──この街にはもう、笑い声も夢もない。ただ、壊れた記憶だけが風の中をさまよう。
灰の中に、子どもの声はもう残っていない。
だがその気配だけが、今もこの街をさまよっている。
ハルトは、崩れかけたアーチをくぐった。
朽ちた支柱。剥がれた塗装。鉄骨の間に絡みついたつたは、すでに枯れて久しい。
ハルトはガスマスク越しに息を吐き、ゆっくりと歩を進めた。
「ここが……レナの痕跡のあった最後の場所か」
──遊園地跡。
回らない観覧車が、鉛色の空に沈黙している。風が吹くたび、どこかで鈴のような音がした。壊れたアトラクションの残響だった。
「この場所、子どもたちが集まるところだったんだよね?」
肩ほどの高さで浮かぶ小さな球体、ピノが訊いた。片目のカメラアイがきょろきょろと周囲を観察している。
「……ここ、昔、楽しかった場所だよね?」
ハルトは返事をしない。ただ、ガスマスク越しに黙って前を見据えていた。
ピノはくるりと一回転し、朽ちたメリーゴーラウンドを見つけると、ふわりとその上に降り立つ。
機械仕掛けの馬は頭を落とし、回転台は半壊して傾いていた。
「ねえ、ハルト。もし、今でも動いてたら……乗ってみたかったな。ぐるぐる、まわって、風を切ってさ。……へへっ」
その声は、確かに幼い希望の残り火だった。
けれど、その風はあまりに冷たく、灰の中に夢など存在しないことを突きつけていた。
「そうだな」とハルトは周囲を見渡した。
「だが……いまはそんな暇はない。記録を続けろ、ピノ」
「……うん」
ほんの一瞬だけ輝いた無邪気さは、再び硬質な人工音声へと戻っていった。
夢の終わった世界では、笑いすら過去の記録に過ぎない。
ハルトは足を止め、崩れたメリーゴーランドを見上げた。
台座には色の抜けた木馬がいくつも横たわり、歯車の一部が空しく空転している。
「観測ログ:遊園地区画、異形体の活動記録あり。空気中に未処理の神経毒素。放射線レベル、注意域」
ピノが読み上げる声はいつもと同じ調子だったが、どこか不安げだった。
そのときだった。
何かが、ゆっくりと回るような音がした。振り返った先。
壊れたティーカップの奥。煙に混ざる埃の中に、ひとつの影が立っていた。
子ども。
……の形をしていた“それ”は、ハルトとピノを見ていた。
腕が、異常に長かった。
関節が逆向きに曲がっている。
髪のように見えたものは無数の神経繊維で、時折かすかに蠢いた。
目だけが、人間のように潤んでいた。
「……子供型実験体。コード未識別」
ピノが分析する。
「旧世界で行われた、実験の産物……かな。崩壊前の軍事記録にも近い記述があった。まだ動いてるってことは、抑制処置も……切れてるのかな」
ハルトはじっと身構えた。
「……でも、なんか……」
ピノがぽつりと呟いた。
「……こわいのに、かわいい。変だよね、こんなの」
異形体は何も言わない。ただ、ほんの少しだけ、首をかしげた。
ハルトは銃を異形体に向けていたが撃たなかった。
「まだ……残っているのか」
すると、その子供型異形体が、一歩、前に出た。
その瞬間、ピノのカメラが震えるように明滅した。
「……レナに近い反応。共鳴値、わずかに上昇……!」
ピノの音声が変調する。内蔵された感情記録領域が揺さぶられていた。
異形体の唇が、かすかに動いた。言葉にはならなかった。だが、そこに確かに“意志”があった。
ハルトは銃を下ろした。
「……まだ、“壊れて”いない」
異形はしばらくその場に立ち、やがて踵を返した。
崩れた遊具の間へと、影のように溶けていく。
ピノが名残惜しげにその背を追った。
「行っちゃった……」
「それでいい。おれたちには時間がない」
ハルトは背を向け、再び歩き出す。
風が吹いた。
金属の風鈴が鳴った。
異形が支配する街に、かつての“こどもたち”の亡霊は今も棲んでいる。
壊れながらも、なお“人間”に似た何かを残し続けて。
ハルトが歩みを進めようとした、その時だった。
──ギィ……。
不自然な金属の軋みが、風のうねりの中に紛れ込んだ。
ピノの光学センサーが明滅し、小さく警告音を鳴らす。
「動体反応あり。……三体、増加中。……五体もいる!」
声が震えていた。
次の瞬間、“それら”は姿を現した。
崩れたメリーゴーラウンドの陰から、ゆらりと現れるのは――子供の姿をした異形。
かつての”人間”の名残を色濃く残したまま、歪みきった存在。
「ハルト、包囲されているよ……ッ!」
小さな身体。だがその腕は膨れ、関節は捻じれ、皮膚は薄くひび割れている。
顔の輪郭はまだ人間に近い。潤んだような瞳が、まっすぐハルトを見つめていた。
