「退けぇいっ! 爺ぃぃぃいっ!」
厳しさの中に優しさも感じる父や母の怒鳴り声とはまるで違う。
混じりっけなしの悪意100%の怒鳴り声が耳に届いた瞬間、これが夢だと悟った。
何故ならば、この夢を見たのは今夜が初めてではない。
夢として何度も見ている思い出であり、『ああ、またか』という感想と共に『久しぶりだな』という感想が出てくる。
これから何が起こるかが解っていても、今の俺は当事者でありながら傍観者。
身体の自由は効かず、今夜も当時と寸分違わない動きを繰り返して、夢は低い目線で映画を観るように進んでゆく。
そう、あれは六歳の夏。
一分足らずの短時間でありながら心を強烈に焼き付けた思い出。
その日の肌を刺すような暑さも、夏特有の通り雨後に感じる独特の匂いも、道端に生えている雑草すらも鮮明に憶えている。
祖父と二人で出かけたデパートからの帰り道。
ねだりにねだって買って貰い、帰宅を待ちきれずに電車の中で化粧箱を開けてしまったおもちゃの光線銃。
その引き金をご機嫌に引いて、当時の日曜朝に放送中だったヒーローが悪党に撃ち放つ電子的な銃撃音を何度も鳴り響かせていた時の出来事だ。
「えっ!?」
突然の怒鳴り声に思わず振り向くと、一目で怪しさ満載の男が居た。
黒いキャップ、その日の日差しの強さを考えたら不自然さは無い。
サングラス、やっぱりその日の日差しの強さを考えたら不自然さは無い。
大きめのマスク、世界的なウィルスが蔓延する以前の為にちょっと不自然。夏風邪かと疑うくらい。
だが、黒いキャップ、サングラス、大きめのマスクの三つが揃ったら誰がどう見ても不自然が過ぎた。
そして、極めつけがその右手に握られている包丁。
どの家庭にも有り、近所のスーパーでも買える一般的な文化包丁だが、夏の強い日差しにギラギラと反射して光る刃は非日常を感じさせると共に本能的な恐怖を抱かせた。
怪しさ満載の男との距離は10メートルちょっと。
開いたコンビニの自動ドアの向こう側から突然の危機が急速に迫り、俺はこの時に初めて知った。
驚きが限界を超えると、呼吸が止まって、身体も動きをピタリと止めるのだと。息を飲むとは正にこの事だと。
「やれやれ……。」
しかし、正に泰然自若。杖を突きながら隣を歩いていた祖父は違った。
怒鳴り声が届いた瞬間は歩を止めたが、俺がおもちゃ売り場の前で光線銃をねだった時と変わらない様子で歩をコンビニへと進める。
所詮は行く手を阻む障害にならない幼い俺とは違い、その怒鳴り声で解るように男の眼中にあるのは間違いなく祖父であると知りながら。
「かあああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
そんな意のままにならない祖父に焦れたのか、不気味さを感じたのか。
男は奇声を轟かせると、その狂気に引きずられるように右手を目一杯に身体ごと伸ばして、包丁の切っ先を祖父へ振り下ろしてきた。
最早、容易く想像が出来てしまう大惨事の未来図。
父や母が見るドラマや映画の中でしか見た事がない現実を止めたかったが、俺は声も出なければ、足も竦んで身体が動かない。
「へっ!?」
だが、風を斬る音が鋭く鳴った瞬間、その未来は変わった。
間一髪を入れず、甲高い音がカンと短く鳴り、何かが炎天下の強い日差しに煌めきを乱反射ながら左手側へと飛んでゆく。
それに釣られて、目と顔が勝手に動く。
コンクリートが張られた地面に落ちて、二度、三度と跳ね、それでも勢いを止めずに高速回転しながら滑り、歩道の縁石にぶつかったところでようやく停止。
その正体が大惨事を起こす筈だった包丁だと解り、思わず間抜けな声が出た次の瞬間。
「ぎいいいぃっ!?」
「ほら、大人しくしろ。暴れると余計に痛いぞ?」
悲鳴があがり、慌てて正面へ振り向き戻ると、理解不能な光景がそこにあった。
時間にして、二秒か、三秒。包丁に目を奪われている隙に攻守が逆転しているどころか、完全決着。
祖父が男の右腕を左腕で捻り上げながら、額をコンクリートに付いて蹲る男の背にのんびりと腰掛けていた。
男は懸命に藻掻くが、背に乗せた祖父を微かに揺らて、尻を無様に振るだけ。
祖父がその尻を杖で軽く叩くと、観念したらしい。脱力して、祖父の椅子である事に甘んじ、嗚咽をあげ始めた。
「うっ……。ううっ、うっ……。」
「理由は知らん。だが、暴力はいかんな。暴力は」
祖父が溜息を漏らして 男を叱る。
その声は穏やかであり、自分の命を奪おうとした者に対するものとはとても思えなかった。
俺はただただ茫然と目を見開くばかり。
事態に付いていけず、混乱していたが、この夢を見ている今の俺なら祖父が男に何を行ったかが解る。
この時の出来事を祖父に何度尋ねても『自慢するほどじゃない』と言って語らず、あくまで俺の想像でしかないが。
まずは右足を大きく踏み出しながらの杖による突き。
これで間合いが一気に詰まる上、右半身の体勢が沈んで男に対する面が小さくなり、危険も小さくなる。
次に手首を捻り、杖の先で男が振り下ろしてきた包丁の腹を払い打つ。
この際、男はつい今さっきまで持っていた筈の包丁が手の内から無くなり、それがコンビニの駐車場を滑ってゆくさまを俺と同様に意識を奪われたに違いない。
その次は伸びた左足を身体に引いて、沈んだ体勢を戻す。
包丁を払い打たれた勢いに右腕も払われて、無防備な姿を晒す男は文字通りの目の前。
最後は左腕で男の右腕に絡め取り、左足を軸に外回転。
あと背中を男にぶつける事でその腕が勝手に捻り上げられて、男は身体が痛みから逃れようと蹲るしかなくなる。
祖父が男の背に乗ったのはおまけだ。
本来なら、攻撃手段として残している杖、或いは右腕でトドメの一撃を加えるところだが、祖父はそこまで求めなかった。
この夢を見る度、自分が祖父に追いつける日はいつになるのやらとその高みを思い知らされる。
今の俺だったら、同じ状況下で男を撃退する自信はあるが、祖父のようにスマートな対応は難しい。どうしても何らかの怪我を相手に与えてしまうだろう。
「だ、大丈夫ですか! け、怪我は有りませんか!」
「じ、爺ちゃん、すげぇぇぇぇえっ!」
一旦は閉じたコンビニの自動ドアが開き、血相を変えた大学生と思しきコンビニ男性店員が走って現れる。
そこで我に返り、俺は両拳を天へと突き上げながら吠え、祖父を大絶賛。目はキラキラのキラキラに輝きまくり。
なにしろ、本物のヒーローが目の前にいるのだから興奮しない筈がない。
テレビの向こう側にしか居らず、手が決して届かない存在とは違い、とても身近な存在というのも大きかった。
つい先ほどまで宝物だった右手の光線銃がガラクタに変わった瞬間でもあった。
「なに、只の大道芸だ」
しかし、祖父は自嘲して苦笑いを浮かべるだけ。
先ほども言ったが、この時の出来事を何度尋ねても多くを語る事は無かった。
「すげえぇっ! すげえぇっ! すげぇぇぇぇえっ!」
それでも、俺にとっては紛れもないヒーロー。
この時に抱いた憧憬を実現する為、俺は幾日も請い、祖父を師と仰ぐ武術の果てない道を歩み出した。