部屋の中は静まり返っていて、暖房が体の芯まで沁み渡るような心地よさだった。窓ガラスにはお正月特有の晴れやかな雰囲気が映っている。
理音は胸の高鳴りを抑え、向かいの康平を見つめた。
「幼なじみのよしみでさ、私のこと世話しなくても、いじめたりしないでしょ?」
康平の瞳は少しだけ深まって、口元に微笑みを浮かべる。
「もちろん。」
彼は手を差し出し、酔いのせいか気だるい声で続けた。
「理音、見てよ。ハチの肉球、すごく柔らかいだろ。」
「……」
理音は彼が酔っているのを知っていて、口調を強めた。
「その言葉、ちゃんと覚えておいてよ。」
「ん?」
「私たち、幼なじみだから。」
「うん。」
康平はまだハチの前足をいじりながら、気のない様子で言った。
「忘れたりしないさ。そういうことすぐ忘れるのは、君みたいな嘘つきだけだよ。」
理音は蹴りを入れたい気持ちをこらえ、かがんでハチを抱き上げた。
「自分の部屋で寝て!」
康平はぼんやりしたまま呟いた。
「お粥、まだ……」
「借りてないよ。」
理音は曖昧に返しながら、「もう飲んだから忘れただけ。部屋でよく思い出して寝てね。」
「……」
なんだか、それだけじゃない気がする。
康平はしばらくぼんやりしていたが、ふいに少しだけ意識が冴えた。
――自分たちは夫婦なのに、どうして自分が部屋を移らなきゃいけないんだ?
翌朝、理音がまだ眠っていると、康平が部屋に入ってきた気配がした。
男の人の手がそっと彼女のおでこに触れる。低い声で囁く。
「お母様が空港に着いたから、迎えに行ってくる。お昼は本宅で食事だよ。」
理音は喉の奥で何か呟いたが、内容はよく聞き取れなかった。
康平は身をかがめて、彼女の髪にキスした。
「無理して早起きしなくていいよ。お母様に君のこと任せられなかったって知られたら、僕が怒られる。ゆっくり休んで。」
理音は目を開ける気力もなかった。
「今度、江ノ島の海岸に行こう。」
康平は彼女の頬を軽くつまみ、柔らかな声で続けた。
「また千年杉を植え直すよ。僕がやる、君のためだけに。いい?」
彼女が聞いているのか分からないまま、康平はハチを抱き寄せ、部屋を出ていった。
康平の両親は無国籍医師で、ほとんど海外にいるため、年末年始もなかなか帰国できない。今回は母親の恵美だけが時間を作って戻ってきた。
慎一は斎藤グループ全体を取り仕切っていて、空港に迎えに行く余裕などない。
空港で人波の中、親子が顔を合わせると、どこかよそよそしい挨拶だった。
恵美は康平が抱くハチを見て言った。
「犬も飼い始めたの?」
「妻のだよ。」
康平は気の抜けた声で返す。
「宝物みたいに大事にしてるから、寝てる間は僕が面倒見てるんだ。」
恵美はうなずいた。
「理音は昔から動物が好きだったのよ。でも、彼女のおじいちゃんが許さなかった。性格が落ち着きなくて、責任を持てないって。」
理音の母親とは親友同士で、理音の成長もよく知っている。
帰りの車で、恵美は家のことや夫婦仲について尋ねた。
「まあまあだよ。」
康平は軽く言う。
「母さんや父さんに早く孫を見せてあげようと頑張ってる最中。」
恵美は淡々と応じた。
「それならいいわ。」
恵美はまず病院に寄って和子のお見舞いをし、診療記録を丁寧に確認した。
「お母様、大きな問題はないから、気分よく過ごしてね。」
「気分なんて良くならないわよ。」
和子はため息をついた。
「理音一人で十分手がかかるのよ。」
恵美は微笑む。
「理音はまだ若くて分からないだけ。これからは麻衣にもっと付き添ってもらって、理音と康平には二人の時間を大事にさせましょう。」
「……」
和子は顔を上げる。
「それはどういう意味?」
「なるべくあなたを怒らせないように。」
恵美は落ち着いて返した。
「理音には、あまり顔を見せないように言っておきます。」
「……」
病院から本宅に戻ると、親族が皆集まっており、キッチンとダイニングではお手伝いさんたちが忙しそうに団らんの準備をしていた。
恵美は麻衣を見て、にこやかに褒めた。
「麻衣ちゃん、顔色がいいわね。裕司さんがしっかりしてる証拠ね。」
「当然です。」
裕司が慌てて返事をした。
