小林宗介は心の中で皮肉を込めて笑いたかった――ほら見ろ、お前の奥さんに見放されたぞ!
けれど、さすがにそれは口には出せなかった。
酔っているとはいえ、小林宗介が斎藤康平に敵うはずもない。
斎藤理音がドアを開けてくれないかもしれないと心配した小林宗介は、山口達也の車のキーを奪い取り、フロントに頼んで代行を呼び、自ら斎藤康平を送り届けることにした。
ドライバーの運転で、車は竹庭の邸へと向かう。
車内には酒の匂いが充満していた。
小林宗介が康平の肩を叩こうとすると、あっさり振り払われた。
「もう少し俺に優しくしてくれよ!」と小林宗介はぶつぶつ文句を言う。「お前がああだから理音ちゃんが怒るんだ!もし理音ちゃんみたいに十年も変わらず俺のこと思ってくれる子がいたら、俺はもう土下座だってするぞ…」
斎藤康平は目を閉じて休んでいる。
窓の外、街灯の明かりが彼の端正な横顔を照らし、喉仏が首筋に色っぽい影を落とす。
小林宗介はそんな“厄介ごとを呼び込む”顔をじっと見つめ、溜息をついた。「命を大切に、山羊座男には近寄るな、だな」
斎藤康平は冷たく「黙れ」と返す。
「最近、星座を研究しててさ、結構わかってきたんだ」と宗介は勝手に話し続ける。「敵を倒すために自分もボロボロになる星座、どれかわかる?」
誰も答えない。
宗介はしつこく、「でさ、お前さ、うちの理音のこと本当に好きなのか…」と続ける。
言いかけたところで、斎藤康平がゆっくり目を開け、まっすぐ彼を見た。
「はいはい、好きだよ!でも理音の気持ちに比べたら、お前の“好き”なんて全然足りねぇよ」
これは皆が認める事実だった。
宗介は親身な兄貴分として、「粥?理音、粥なんて作れたっけ?」と話を変える。
その話題になると、康平の顔が酔った勢いで不機嫌に歪んだ。「あれ、犬に食わせたんだ!」
「……」宗介は興味津々。「それ、何年前の話だよ?お前、根に持ちすぎだろ」
「今日初めて知ったんだ!」と康平。
あの頃、理音が彼を見舞いに来たとき、不合格のテスト用紙だけ持ってきて、妙にしどろもどろしていた。康平が何気なく理由を尋ねると、理音は「試験でペンを忘れて、借りてたら時間なくなった」としぶしぶ告白した。
康平は少しムッとし、「同じ大学を受けるつもりなのか」と聞いた。
理音はしばらく黙ってから、「同じじゃなきゃダメ?」とぽつり。
康平はかなり呆れた。
――つまり、同じ大学に行きたくないってことか?
「私たち、ちょっと差があると思うんだ。できる子が頑張るのは小説の中だけだし、じいちゃんが“これからは家にいて親孝行してくれればいい、面倒は見てやる”って言ってたし…」
康平は目を細めて、「少しでも努力したら、じいちゃんもそんなこと言わなくて済むだろ」と冷たく言った。
理音は急に黙り込んだ。
言い過ぎたかと康平は唇を引き結び、「手、どうした?」と声を和らげる。
理音は慌ててポケットに手を突っ込んだ。
「こっち来い、薬塗るから」と康平が手を差し出す。
理音は機嫌を直して笑顔になり、遠慮なくベッド脇に座って薬を塗ってもらい、果物を食べ、ついでにここで寝てしまおうかと思った。
残念ながら、その願いは叶わなかった。
斎藤麻衣が祖母特製の薬膳を持ってやってきたからだ。
理音は麻衣の顔を見るなり不機嫌になり、鞄を掴んで帰ろうとした。康平が手首を掴んで、「テスト直してから帰れ」と引き止める。
「いいよ」と理音は顔を強張らせ、「しっかり療養しなよ。もう一度怪我したら、次は他の人に補習頼むから」
康平は辛抱強く、「病院の花壇に猫がいたぞ。見ていかないか?」
理音はしばらく迷った末、結局残ることにした。
車は竹庭の邸に到着した。
