恵美はそれ以上何も言わず、康平の肩を持つこともしなかった。実は初めからこの結婚には賛成していなかった。ただ康平の強い意志に折れたのと、理音が長年思い続けてきた気持ちを思うと、何も言えなかっただけだ。
ひとりでため息をついた。
「彼と一緒にいたくないなら、それでもいい。でも、子どもは残してもいいんじゃない?」
「……どうして?」
理音は困惑した顔で問い返した。
恵美は彼女を見つめた。
「おじい様も両親も、天国からあなたを見守っているのよ。一人ぼっちのあなたを見たら、きっと胸が痛むはず。」
「……」
「私もいろいろな人を見てきたわ」
恵美は淡々と続けた。
「男はいなくてもいい。でも、自分の子どもは手元にいないと。不安定な時代だからこそ、男の子でも女の子でもいい、産まれたら斎藤の姓を名乗れば、斎藤家の血筋も絶えない。」
理音は鼻の奥がツンとした。
実は自分もそんなことを考えたことがあった。ただ康平が手放してくれないのではと恐れていた。
今の自分は泥沼に足を取られているようで、這い上がるのもやっとなのに、子どもの存在が完全に逃げ道を塞いでしまうのが怖かった。
恵美はもう一度よく考えるように言った。
「どんな決断をしても、私はあなたの味方よ。」
理音は口を開きかけた。
「お母様……康平のこと、あまり可愛がっていませんよね。」
康平――
物心ついた時から、恵美が康平に対して他の誰よりも距離を感じているのは分かっていた。親子だけど、どこか他人行儀だった。
「……」
恵美は苦笑した。
「産まれたばかりの頃からあまり面倒を見てこなかったからかもしれないわね。親子の情って、やっぱり一緒に過ごさないと生まれないのよ。」
理音は何も言えなかった。
慎一のことも同じように面倒を見てこなかったはずなのに、二人の関係は明らかに康平よりも親密だった。
食事の時間になり、慎一と美咲もやってきた。
恵美は改めて美咲の脈を診て、細かく体調管理について注意を与えた。慎一にも厳しい口調でいくつか釘を刺すのを忘れなかった。
「本当に子どもが欲しいなら、付き合いも控えなさい」
恵美は低い声で言った。
「覚悟ができていないなら、美咲を巻き込まないこと。美咲の体は理音よりずっと弱い。私の二人の嫁が、あなたたち兄弟のせいで苦しむなんて、全部私の責任よ!」
慎一は頭を抱えた。
「お母様……」
美咲が優しくなだめる。
「お母様、私が少し不注意だったんです。」
「お姉さん、彼の肩を持たないで」
康平が横から口をはさんだ。少し投げやりな口調で、
「全部兄さんが悪いんだよ。理音が子どもを授かったら、俺は絶対に離れず守るのに。」
理音は思わずお腹に手を当てた。言いようのない不安がこみ上げてきて、秘密がばれるのではと怖くなった。
美咲と恵美は、その仕草に気づいた。
恵美は小さく咳払いし、山田さんが料理を運んでくるのを機に話題を変えた。
「この煮込みは麻衣に。しっかり栄養をつけないとね。」
麻衣「ありがとうございます、お母様。」
麻衣は和子に育てられたが、戸籍は恵美と斎藤家の父のもとにある。
恵美はもう一つの煮込みを指差した。
「こちらは理音に。」
煮込みは薬膳で、体を整えるためのものだった。
康平がふたを開けてちらっと覗く。
「彼女、これ苦手だよ。匂いがきついって。」
「飲むよ」理音が手を伸ばして受け取った。
「全然きつくない。」
「……おい」
康平は呆れて笑い、
「わざと俺に逆らってるのか?俺が触ったものは嫌だって言うし、俺がダメだって言ったことは必ずやろうとするし?」
理音「うん。」
康平は眉をひそめ、数秒間じっと彼女を見つめたかと思うと、煮込みを手に取って
「じゃあ、俺が飲ませてやるよ。」
そう言い終わるか終わらないうちに、理音は急に吐き気を覚え、慌てて立ち上がった。
「大丈夫です!」
そう言うと、そのまま洗面所に駆け込んだ。
「……」
