スターホテルの入り組んだ廊下を歩きながら、灯里は神経を張り詰め、何度も後ろを振り返った。
館内は異様なほど静かで、これまで一人のスタッフにも出くわさなかった。
この静けさが、胸の奥をざわつかせる――不安をかき立てられる。
しばらく歩いても誰かが追ってくる様子はなく、灯里はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
もしかして、考えすぎだったのかもしれない。
陽子が本当に卑劣な手を使うなら、わざわざ自分が部屋を出るのを待つ必要なんてないはず。
二百二十五億円なんて、橘川家にとっては取るに足らない額。
どんなにケチでも、陽子が自分の身を危険に晒してまでそんなことをするとは思えない。
あの角を曲がれば、もうすぐロビーだ。
灯里はスマホを取り出し、時刻を確認する。
七時四十分。
そろそろ伊藤に連絡しても良さそうだ。
彼女はうつむきながらメッセージを打ち始めた。
「着きました、今……」
最後の一文字を入力しきる前に、角から突然黒い制服を着た女性スタッフが飛び出してきて、灯里に激しくぶつかった。
「きゃっ、ごめんなさい! 本当にすみません!」
相手は慌てて謝りながら、灯里の体を支えようと手を伸ばす。
「大丈夫です、何とも……」
灯里が言いかけたそのとき、首筋に鋭い冷たさが走った!
心臓が跳ね、相手を突き放そうとしたが、視界がぐるぐると回り始める。
女性スタッフの口元に不気味な笑みが浮かび、腕の力がより一層強くなる。
「お客様、大丈夫ですか? お部屋はこちらでよろしいですか? 私がご案内しますね」
と勝手に話しながら、灯里を無理やり奥の静かな廊下へと引っ張っていく。
「た、す……」心の中で必死に叫ぶ。
急速に力が抜けていく。
声を出そうにも出せない。
周囲の景色が遠くかすんでいき、心まで闇に飲み込まれていく――
誰か、助けて……!
混乱の中、ぶつかった拍子に無意識にポケットに押し込んだスマホ。
画面には、まだ途中のメッセージが残っている!
灯里は最後の力を振り絞り、だらりとした手でポケットを探る。
指先が感覚だけを頼りに、画面の上をゆっくり――そして慎重に動く……
送信ボタンを押した。
……
一方その頃。
ミーティングを終えたばかりの白金雅貴は、ホテルの静かな中庭で一息ついていた。
少し酔いが回ったのか、どこか気だるげな表情を浮かべている。
夜風が髪を揺らし、鋭いまなざしに影を落とす。
「ピン――」
静寂を破る通知音。
傍らに控えていた正がすぐにスマホを取り出した――ずっと灯里からの連絡を待っていたのだ。
送信者を確認し、思わず笑みがこぼれかけたが、すぐに顔をしかめた。
「雅貴様」
「ん?」雅貴が目を開けると、酔いの抜けた鋭い眼差しが戻る。
正は深く頭を下げ、スマホを差し出した。
「灯里さんと八時に待ち合わせの約束をしていました。彼女から『着きました』と連絡が来ましたが……最後の言葉がどうも変なんです。ご覧になりますか?」
雅貴は一瞥し、どこか呆れたような目で正を見てから、画面に目を落とす。
「着きました、今たすけ」
たすけ?
