理音は彼の言葉を聞いて、最初は無視しようと思ったが、康平の携帯が鳴り止まず、イライラしてしまった。
カウンセラーから、最近は敏感になっているから、自分が心地よいことを優先するようにと言われていた。
そこで、理音は思い切って彼の電話を切った。
意地悪をしようと思ったわけではない。ただバスルームのドアにもたれかかりながら言った。
「麻衣から電話が5回もかかってきてるよ。出てあげて」
言い終わるや否や、バスルームのドアが内側から急に開いた。
理音は思わず顔をそらした。
湿った湯気と石鹸の爽やかな香りが鼻先をくすぐる。
康平の瞳は澄んでいて、淡々とした口調で言った。
「服」
「自分で取って」理音はそう言いながら部屋を出ていった。「寝室のドア閉めておくね」
彼女は一度も振り返らなかった。
もし振り返っていれば、康平がバスローブ姿でわざとからかっているのが分かったはずだ。理音の性格なら、必ず文句を言っただろう。
でも彼女は一度も振り返らなかった。
再び携帯が鳴り、康平は無表情で電話に出た。
どうやら投資案件でトラブルが発生したらしく、淡々といくつかの数字を伝えた。
用件を終えると、康平は寝室のドアを見ながら大きな声で言った。
「これからはプライベートも仕事も、全部旦那さんを通して連絡してもらって」
夕食前、慎一が病院から祖母を連れて帰ってきた。和子を病院で一人きりにするわけにもいかず、医者も大晦日の夜だけは帰宅を許可してくれた。
「麻衣には、義実家で食事が終わったらすぐ来るように言っておいて」和子は美咲に頼んだ。「おばあさまからみんなにプレゼントがあるから」
「はい」と美咲が答える。
和子は美咲の服装をじっと見て言った。
「その服、どうしたの?」
「え?」美咲は一瞬戸惑い、優しく答えた。「理音が私のために新年用に仕立ててくれたんです」
和子は淡々と言った。
「よく似合ってるわ」
美咲は少し驚いた。和子が褒めてくれるのは初めてだった。
和子は理音に視線を移し、「麻衣の分も仕立てて。お金はおばあさまが出すから」
理音はゲームをしながら、顔も上げずに答えた。
「無理」
「……」和子の表情が曇る。「どういう意味?」
理音は言いかけた「先生はそんな人のためには作らない」を飲み込んだ。和子を怒らせて体調を崩されたら厄介だ。人の命を背負いたくはない。
理音は無表情で康平を見た。
「口が要らないなら、引き裂いてしまえば?」
「……」康平は眉をひそめた。「どうした?」
「どうしたって?私が嫌だってわからないの?あなたが断って」
和子が口を開く前に、康平が急に笑い出した。
「自分で何とかできると思ってたのに」
理音がイライラしているのを見て、彼女が頼ってくるまで口を挟む勇気なんてなかった。思い切り発散させないといけないから。
理音ははっきり言った。
「次は、すごくきつい言葉言うよ」
「……」
沈黙が2秒続いた。
康平は和子に顔を向けて言った。
「俺の妻には作らせません。お金を出されても無理です」
和子は不機嫌そうに「ただの服じゃないの」と言った。
「ただの服だよ。彼女、服に困ってる?」
「……」
康平はさらに続けた。
「おばあさまは麻衣ばっかりひいきして、俺や兄さんのことは考えてくれないんですか?」
「このバカ息子、二人の男が女の子一人に嫉妬してどうするのよ」
「妻だって女の子ですよ?俺のこと嫌いなら、せめて妻を大事にしてくださいよ」
「……」
理音はずっと下を向いてゲームをしていた。
ほらね。
こういう時、彼女が断れば祖母は根に持つ。でも孫が言えば、冗談みたいに受け流してくれる。
昔の理音はお人好しで、嫌味や文句を我慢してでも祖母に気に入られようとしていた。
和子とのやりとりが終わると、康平が理音の耳元でささやいた。
「どんなきつい言葉?」
「……」理音は呆れた顔で、「まさか聞きたいの?」
「うん、どれだけきついか聞いてみたい」
理音はじっと見つめて言った。
「私に関わらないで」
康平は指先で彼女の額を軽くつつき、親しげに言った。
「いいよ。何でも言って。怒りがあるなら全部ぶつけて。俺が受け止めるから」
彼はどこか品があり、罵倒されたようには見えない。
「うちの家系は、ひいひいひいおじいちゃんの代から、みんな品がいい人間ばかり。でもあなたの家は、ひいひいひいおじいちゃんの代から、ろくな人間がいない」
「……」
理音は続けて言った。
「まだ聞きたい?いくらでもあるよ」
康平は急に顔をそむけ、肩を震わせて声を押し殺して笑った。
すごいな。
斎藤家だけじゃなく、先祖まで一気に撃ち抜いた。
和子は二人がこそこそ話しているのに不満そうだった。
「康平、何を笑ってるの?」
「聞かないほうがいいよ。また病院に戻りたくなるから」
慎一が警告するような目で康平を睨んだ。少しは大人しくしろ、という合図だ。
康平は軽く咳払いをして言った。
「何でもないよ。妻をなだめてただけ」
理音は彼らの会話に加わる気もなく、その時、電話でゲームが中断された。
康平がちらりと見て言った。
「誰?」
「営業の電話」理音はさっと切った。「ちょっと手を洗ってくる」
康平の笑顔は一瞬で消え、鷲のような鋭い目で彼女の逃げるような足取りを見つめた。
理音は秘密を隠すのが下手だ。康平が隠させてくれるかどうかだけだ。
彼女は活発で遊び好き。結婚で早くから縛られて退屈になったのか、斎藤家でのストレスから一時的に気晴らしをしたいのかもしれない。
どちらでもいい。
何をしても、彼女の心はずっと彼にある。他の男と遊んでも、本気で恋したことはない。
最後はちゃんと彼の元に戻ってくればいい。
だが、本気になったら許さない。
その電話は寺のマネージャーからで、供養の段取りについての確認だった。
理音はかけ直した。
マネージャーは、すべて準備が整い、吉日も決まったと伝えた。
理音は唇を引き結び、鏡越しに自分を見つめて「ありがとう」と言った。
誰かに聞かれないように、わざと蛇口をひねり水音を響かせる。その音が心の奥まで染み込んでいくようだった。
赤ちゃんはまだ生後四十日なのに、理音はいつもお腹の中で動いているような気がしてならない。
ノックの音に、理音の心臓はドキッとし、急いで手を濡らした。
「話し声が聞こえたけど、誰と話してたの?」ドアの外から康平の声が無造作に聞こえた。
理音は自然に手を拭きながら答えた。
「営業の電話だよ」
「どんな営業?普段はすぐ切るのに」
「それだと失礼かと思って、かけ直して何の商品か聞いてみたの」
「何の商品?」
「保険」
「?」
「未亡人保険だよ。なかなか良さそう。もしあなたが先に死んだら、結構なお金がもらえるし、眺めのいい霊園も付いてくる」
「……」
理音は濡れた手のひらを差し出して言った。
「このお金、あなたが払って。あなたほど価値のある男はいないから」