「お母様、ご安心ください。」
恵美の視線は理音に移る。
「体調が悪いの?」
理音が何も言う前に、康平が彼女を抱き寄せた。
「風邪をひいて、やっと良くなってきたところです。」
理音は少し身をよじって彼から離れようとしたが、康平は腕をさらにきつく回し、無理やり彼女を自分の胸に寄せた。
「みんな元気そうね。」
恵美は心からの優しさを込めて理音を見た。
「どうして理音だけ、こんなに顔色が悪いのかしら?」
まるで母親のような温かい言葉が、今の理音の敏感な心に触れ、涙がふいに溢れた。
康平は驚いて慌てて涙を拭こうとする。
「どうしてまた泣いてるの……」
「また?」
恵美の声が低くなる。
「何も問題ないって言ったんじゃないの?」
理音は顔をそむけ、自分の手の甲で涙を拭った。
「大丈夫です。ただ母が恋しくなっただけ。」
恵美はそっと理音の頭を撫で、優しい眼差しを向けた。
「じゃあ、私と一緒にキッチンに行きましょう。女同士で少し話しましょ。」
「はい。」
二人がキッチンに入っていくのを見送りながら、康平は指先に残る涙の湿り気を感じていた。その小さな湿り気が、まるで棘のように胸を刺す。彼の目には複雑な感情が宿り、得体の知れない不安をひそかに隠した。
麻衣がそっと近づく。
「兄さん、投資のことでお姉さんが機嫌悪いの?」
「それは君たちに無償であげたものじゃない。」
康平はポケットに手を突っ込み、淡々と答えた。
「僕は株主だから、四半期ごとにちゃんと決算を見るよ。」
「……」
その一言で、私的な感情が一気にビジネスの話に変わった。
康平は口元を引き締めて言う。
「裕司さん、しっかり頼むよ。もっと稼いで、お姉さんを喜ばせたいんだから。」
恵美はお手伝いさんから仕事を受け取り、ダイニングの準備に向かわせた。
「もうすぐご飯ができるから。」
理音は蛇口の下で、ゆっくりと果物を洗っている。
恵美はちらりと彼女を見て、突然口を開いた。
「うん、妊娠の兆候があるわね。」
「……」
理音の手から金柑がぽとりとシンクに落ちる。
「え?今、なんて……」
恵美は微笑んだ。
「旦那さんには、まだ言ってないの?」
理音は完全に固まってしまい、頭の中が真っ白になった。
「私は経験者だし、医者だから分かるのよ。脈を診たときに確信したの。」
「……」
恵美はさらに聞く。
「産みたくないの?」
次々と飛んでくる質問に、理音は全くついていけなかった。
「お母様……どうして分かったんですか……」
「ハチのことよ。」
恵美は率直に言う。
「もし子どもを望んでいたら、このタイミングで犬を飼うことはなかったでしょう。」
「……」
恵美は蛇口を止めてあげた。
「離婚したいの?」
「お母様……」
理音は一歩後ずさり、必死に訴える。
「もう少し穏やかに話してください。子どもも驚いちゃいます。」
恵美は思わず笑い、きっぱりと言った。
「浮気された?」
理音は首を振る。
「暴力?」
「……」
「じゃあ……」
恵美は真顔になり、
「気持ちが冷めたの?」
理音は少し考えて、うなずいてから首を振った。
「ただ、合わないだけです。特に大きな理由はありません。」
恵美は端的に尋ねる。
「そんなに長く追いかけてきて、後悔はないの?」
理音は少しも迷わず答えた。
「後悔してません。」
「……」
恵美はため息をついた。
「そこまで覚悟があるなら、きっとよく考えたんでしょうね。」
「お母様……」
理音の声はさらに小さくなり、どこか怯えるように頼んだ。
「彼に、離婚を説得してくれませんか……」
恵美はそっと彼女の頬を撫で、優しいまなざしを向けた。
「それは難しいわ。あなたたちの結婚は、彼が命がけで願い続けて手に入れたものだから。」
理音はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
でも、康平が祖父の病床でずっと頼み続けていた姿は憶えている。
「そんなことないです。」
理音は小さな声で呟く。
「彼の周りにはたくさんの人がいる。私ひとり、いなくても……」
けれど、自分の世界には、もう康平だけしかいないのだと、理音は心の奥で知っていた。