ロンデニア王国、宮廷の夜。
金細工と白大理石で彩られた大広間には、贅沢の限りを尽くした装飾品が並び、幾百ものロウソクの光が反射して、星の海のように輝いていた。
色鮮やかなドレスの裾がひらひらと舞い、靴音が軽やかに床を鳴らして、楽団の奏でる柔らかな音色が空間を満たす。
今夜は、王室主催の建国記念パーティー。
年に一度開かれる、最も格式高いこの場には、王族と貴族身分の者しか立ち入ることができない。
社交界の精鋭たちが集い、誰とパートナーになって、皆の注目をいかに集めるか――それ自体が、政治であり、戦いであり、宮廷生活におけるサバイバルを左右する。
そんな中心に、ひときわ目立つ美男美女がいた。
第四王子、ジェラルド・カステイオ。
そして、パリスティン公爵家の長女、エレノア。
エメラルドのきらめきを放つ、ジェラルド王子の眼。
そして、光の糸のような銀髪。
エレノアの透き通るような白い肌。美しく巻かれた金色の髪。
まさしく絵画の中の世界のような華やかさに、周囲の視線が自然と二人へ吸い寄せられる。
「……エレノア、君は本当に美しいな」
ジェラルドは、甘い声で
「今夜の君を見てしまったら、他の誰かなど、思い出す余地もないよ」
「まぁ……殿下ってば、相変わらずお上手ね」
エレノアは可憐な微笑を浮かべながら、視線を落とした。
だがその目元には、勝利を確信した感情が溢れていた。
周囲の貴族たちも、その様子を、微笑ましく眺めていた。誰の目にも、「これは、もう決まりだな」と映る光景だった。
第四王子殿下のお妃候補は、この女性なのだ、と。
「ところで……」
一人の貴族令息が、ワイングラスを傾けながら言った。
「殿下。以前連れていらした、あの無口で大人しい女性は、どうなさったのです? えっと……あれ? なんて名前でしたっけ?」
「本名は忘れましたが、殿下はあの令嬢を『おい、デイジー』などと、気安くお呼びでしたな。最初は使用人かと思いましたよ」
別の男が口を挟む。
「確か、爵位を買って子爵になった、貿易商の娘。あまり目立たない方でしたな。彼女と、婚約なさってたと聞きましたが……?」
「ふん、あんな女、本名で呼ぶ価値もない。今日も招待状は送られてるだろうが、俺が連れてきてやらん限り、こんな場所に来る勇気すらない。金勘定しか能のない、陰気でつまらん女だよ。もちろん、婚約は破棄する予定さ」
ジェラルドが平然と言い放つ。
「五年間、『預かってやった』だけだよ。もう充分だろう。あの持参金の利子だけで、だいぶ儲かった。だから、元本はちゃんと、誠実に全額返してやろうと言うんだ」
「ほう……では、もう正式に、婚約破棄の手続きを?」
「書類は先日送った。あとは王室会議の許可を待つだけだ」
「ずいぶん、あっさりと……」
「地味で冴えない娘に、用はない。結婚するなら、美しく、社交の才があり、王家の一員となるにふさわしい身分の相手が良いだろう? たとえば――」
ジェラルドはエレノアの手を取って持ち上げる。
「エレノア公爵令嬢のように、な」
「あら、殿下……」
エレノアは扇で口元を覆いながら、またも可愛げたっぷりに目を伏せた。周囲の貴族たちが一斉に笑顔で囃し立て、祝福の声を上げる。
その時だった。
――バーンッ!
突如として、大広間の扉が、乱暴な音を立てながら開いた。
音楽が止まり、場の空気が一瞬で凍りつく。
全員が、視線を扉の方に向ける。
ゆっくりと姿を現したのは、目にも鮮やかな黄色のドレスに身を包み、唇には燃えるような深紅のルージュ、そして目元を白いマスカレードマスクで隠した仮面の女性だった。
「あれは……誰だ?」
誰もが息を呑んだ。
その存在感は、まるで
火花を散らす導火線のように、彼女はまっすぐ歩みを進める。
長い黒髪には赤い羽根飾りが揺れ、細く引かれたアイラインが、その目に猛禽のような鋭さを与えている。
「遅れて、誠に申し訳ございません」
女は、堂々とした口調で言った。
「皆様、ごきげんよう。お騒がせして……ごめんあそばせ」
その場にいた誰もが、その声に聞き覚えがあるような、ないような、不思議な感覚に襲われた。
彼女は、女帝のように胸を張って歩き、ワイングラスを持ったジェラルドの前に立つと、そこでピタリと足を止めた。
「第四王子、ジェラルド・カステイオ殿下」
女が名を呼ぶと、ジェラルドは眉をひそめる。
「……誰だ? 君は。面識もないのに、王族に向かって無礼な……」
女は笑った。口元だけで。鋭く、冷たく。
「まあ。まさか、お忘れになったとは言わせませんわ」
「……なんだと?」
「私を忘れるなんて、記憶喪失にも程がありますわよ、殿下」
周囲がざわつく中、一人の魔導士服の青年が、信じられないといった表情を見せながら大きな声を上げた。
「どうしたんだ、マーガレット・アステア……本当に、君なのか⁉ いったい、なぜそんな格好で?」
「な、なんだって……」
青年の言葉を聞いて、ジェラルド王子は大きく目を見開く。
「デイジー? まさか、あのデイジーなのか………?」
ジェラルドがようやく、彼の婚約者の愛称を口にした。
「ご明察ですわ」
マーガレット・アステア、あるいはデイジーというあだ名で呼ばれたその女は、優雅な所作で会釈する。
「私がエルバイン子爵家の長女にして、青春の五年間をむしり取られた哀れなデイジーこと、マーガレット・アステアでございます」
そう言い終えると、彼女はスパンと音を立てて紫色の扇を開き、その胸元に構えてみせた。