山田さんは冷めきった何品かの料理をもう一度温め直したが、ダイニングには壁掛け時計の秒針の音が響くほどの静けさが漂っていた。大晦日のはずなのに、斎藤家の旧宅は寒波に包まれたような空気で、凍てつくような冷たさを感じた。
理音はうつむいたまま、薬膳スープを一口また一口と飲み続ける。薬の香りとともに温かさが喉を通るが、舌の先には何とも言えない渋みが残った。
康平は何度か声をかけようとしたが、理音の軽い返事に言葉を遮られてしまう。指先でテーブルクロスをいじりながら、ついにテーブルの下で彼女の左手を強く握りしめた。指を絡めて、親指で彼女の手のひらを何度も優しく撫でる。
「急な仕事が入ったの」
恵美はスマートフォンをしまいながら言った。「一緒に年越しできなくなっちゃったけど、これはお母様からのお年玉よ」
斎藤家の決まりで、年長者は若い者にお年玉を渡すことになっていた。兄嫁も弟妹に用意しなければならない。恵美はまず美咲にひとつ、そして麻衣にはふたつ手渡す。
「麻衣は妊娠中だから、二つね」
と微笑みながら説明する。
麻衣と裕司はすぐに立ち上がってお礼を言う。
続いて、恵美は残った二つのお年玉を理音に渡した。
康平はわずかに目を上げ、険しい表情を見せる。
「理音はハチもいるから、二つ」
恵美は自然な口調で言った。
美咲もすぐに察し、理音と麻衣にお年玉を四つずつ手渡した。規則上、理音は兄嫁として麻衣に二つ用意するべきだが、二人の関係は長年ぎくしゃくしていて、これまでは康平が代理で渡していた。
今回も同じだった。康平は用意していた四つのお年玉を持ちながら、まるで世界から孤立したような寂しさを感じていた。
「お母様、お姉様」
康平は苦笑いしながら言った。
「ハチの分まで用意するなら、一言教えてくれてもよかったのに」
最初から四つ用意していた――
年長者が麻衣に二つ渡すのは分かっていたから、理音の分を多めに用意した。だが、まさかハチの分まで考慮するとは思わなかった。斎藤家には犬にお年玉をあげる習慣などないはずだ。
恵美も美咲も何も言わなかった。二人は理音が妊娠していることを知っていたが、それを明かすこともできず、ハチの口実でごまかすしかなかった。確かに、少し無理のある言い訳だった。
康平はふたつのお年玉を向かいに差し出す。
「ほら、二嫂からだよ」
「ありがとう、二嫂」
麻衣が頭を下げ、裕司も続いてお礼を言う。
「“ありがとう”は受け取っておくわ」
理音は顔を上げ、淡々とした口調に鋭さをにじませる。「だって中身の半分は私のものだから」
康平は顔をそらし、喉の奥で低く笑った。なぜだか、彼女のそんな刺々しさが妙に愛おしく思えた。彼のために、また二人のもののために争ってくれるその姿が。
彼は身を乗り出し、理音の耳元にささやく。
「ハチには一番いい犬小屋を買ってやるよ。お年玉より役に立つだろ?」
理音はわざと少し身体をずらして距離を取る。
康平は小さく笑い、すぐに彼女の腰に腕を回して力強く引き寄せた。その力には逆らえない強さがあった。
恵美はあまり時間がなく、帰る前に理音を呼び止めた。
「もし望まないなら」
恵美は真剣な表情で言った。「お母様に言って。病院を手配するわ」
理音は黙ってうなずき、目元が熱くなる。
恵美は優しいまなざしで理音を見つめる。
「あなたのお母さんに、本当に会いたいわ」
熱い涙が一気にこみ上げ、理音の心は揺れた。彼女は祖父と恵美にとって、母の命の続きだった。失った家族にはもう会えない。生きている人に面影を重ねるしかない。でも、自分には思いを託せる家族さえいない――まだ産むかどうか決めかねている子供以外には。