「理音ちゃんは本当に扱いやすいな…」と宗介は呟く。「なあ、兄弟。じいちゃんの件、本当にお前がやったんじゃないよな?じゃなきゃ、理音がこんなに変わる理由が思いつかない」
あんなに素直な子が、ここまで拗れるなんて、もしじいちゃんの件が康平の仕業じゃなかったら説明がつかない。
康平は見た目こそ平静を装っていたが、足元は少しふらついていた。
宗介は彼の代わりにインターホンを押した。
冷たい風が吹き込む中、康平は暖かい部屋に視線を向ける――もし理音が入れてくれなかったら、ここで寝てやるつもりだった。
「俺はお前みたいにはならない」と突然口を開く。
「何だよ?」と宗介。
「俺には妻がいる」と康平。
「?」
「お前は」と康平ははっきり言った。「独り身だろ」
「……」
二人は無言で睨み合い、宗介がドアを叩き始める。「理音ちゃん、開けてくれなきゃ俺死んじゃうぞ!」
その瞬間、ドアが開いた。
理音は風呂上がりらしく、バスローブ姿で、濡れた髪をタオルキャップに包み、額を見せていた。
「もう知らない!」と宗介は悲壮な声で、「この厄介者はあんたの旦那だ。後はよろしく!」
そう言って、康平を中に強く押し込んだ。
押し出された康平はよろけながらも立ち直り、理音にぶつかる。強い酒の匂いと、彼独特の石鹸の香りが理音を包み込む。思わず彼女は康平を二度蹴り、慌てて後退した。
宗介は勝ち誇ったように出て行き、ドアをしっかり閉めていった。
康平は立ち直ると、理音が離れたことに不満げに眉をひそめた。「蹴ったのか?」
「ここにいられるわけないでしょ」と理音は怒りを必死に抑え、「出て行って」
康平はまっすぐ彼女の顔を見つめ、「俺は粥が欲しい」
「…何の話?」
「犬に食われた、あの肉団子の粥だ」と康平は堂々と言った。
「じゃあ犬に頼めば?」と理音は呆れる。
康平は唇を舐め、少し笑みを浮かべた。「自分のこと悪く言うなよ」
「……」理音はスマホを取り出し、「タクシー呼んであげる」
康平は睫毛を震わせ、明らかにそのスマホに不満を示し、勢いよく奪い取った。「俺の前でそいつに連絡するな」
「返して」と理音は表情を変えずに言う。
「妻、腹減った。肉団子粥が食べたい」と康平はスマホを背中に隠す。
理音はもう我慢できず、スリッパのままリビングに行き、ドッグフードの袋を投げつけた。
康平はそれを見下ろす。
自分のご飯を分けられて不満なのか、ハチが足元をぐるぐる回りながら、可愛く吠える。
康平は眉を上げ、「パパって呼んでみろ」と挑発する。
理音は一瞬目を見開いた。
康平はしゃがみこみ、手のひらを差し出してハチを乗せ、「パパ」
「ワン」
「パパ」
「ワン」
康平はふいに笑い、「今のはワンだよな、“ハイ”じゃないよな?」
ハチはまだ小さく、まるでおもちゃのように康平の手のひらに収まっている。
理音は、康平と本気で揉め切るつもりはなかった。たとえ離婚することになっても、穏やかに別れたいと思っていた。
現実的になったのか、昔のように感情のまま動くこともなくなった。
斎藤家は大きな力を持ち、康平は表も裏も仕切るやっかいな男。その一方、理音は月ノ港で生まれ育ち、祖父の囲碁道場と母の美術館がここに根を張っている。
康平がもし暴れ出したら、道場も美術館も危うい。
できれば斎藤家の年長者に離婚を迫らせ、多少の補償をもらうのが一番だ。
「斎藤康平」と理音は犬と戯れる彼に声をかけた。
彼は顔を上げ、ライトに照らされて精悍な顔立ちが際立つ。「ん?」
理音は穏やかに切り出す。「私たち、幼なじみだよね?」
「……」康平の動きが止まり、その深い瞳に見えるほどの優しさが広がった。「そうだよ、わかってるならいい」