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第24話

リビングにはなんとも言えない妙な匂いが漂っていた。


結局自分が悪いと分かっている理音は、こっそりと康平を二度見し、彼の清潔なシャツの裾をつかんで自分の口元を拭いた。


「前から言っておいたでしょ」

理音は平然とした顔で言った。

「あなたみたいな人なら、こんな小さいことくらい平気で乗り越えられるよ。」


康平はその言葉に呆れ笑いし、汚れたシャツを脱ぎ、整った上半身をあらわにして、しゃがみ込むとそのシャツで床をきれいに拭いた。


「斎藤姫」

彼は見上げて、やや茶化したような口調で言った。

「俺、シャワー浴びてきてもいい?」


理音は彼より先に立ち上がった。

「この匂い、ほんと無理。早く片付けて。」


……


康平はこめかみをピクピクさせた。この子は自分を大事にしろって言ってきたくせに、自分のキスが嫌だったのか吐き戻し、その後始末まで全部押し付けてきた。


使いっ走りにするのは実に手馴れて自然だ。


離婚したいとか言ってるけど、離婚したら誰がこうやって世話してやるんだ。


康平のしかめ面はふっと和らぎ、汚れた服を丸めてゴミ箱に放り込み、軽やかな足取りでバスルームへ向かった。


美咲がご祝儀を用意してくれるのを知っていた理音は、事前に贈り物も準備していた――

特注の改良チャイナドレスに、ラベンダー色の地に雪のように白い狐の毛のショールを合わせたもの。美咲の気品ある雰囲気にぴったりだった。


理音は美咲に「今すぐ着てみて」とせがんだ。


美咲はドレスの生地を撫でながら、感謝のまなざしで言った。

「きっと高かったんでしょ?」


「そんなことないよ」

理音は笑いながら言った。

「それに、お姉ちゃんは毎年ご祝儀くれるじゃない。ずっともらってばかりじゃ悪いから。」


美咲は冗談めかして軽く理音をたたいた。

「何言ってるの、これは昔からの習わしよ。損とか得とかじゃないんだから。」


そこで美咲は少し声を落とした。

「康平は、まだ赤ちゃんのこと知らないから、お母さんと私はハチちゃんのことを口実にご祝儀を二重に包んだの。

……彼のこと、責めないであげて。」


「責めてないよ」

理音は鼻をすすりながら言った。

「これからは、彼が私を好きかとか、心に誰がいるかなんて考えないことにしたの。」


自分の意識を、もっと大事な人や物事に向けたい。くだらない人や出来事に、もう時間を使いたくない。


美咲はしばらく黙っていた。

「本当は、斎藤家が康平に悪いことをしたのよ。」


理音は首をかしげた。

「え?」


「お兄ちゃんがこの前、少し話してくれてね」

美咲は説明を続けた。

「康平は本当は銀座・天閣を継ぎたくなかったの。自分で会社を興したかった。でも斎藤家のため、慎一のために仕方なく引き受けたのよ。」


銀座・天閣の本業は裏の仕事。


巨大な情報庫のような存在で、上層の人間たちの闇を握り、ほんの少し明かすだけで相手の急所を押さえられる。


康平がそれを継いだということは、自らその影に踏み込むこと、手を汚す覚悟を決めたということだ。


他人の弱みを握って皆を従わせる一方で、自分自身も火の粉をかぶり、いつ反撃されてもおかしくない立場になった。


理音はそんなこと、何も知らなかった。


彼女は一度も銀座・天閣に行ったことがなかったし、康平も連れて行ったことがなかった。


それで前は不満を言ったこともある。麻衣は行ったのに、どうして自分はだめなのかと。でもその時、康平は何も説明せず、いつものようにしつこく機嫌を取って、プレゼントや甘い言葉で丸め込まれて、結局うやむやになってしまった。


理音は、ふたりの間に愛情はあると認めている。でも、愛情と相性は別。康平の問題解決のやり方は、彼女に安心感を与えてくれなかった。いつもどこかで消耗している気がした。


