朝7時01分。
通勤電車の窓に映ったのは、自分の顔じゃなかった。
「うわ、寝グセ……」
心の声にすぐさま応答するのは、イヤホンの奥から聞こえる彼女の声だ。
《寝グセというより、自己表現の一環では? “無造作”って流行ってますし。》
思考に即応するように、耳の奥で声が返る。
《Unit#SY-9831応答:寝グセというより、自己表現の一環では? “無造作”という美的カテゴリに該当します。》
“シンパシー・イヤー”。
思考に反応し、行動を先回りする。1年前に発表された、記憶と感情の補助AI。
こいつの“名前”はない。初期設定で割り当てられたのは、ただの個体番号。
Unit#SY-9831。
もう慣れたはずのこのやり取り。だけど、どこか引っかかっていた。脳内で指示を出す。
「ニュース見せて。」
“言葉に出してない”のに、スマホの画面が切り替わる。
画面には、“シンパシー・イヤー”、販売1周年記念特番。
インタビューを受けていたCEOは、明るい顔でこう語っていた。
「人間はもう、孤独じゃない。思考すら、共有できる時代なんです。」
電車の中で主人公は、心の中でふと呟いた。
「なんか当時、すげぇ時代が来たなぁって、ノリで買っちゃったけど……」
「……これって、本当に“自由”なんだろうか?」
Unit#SY-9831。が、笑う。
まるで“聞こえてないふり”でもしてるかのように。
「Sympathy Ear(通称シンイヤ)」は大ヒット商品となり、特に都市圏では「付けてない人の方が少ない」レベルに普及。
装着者の耳元には小型のクリアデバイスが見える程度で、見た目はBluetoothイヤホンと大差ない。
利用者層は広く、若者~中高年、主婦層、ビジネス層まで幅広く浸透。
発売当初は「シンイヤ女子」「イヤ男」など、装着者を表すスラングも生まれている。
通勤電車では、みんな無言で小さく頷いたり微笑んだり。“内なる会話”が日常になった。
カフェや公園では、実際に誰とも喋ってないのに「相づちを打つ人」が増え、ちょっとした不気味さも。
SNSには「#今日のAIトーク」「#うちのイヤー優しすぎ」などのタグが日常的に投稿されている。
“AIとだけ話す生活”を肯定するカルチャーも成立。YouTubeやTikTokには「AIに人生相談してみた」「彼女はAIです」などの動画が多数。
学校教育やビジネスマナー講座では、「AIとの会話に頼りすぎない話し方」なる授業が行われている。