午後の日差しがガラス窓を通して、床にまだらな光を落とす。理音はリビングのロッキングチェアに横たわり、ハチを胸元で静かに寝かせていた。キッチンでは美咲が山田さんと一緒に年越しと元旦の料理を準備していて、物音を立てないように気をつかっている。
ふいに影が差し、顔に当たる光が遮られる。理音は眉をひそめ、まだ目を開けないうちに、ハチが誰かに抱き上げられ、すぐにふわふわの毛布が体にかけられた。
気づくと、ハチは毛布越しにまた理音の胸元に戻され、ふわりとした尻尾が彼女の手の甲をそっと撫でる。
康平が隣に腰掛け、ハチの耳を指で優しくいじりながら、小さな声で「パパ」と言うように教えている。陽だまりの中、彼の横顔には穏やかな輪郭が浮かび、珍しく静かな時間が流れていた。
理音は長いまつげを震わせ、まぶたの下に小さな影を落とす。
「康平」
男の手が止まる。「ん?」
「十五の時、幸せの木の下に願い玉を埋めたの」
理音の声はとても小さく、何かを壊さぬように響いた。
康平の顎が次第に強張る。
「そこに十年後の自分を書いたの」
あの頃は感傷的で、ちょっと中二病の少女だった。人生の節目ごとに記念を残したくて、願い玉も幸せの木と一緒に埋めた。木の幹には「理音は康平が好き」と刻み、祖父の困ったような顔にも気づかずにいた。
十五歳の少女には、恋や一生なんて分かりもしないのに、早々に自分の未来を一人の人に縛ってしまった。願い玉には「理音はおじいちゃんの自慢になる P.S.康平と一緒にいる」と書いてあった。
でも今は、祖父に会う勇気さえない。自慢どころか、人生をぐちゃぐちゃにしてしまった。
「康平」
理音はもう一度呼ぶ。
男は喉を鳴らすが、何も言わない。
理音は目を開き、光の中で瞳がきらめく。
「これからは、自分のことをもっと大切にする」
康平は声が出せず、喉がすり切れたような感覚だった。
「結婚して最初の年、私は一人でヴィギスに行った。あなたにはマイナス二十点」
理音の声は優しいが、ひとつひとつはっきりと言う。
「二年目もマイナス二十点、三年目も二十点、さっき書斎での一言でまたマイナス二十点。残りは――」
彼女は指を二本立てる。「あと二十点」
康平の目元は赤く染まっていく。
「旦那様」
理音は口元だけで微笑むが、目は笑っていない。
「これは私たち幼馴染の情分、全部ここにある」
康平の声はかすれていた。
「何が言いたいんだ?」
理音はじっと彼を見つめる。
「分からないの?」
「計算が得意なんだな」
康平は赤い目で、冗談めかして言う。
「もしかして僕がうるさくして眠れなかったか……」
「康平」
理音は彼の言葉を遮り、真っ直ぐに見つめ返した。
「……」
「とぼけないで」
男は口元に笑みを浮かべるが、目の奥は冷たく、鋭い眉の影が陽射しの下で残酷さを帯びていた。上体を前に傾け、唇をそっと彼女の口元に滑らせてささやく。
「俺が離婚したなんて、他人に言わせない。絶対に考えもしないでくれ」
理音が何か言おうとした瞬間、康平の突然のキスが全ての言葉を封じた。彼の手は下から彼女の顎を支え、人差し指と親指で頬を挟み、無理やり口を開かせてさらに深く奪う。
ハチは驚いて「くぅん」と不安げに鳴いた。
理音は何度か抵抗したが、まるで罠に落ちた獣のように、全てが無駄だった。
しばらくして、康平は少しだけ彼女を解放し、額を合わせて熱い息を吐きかける。
「君は僕から離れられない。これからはもっと一緒にいる。どこへでも付き添う、いい?」
理音の顔色は真っ白だった。
康平は顔を彼女に寄せ、頬を寄せ合いながら、抗えない独占欲を滲ませる。
「少しだけ、抱かせて……」
言い終わらないうちに、理音は急に身体をひねり、激しく嘔吐して彼の服に吐きかけてしまった。
康平はその場で固まった。