風が吹き抜けた。
腐敗と鉄錆をまとった空気が、崩れた高層ビルの残骸を縫うように這い回る。折れた鉄骨、剥き出しの配線、崩落したガラス片が、灰色の陽光に鈍くきらめいていた。
地表は、もはや土ではない。文明が燃え落ちた灰が層を成し、歩けば骨のような音がした。空は色を失い、常に鉛のように重く沈んでいる。
かつて人の声が溢れていた通りに、いまは風の唸りだけが響く。
その中に、ひとつの影があった。
膝下まで煤と泥に染まった黒いコートを引きずり、顔をガスマスクで覆い、露出した肌すら布で隠していた。
この世界の空気すら、拒絶しているかのように。
彼の名は、ハルト。
その肩ほどの高さで、小さな球体がふわふわと浮かんでいた。白い殻に一つのレンズ。機械仕掛けの“目”が、冷たくきらめく。
「観測ログ更新。大気汚染指数、継続上昇。異形体の活動記録……周囲に多数。ただし静止状態」
人工的な幼い声が、無機質に響く。
名はピノ。かつて“子ども”だった存在の記憶を模倣して作られた、ハルトの記録補助AIだ。今では、唯一の同行者でもある。
ハルトは答えない。ただ、ピノの発した情報を沈黙で受け入れる。
瓦礫の影に、何かがいた。
人の形をわずかに残したまま歪んだ──異形たち。
細長い肢体。膨れた関節。神経繊維のような毛髪。
壁の裏、天井の隙間、倒れた車両の中。あらゆる陰から、彼らはハルトを見ていた。
だが──誰ひとりとして、襲いかかってはこない。
「……見ている」
「でも動かない。きっと、記憶してるんだ。“人間”のこと」
「忌むべき記憶だ」
ハルトは足を止めた。朽ちた遊園地の入り口だ。
かつて子どもたちが走り回っていたであろうアーチには、色の抜けた看板が垂れ下がり、風に揺れている。
ピノが無言で記録を続ける中、ハルトはふと足元に目をやる。
小さな身体の残骸。子どものような、しかし腕は不自然に肥大し、皮膚には亀裂が走っていた。
「第一期被験体……コード判別不能。未処理のまま放棄された個体か」
その表情は、なぜか安らかで、まるで眠っているようだった。
「ねえ、ハルト。こんな風になってまで、進化って必要だったの?」
「……記録を残す。それが、おれの役割だ」
再び歩き出す。周囲の異形は沈黙を保ったまま、じっとその背を見送る。
その視線にあるのは怒りか、憎しみか、それとも……かつての郷愁か。
***
崩れかけたビルの一角にたどり着くと、ハルトは階段を静かに下った。足音が砕けたガラスと石片を踏み、微かな音を立てる。
「この構造……旧時代の研究棟の一部かも。崩落の危険あり、気をつけて」
ピノの注意を聞き流すように、ハルトは奥へと進む。床に転がるコンソール端末。埃をかぶった壁の配線。壁の一部には、まだ電源が残っているようだった。
ハルトは破損した記録端末の残骸を拾い上げ、バックアップ用のインターフェースを接続する。
「再生可能な映像データ……一件。音声・映像両方あり」
「再生しろ」
かすれたモニターが光を帯び、ノイズ混じりの映像が浮かび上がる。
──映るのは、白衣を着た一人の女性。
灰色の空とは対照的に、鮮明に映ったその表情。
赤い髪を束ね、カメラをまっすぐに見つめていた。
「──もしこれを見ているのが、あなたなら……」
「ハルト。あなたは“記録する者”。でもその記録に、あなた自身が殺される」
ピノのカメラアイが一瞬、明滅した。
ハルトの手が、わずかに震えた。
だが彼は何も言わない。ただ、そっと接続ケーブルを引き抜く。
映像は途切れ、また闇が戻る。
「今の、誰……?」
「……カミラだ」
その名前の響きが、地下の空気を微かに震わせる。
「……記録だけ残して、何も残らなかった人」
ハルトは答えず、ただ背を向けて歩き出した。
再び、何も言わず。
記録だけを残し、過去と共に沈んでいく。
風が吹いた。
燃え尽きた都市の片隅で、異形たちはまだ目を閉じず、静かに記憶を見つめている。
記録者の足音が、その亡骸の街に、またひとつ刻まれた。
──終わらぬ“記録の旅”が、いま、始まる。