眉間にしわを寄せ、一瞬の疑念がよぎる。
そして、次の瞬間、彼の目が鋭く光った。
すかさずビデオ通話を選択する。
「雅貴様……?」伊藤が戸惑う。
白金雅貴は静かに手を上げ、口を閉ざすよう示した。
ビデオ通話がつながる。
画面はポケットの中にあるらしく、ぼんやりとした灰色。
だが、耳を澄ませば、重い足音や靴が床を引きずる音、そして……途切れ途切れの、苦しそうな息遣いが聞こえてくる。
「た、たす……け……」
かすかな声が響くが、すぐに何者かに塞がれ、苦し気なうめき声に変わる。
事件だ。
白金雅貴は険しい表情で通話を切ると、「フロントに聞け、灯里が来ているかどうか!」
正は慌ててフロントに問い合わせる。
「七時頃、綺麗な女性がいらしてスーツを預けられました。特徴は長浜さんに似ていましたが、その後の行方は……」
雅貴はすぐに立ち上がり、スマホを取り出して厳しい声で言う。
「監視カメラを確認しろ。すぐに人を集めろ! 該当エリアを封鎖する!」
そう言い終わるや否や、彼は一直線にその場を駆け出した。
……
薄暗い部屋。
灯里はベッドに乱暴に投げ出された。
ベッドの周りにはバスタオル一枚だけを身にまとった男たちが何人も立ち、いやらしい目つきで彼女を見下ろしていた。
ベッドの端にはおぞましい玩具や、得体の知れない液体が入った注射器まで散らばっている。
「や……やめて……」
極限の恐怖で全身が震え、手をついて起き上がろうとするも、すぐに崩れ落ちる。
男たちがにじり寄ってくるのを見て、灯里は絶望的に足でシーツを蹴りながら後ろに逃れようとする。
「クソ、最高の女だな!」
「この顔、この体……文句なし! 旦那も鬼だな、カネ払って俺たちに好き放題させるなんて!」
スタッフに扮した女が灯里のバッグから書類を取り出し、印肉を持ってベッドの脇へ。
「旦那が離婚金を払いたくないんだって! ただやるだけじゃダメ、ちゃんと証拠も残せってさ!」
……
灯里の脳裏に衝撃が走る。
まさか……湊斗の仕業!?
違う! 信じたくない――!
必死にスマホを探し、何度もすべり落としながらも、這いつくばって手にする。
自分で直接確かめたかった。
震える手で何度も電話をかける。
だが、最初も二度目も切られてしまう。
三度目、ようやくつながったが、返ってきたのは夜亜の甘く毒々しい声。
「湊斗はもうあなたの電話なんて出ないよ~」
得意げに笑う声が耳にこびりつく。
「ところで、用意した男たち、気に入った? 教えてあげる、あの中にはエイズ持ちも混ざってるんだよ~!
あとで盛り上げるための注射もしてあげる。きっととろけるような夜になるんだから!
明日には、『一晩で八人の男と乱れた女』の映像がネット中にばらまかれるかもね。家族も友達も、みーんなあなたがどんな女か知ることになるわ!
そうそう! あなたの人生が終わる記念に、明日、私と湊斗が婚約を発表するの。
あなたは一円も手に入らず、虫けらみたいにみんなに軽蔑されるだけ。警察に行く? 横浜じゃ、うちと橘川家の力であなたなんてアリ同然よ!
どんな気分? 男も地位も奪われて、今度は人生ごと壊されるんだよ。でも私は幸せな花嫁になって、湊斗とずっとラブラブでいられるの。
あなたは……ただ汚れて、苦しみながら、朽ちていくだけ!ははははっ!」
夜亜の狂ったような笑い声が、耳の奥を突き刺す。
スマホが灯里の手から滑り落ちた。
怒りと絶望が胸の奥を氷の刃となって貫き、全身を引き裂く。
痛みも涙も感じない。
ただ、どうしても立ち上がりたかった。
例え鬼になっても、あいつらを必ず道連れに――!
「さあ、始めて!」
ベッドの端で女がカメラを構える。
八人の男たちが、灯里を取り囲む。
「やめ……て……」
灯里はかすかに枕を掴むが、すでに力が残っていない。
両手は乱暴にベッドのヘッドボードに縛りつけられ、足も男たちにがっちり押さえつけられる。
無数の汚れた手が服の中へと伸びてくる。
脂ぎった太った男がベッドに乗り、注射器を手ににやつきながら近づいてくる。
冷たく光る針が灯里の太ももへと突き刺さろうとした瞬間、
灯里は目を閉じ、最後の力を振り絞って自分の舌を思い切り噛みしめようと――
「カチャッ!」
電子ロックの解除音が、ドアの向こうからはっきりと響いた。