康平はしばらく固まって、皆の顔を見回した。
「俺、最近そんなに見た目ひどくなった?」
恵美は首を振った。
「様子を見てきなさい。」
「いや、いいよ」
康平はスプーンを置き、どこか自嘲気味に言った。
「俺が行ったら、もっとひどくなるかも。」
美咲はもう洗面所へ追いかけていった。
恵美は眉をひそめた。
「小北、書斎に来なさい。」
書斎にて――
「正直に言いなさい」
恵美はまっすぐ康平を見つめた。
「理音と一体どうなってるの?」
康平はソファにだらしなくもたれ、
「別に何も。」
その態度に、恵美は必死に怒りを抑えた。
「彼女が私に離婚を勧めてくれと頼んできたのよ。これで『何も』なの?」
「……」
康平はまぶたを伏せ、その奥に冷たい光がよぎった。
「じゃあ、母さんは彼女の味方をするんだ?」
そう言うと、口元を歪めた。
「どうして兄さんには言わなかった?兄さんとお姉さんの関係が冷え切っていた時だって、離婚しろなんて一言も言わなかったのに。俺だけ、あっさりそう言うのはなぜ?やっぱり俺は実の子じゃないから?」
恵美は思わず声を荒げた。
「康平!」
書斎に重苦しい沈黙が落ちた。恵美の荒い呼吸だけが響く。
「グループは兄さんに任せて、俺には銀座・天閣をやらせた」
康平は伏し目がちで、淡々と続けた。
「兄さんは表舞台に立つ人間だから、きれいなままでいなきゃいけない。だから俺は裏方で、血を流してでも兄さんやグループのために人脈や情報を運ぶ役目を負わされる。それが当然なのか?」
鼻で笑い、
「いいよ、やるさ。犠牲になるのも受け入れる。でも、せめて他のところで報われてもいいだろ?」
「……」
恵美は必死に感情を抑えて言った。
「あなたが命がけで理音を娶りたいと言ったから、私は折れた。それが私なりの譲歩だったのよ!」
「それが?」
康平は顔を上げて彼女を見つめる。
「最初は俺が理音と結婚するのを反対して、今度は離婚を後押しする。どうして俺の幸せは願ってくれないの?」
恵美「理音に聞いてみて。それから私にも聞きなさい。あなた、わざと私に逆らってるだけじゃないの?」
康平「本当に離婚してほしいの?」
「……」
空気は一気に張り詰め、火花が散るような緊張感に包まれた。
恵美はじっと彼を見つめた。
「そうよ。」
「じゃあ、俺も言ってやる」
康平の目尻は赤くなり、言葉一つ一つを噛みしめるように続けた。
「俺は絶対にあなたの言う通りにはしない!結婚するなと言われたから結婚した。離婚しろと言われたら、絶対に離婚しない!」
「……」
恵美はその言葉に息を呑み、驚きが顔に浮かんだ。
「理音と結婚したのは、私が反対したからなの?」
康平の目にはもう温かさはなかった。まるで復讐でもするかのように、一言一言を冷たく告げる。
「そうだ。」
その瞬間、書斎のドアがノックも待たずに勢いよく開かれた。
理音が静かに立っていた。
「お母様、ご飯が冷めてしまいます。」
康平は固まった。
まさか、聞いていないよな?
絶対聞いてない――
もし理音が聞いていたら、あの性格だ、はっきり物を言うし、絶対に黙っているはずがない。
心臓が止まるような感覚で、康平は彼女を見つめ、心の中で名前を呼んでくれることを祈った。
だが、理音は恵美にだけ声をかけると、表情を変えずにそのまま立ち去った。
恵美は目を閉じた。
「もうあなたたちのことには口を挟まない。私は理音のお母さんとして、彼女の面倒をみるから…」
「恵美さん」
康平の声には、どうしようもない苦しさがにじんでいた。
「あなたは誰にでも優しい。でも、少しくらい自分の息子に分けてくれてもいいだろ?」
「……」
「俺が銀座・天閣を引き受けたときの条件の一つは、斎藤家が理音との結婚を認めることだった」
康平の声は低く、かすれた。
「銀座・天閣は斎藤家に十分な利益をもたらした。でも今、俺の結婚は崩れかけている。誰にも離婚しろなんて言う資格はない。」