだ肉入りのお粥だ。
祖父はちょっと拗ね気味に、「初めてお粥を作るのに、よりによってあの子のためか」などと言う。
理音は照れくさそうに「おじいちゃんにも半分分けるから」と言ったが、祖父は「どうしてあいつには一杯で、俺には半分なんだ」とぶつぶつ。
「だって……最初お米が足りなくて水を足して、水が足りなくてまたお米を足して、時間がなくなって半分捨てたから、二杯も残らなかったんだよ。」
祖父は頭を抱えた。
理音はせっかく作った半分を祖父によそい、自分は味見もせずに残りを持って出かけた。
だが、病院に向かう途中で野良犬につきまとわれる羽目に。
焦って避けようとして足元がもつれ、保温ボトルを落としてしまう。蓋が開き、中身がこぼれた。
慌てて犬の鼻先からボトルを奪い返し――
結局、犬は床にこぼれた粥を夢中で舐め、理音はボトルに残ったちょっとだけを仰ぎ飲んだ。
人と犬、どちらも美味しそうに食べていた。
あれは間違いなく、人生で一番美味しいお粥だった。
康平には食べさせてあげられなかったけれど。
いや、むしろ飲ませなくてよかった。犬にやる方がマシ、なんて思った。
――
その日の飲み会、小林宗介は自分の「北極での悲惨な体験」を延々と語っていた。
「マジであんなに寒いなんて知らなかったんだよ! 鬱になりかけた! 極寒の中でアザラシ狩りに連れて行かれてさ……あんな可愛いアザラシ、よくもまあ……」
理音は目を丸くした。「本当に?」
「うん!」宗介は大きく頷く。「それにホッキョクグマもいたんだぞ、うえぇ……」
理音も思わず顔をしかめる。
宗介は理音にお酒を注ぎながら言う。「理音ちゃん、俺と飲もうぜ。こいつらと話してもつまんねーし、全員木みたいだし!」
理音はどんな話題も楽しそうに相槌を打つ、唯一の聞き役だった。
「私、お酒やめとく。水でいい?」
「えー、そりゃないよ! 理音ちゃん、俺のことバカにしてんの? 高田としか飲まないってか?」
理音は口を結び、「中二の頃の黒歴史はやめてよ、思い出すだけで消えたくなる……」とつぶやく。
宗介はちらりと横目で見た。
康平は、なぜか一人ソファに沈み込んで、片手に酒瓶、片手にグラス。空けば自分で注いでいる。
「じゃあ、せめて一杯だけ俺に付き合ってよ。賄賂ってことでさ?」
「本当に無理。」
「……体調悪いの?」
その言葉を聞いた瞬間、康平のグラスを持つ手がぴたりと止まった気がした。
「風邪がまだ治りきってなくて、薬飲んでるから。」
「そっか、それは仕方ないな。」
宗介は納得した様子で、理音の体調を気遣い、すぐ康平のほうへ話しかけた。
康平は、繊細な彫刻のグラスに半分ほど氷を入れ、宗介の話を無視してぼんやりしていた。
「お前、ずっと奥さんのこと見てるな。薬飲んでるから酒はダメって言ってたぞ?」
康平はグラスの縁を指でなぞりながら、ずっと理音の方を向いたまま、「薬? 本当に飲んだのか?」と疑いの声。
昔は風邪薬一つでも苦いと文句を言っていた理音が、自分から薬を飲むなんて――。
理音は眉をひそめる。この男は、どうしても自分の嘘を見抜くのだ。
「うん」とだけ答える。
「何の薬?」
「セフェム系。」
「それなら本当に酒はダメだな。薬と酒を一緒にしたら危ないもん……はは……」
夫婦の間に漂う微妙な空気に、宗介の笑いもだんだん乾いていく。
康平は全てを見透かしたような目で、「薬の箱、竹庭の家にあるんだろ? 後で確認する」と言い出した。
「……あんた、ほんとに病気?」
康平はしばらく理音を見つめ、やがてゆっくりと視線を外し、「嘘つき」と呟いた。
「そうよ! 薬なんて飲んでない! お酒飲みたくないだけ! 妊娠してるから飲めないの、理由を作ってただけ!」
宗介は口に含んだ酒を吹き出した。「理音ちゃん、妊娠したの?」
理音は顔を背けて、「本人に聞いて」と突き放す。
「ないない、触ることすら許してもらえないから」と康平が気だるげに返す。
宗介は絶句。
この口の悪さ、余計なことを聞くんじゃなかった、と宗介は心の中で叫んだ。
康平は酒でかすれた声で、「誰のために我慢してるのか分からないな」と自嘲ぎみに呟いた。
理音は勢いよく立ち上がり、ハチ(犬)を抱えて部屋を出て行く。「宗介くん、もう眠いから帰るね。」
「理音ちゃん……」宗介はオロオロしながら、「高田、お前ふざけんなよ……」と康平を責める。
騒ぎが大きくなり、個室の注目を一気に集めてしまった。
理音はきっぱりとその場を離れた。
宗介は慌てて追いかけ、一度戻り、また追いかけ……まるでどうしていいかわからない子どものように、「もうやだ! アザラシ狩りの方がマシだ!」と叫ぶ。
「うるさいな」康平は不機嫌そうに車のキーを宗介に投げ、「さっさと俺たちを送ってけよ!」
宗介は苦笑いしながら、「お前なあ……」
康平はうつむき、長い指でグラスに酒を注ぎ続けていた。もうかなり酔っている。
理音を送り届けた後、宗介は慌てて戻り、康平に食ってかかった。「お前、ちょっと優しい言葉かけるだけで済むのに、なんで……」
話の途中で、康平はぼそっと聞いた。「どこに送った?」
「そりゃ……」宗介は呆れ気味に、「竹庭の家に送るって言ったのに、理音ちゃん絶対に嫌だってさ。お前、何かやらかしたんじゃないのか?」
康平はソファに手をついて立ち上がり、ふらつきながら「俺もそこに送ってくれ」と頼んだ。
「……もっと早く言えよ!」
「俺の妻だからな……粥一杯、まだ返してもらってない……犬に食わせるなんて……」