「……さっきのやつの仲間か。いや、すでに壊れているのか」
腰のホルスターに指をかけた刹那。
異形たちは突如として動いた。
まるで檻から解き放たれた獣のように、鋭く、迷いなく。
その一体が地面を蹴り、音を置き去りにして跳躍する。
「来るぞッ!」
ハルトは素早く膝を折り、小型の放射粒子銃を抜き放つ。
引き金を引いた瞬間、白熱の光線が空気を裂き、一体の胴体を正確に撃ち抜いた。
──だが。
壁に叩きつけられたはずの異形は、骨の軋みを鳴らしながら立ち上がろうとしていた。
「壊れてるのに……まだ動く……っ、こわい……でも、どうしてこんなに目がやさしいんだろ……」
ピノの声が微かに震えた。その響きには、戸惑いと、何か別の感情が混じっていた。
「黙れ、ピノ。あれはもう“人”じゃない」
その瞬間、背後に殺気。
ハルトは反射的に身を翻し、跳びかかってきた異形の腕をかわす。
すぐ横で、瓦礫が砕け、粉塵が噴き上がった。
「三体、まだ健在! どうするの!?」
ピノの声が続く。
「地形マップ更新……この下、空洞あり!探していた旧設備の空間かも!」
ハルトは即座に判断を切り替えた。
「ピノ、入り口を探せ」
「メリーゴーラウンドの下、支柱の裂け目が入り口になってる!」
片足で倒れた遊具の残骸を蹴り上げ、ピノのレーザー照射が示す足元の割れ目へと滑り込む。
「ピノ、下降ルートを維持! 支援照射継続!」
「了解、進路マーク中!」
ハルトは、近づく異形体の間をすり抜けるように走り、壊れた柵を飛び越え――裂け目の縁に飛び込んだ。
ざらつく風が顔に当たり、重力が一瞬遅れて追いかけてくる。
背後では、異形たちの咆哮が重なり、裂け目の縁まで迫る足音が響く。
ハルトは瓦礫に足をかけ、衝撃を和らげながら滑り降りるように地下へ潜った。
後に続くピノのスラスターが、細い光で暗闇を照らす。
地下に広がっていたのは、冷たく閉ざされたコンクリートの迷路だった。
照明はとうに落ち、天井の配線は垂れ下がり、赤錆びた鉄骨がところどころ崩れかけている。水音すら響かない、静寂の底。
「……旧研究区画の一部か。実験棟の地下通路だな」
ハルトは壁に沿って進みながら、手元のスキャナを確認する。
ピノの光線が周囲をスキャンし続け、散ったチリが光の中を舞った。
「この先、微弱な電力反応……それと、微細な熱源。ハルト、生体がいるかもしれない」
「生きてる?」
「……わかんない。でも、まだ止まってない。なにかが……まだ、動いてる」
通路の突き当たり、半ば崩れた防爆扉の向こう――
ハルトは足元の瓦礫を踏みしめ、慎重に中へと進んだ。
そこは、一室の研究ラボだった。
機器はほとんど破損していたが、部屋の中央だけが異様に整っていた。
シールドガラスに囲まれたカプセルが、ひとつ。
まるで、時間だけがそこに閉じ込められているかのように。
「……いた」
ハルトがぽつりと呟く。
カプセルの中――
眠るように横たわる、ひとりの少女。
白銀の髪が水の中をたゆたい、胸元にはうっすらと呼吸の動き。
体表の一部には、異形化を抑制するための処置痕が残っていた。
「識別反応確認。コード:L-07──レナ」
ピノの声が、ほんのわずかに震えた。
「……生きてる。まだ……この子、生きてるよ、ハルト」
ハルトはマスク越しに目を細めた。
かつての記憶が、喉の奥に引っかかるように蘇る。
このカプセルの中で、時が止まったままの少女。
人間と異形の狭間で、眠り続ける存在。
──やっとだ。
この光景を、幾度夢で見たことか。
崩壊の日、目の前で閉ざされたガラス越しの彼女の瞳。それが今、確かにここにあった。
「……ようやく見つけたな、レナ」
ハルトの手が、カプセルのガラスにそっと触れた。
その瞬間。
カプセルの内部で、わずかにまぶたが動いた。
少女のまつげが震える。
水泡がひとつ、上へと昇った。
「……今、目が……!」
ピノが息を飲むように言った。
ハルトはすぐに銃を収め、カプセルの制御盤に手を伸ばす。
「起動シークエンスに入る。ピノ、外部エネルギーを補助接続しろ」
「了解!」
コードを繋ぎ、脈打つような光が走る。
音もなく、ゆっくりとカプセルの上蓋が開きはじめる。
薬液が引き、薄く霧が立ちこめた。
──次の瞬間。
少女の瞳が、ゆっくりと開いた。
灰の世界で、たしかに光を宿したまま。
それは、再会だったのか。
それとも、始まりだったのか。
ハルトは動かず、ただその瞳を見つめ返していた。
深い沈黙が、地下の空間を満たしていた。
レナの瞳が、わずかに揺れる。ハルトの姿を、探すように。