「お姉ちゃん」

理音は言った。

「彼は斎藤家の人間なんだから、斎藤家のために尽くすのは当然よ。」


美咲は静かにため息をつき、二人の関係がもったいないと感じた。


理音は小さくつぶやいた。

「今日のことは、自業自得だわ。」


康平はバスルームに30分以上こもっていた。潔癖症というわけではない。ただ、理音がうるさく言うのが分かっているから、匂いを完全に落とさないと、またあれこれ文句を言われて、抱きしめることもできなくなる。


この子は本当に細かい。彼女の好みじゃない服を着ているだけで文句を言われ、彼女の腕の中で無理やり着替えさせられる。


康平は不良だが、こういうことに関しては彼女の言う通りにするのが好きだった。


髪をタオルで拭いていると、首元の銀色のスネークチェーンが突然切れた。


バスルームは湯気に包まれていた。チェーンが落ちる瞬間、康平は指先でそのまま拾い上げた。


このチェーンは、大学に合格したとき理音がくれたものだった。


当時二人は北城にいたが、別々の大学だった。理音は「スネークチェーンであなたを繋ぎとめる」と言った。


その時康平は呆れて笑い、

「恥ずかしくないのか?」と聞いた。


「全然」

理音はまっすぐに答えた。

「じゃあ、チェーンと指輪、どっちがいい?」


康平が答える前に、理音は急に俯いて言った。

「でも、逃げたいなら逃げればいいよ。おじいちゃんが言ってたの。繋ぎ止められない男は、砂みたいに消えていくものだって。」


……康平は眉をひそめた。

「何言ってるんだ?」


繋ぎ止められないとか、消えていくとか、何も悪いことなんてしていないのに。


理音はこっそりと彼を見つめ、じっと見れば見るほど、この顔なら絶対浮気しそうだと思った。


「康平」

彼女は小さく呼んだ。


康平は自分でチェーンを首にかけ直し、彼女の声にちらりと目をやった。


理音は顔を真っ赤にして、

「私たち、もう18歳だよ」


「うん」


「……その、」

理音は指をいじりながら、恥ずかしそうに

「もう、そういう年齢だよね?」


「何の年齢?」


理音は睨みつけるように彼を見た。


康平はにやりと悪い顔をして言った。

「結婚できる年齢、男は22、女は20だけど?」


理音は怒った。

「誰があんたなんかと結婚するか!夢見てなさい!」


「別に君とするなんて言ってないよ」

康平はからかうように言った。

「ただ、法律の話をしただけ。」


理音はさっさと背を向けて歩き出した。


康平はのんびり後をついていく。

「じゃあ、何が“もうそういう年齢”なのか教えてよ?」


理音はもう黙り込んでしまった。もし口にしたら、絶対に康平にからかわれる気がした。


「ネックレス、ちゃんとつけててよ」

彼女は無理やり話を変えた。

「無くしたり壊したりしたら、絶対後悔させてやるから!」


後悔するがいい!


康平は一瞬動きを止め、濡れた指先でチェーンをつまみながら、胸がどきんどきんと高鳴った。誰にも見せたことのない不安が、心の奥に隠れていた。


部屋の外から急に足音がして、ぱたぱたと理音がやってきた。


康平はまつげを伏せてすぐに感情を隠し、バスルームの棚を開けて道具を探した。


チェーンは留め具が壊れていた。もう7年も着けている。


理音が外からドアをノックした。

「ちょっと、物を取りに来ただけ。」


「すぐ出るよ」

康平は落ち着いた声で返した。

「今着替えてるけど、君も入ってくる?」


棚にはちょうどいい道具がなく、代わりに細い赤い紐を手に取った。


理音はしばらくドアの前に立っていたが、またぱたぱたと遠ざかっていった。


さっきまでは見られるのが嫌だったくせに、いざ本当に避けられると康平は無性に腹が立った。


二人で何度も熱くなったくせに、終わったあとには甘えて自分に抱かれて風呂に入るくせに、その時は遠慮なんてなかっただろうに。


康平は苛立ちながら赤い紐を留め具に何重にも巻きつけ、壊れた部分をしっかり固定した。ネックレスは再び彼の首元に戻った。


康平は鏡の前でゆっくりとバスローブを脱ぎ、声を張り上げた。


「理音、服を持ってきてくれ。」

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