橘川陽子は、彼女が黙っているのを見て、咳払いを一つした。
「夜七時。来なければ、補償は当初の約束通り百五十億円で」
そう言い残して、返事も待たずに電話を切った。
灯里はスマホを置き、じっと画面を見つめたまま考え込んでいた。
宮部清美の忠告が耳に残る――
本当に土壇場になっても、まだ何か企んでいるのか?
灯里と陽子は昔からうまくいっていなかった。
湊斗と交際を始めた頃から、家柄を理由に疎まれ、結婚してからの四年間、一度も橘川家に足を踏み入れることを許されなかった。
正月やお盆に食事を共にしても、冷たい言葉や皮肉ばかりだった。
今回の呼び出しも、たぶん脅しをかけて、自分を落ち着かせつつ、ついでに補償契約にサインさせたいのだろう。
灯里は行くべきかどうか悩んでいたが、一時間後、伊藤からまたメッセージが届いた。
【いかがなさいますか?】
灯里は唇を引き結んだ。
どうしてそんなにしつこいの?
失礼を承知で、スーツをそのまま管理人に預けて伊藤に渡してもらいたいくらいだ。
どうせ彼は上の階に住んでいるのだから。
だが、無視し続ければ角が立つ。
いっそスーツを返しがてら、陽子に会ってしまおう。
腹を決めて、灯里は伊藤に返信した。
【わかりました。何時に伺えばよいですか?】
すぐに返事が来た。
【八時とかいかがでしょう】
……
灯里は軽く化粧を直し、服を着替えて車を出した。
まずは両親の家へ向かう。
数日前、湊斗が新居で彼女を待ち伏せしていた。
それで、自分が監視されていると確信した。
この数日、邸宅の周囲には怪しい車がずっと停まっている。
車を出して間もなく、湊斗から電話がかかってきた。
「昼寝してた?」
ふん、探りを入れてきたわね。
灯里は心の中で冷笑しながら答えた。
「今、車に乗ってる。親の家に行くところ」
「スーツを届けるのか?」
「……そうよ」
助手席のスーツ袋を横目で見ながら、灯里は答えた。
灯里の口調が自然だったので、湊斗は電話を切ったが、すぐに監視役に両親の家まで追跡するよう指示を出した。
灯里は両親の家に到着した。
二人とも退職した大学教授だ。
母の長浜千鶴は、こんな時間に娘が来たことに驚いていた。
「今日は仕事は?」
「休みを取ったの。ちょっと風邪気味で」
そう言いながら喉に手を当て、咳をする。
「自分の体を大事にしなさい。顔がやつれてるじゃないの。湊斗さん、あなたに冷たくしてるんじゃないの?」
千鶴は心配そうに娘の頬を撫でた。
母親には娘の隠し事も見抜かれてしまう。
「そんなことされたら離婚するよ」
灯里は軽く冗談めかして言った。
千鶴はため息をつき、それ以上は何も聞かなかった。
灯里は話題を変えて世間話を続けた。
離婚の話は、すべてが片付いてから伝えようと決めていた。
両親を無駄に心配させたくなかった。
夕食を食べ終え、灯里は服を着替えて「友達と約束があるから、今日は遅くなる」と言い訳をした。
エレベーターの中で帽子とマスクを着け、監視の目をかいくぐってマンションを抜け出した。
……
スターホテルに着いたのは、ちょうど七時を少し過ぎた頃だった。
外観は落ち着いた和風、内装は控えめな豪華さが漂う。
灯里はまずフロントにスーツを預け、陽子に電話をかけた。
「着きました」
すぐにスタッフが現れ、複雑な廊下を案内されて茶室の前まで連れて行かれる。
扉が開かれ、中へ通された。
灯里は中に入る。
室内にはお茶の香りと、ほのかなジャスミンの匂いが漂っていた。
陽子は深い緑の気品あるドレスを身にまとい、堂々と座っていた。
「座って」
顎で合図する。
「補償契約にサインするって話よね?書類は?」
灯里は無駄話をせず、席に着くなり本題に入った。
「そんなに急がなくてもいいじゃない。まずはお茶でも飲みながら話しましょう」
陽子は落ち着いた口調で言った。
灯里は訝しげに眉をひそめ、目の前の茶碗を手にとってじっと見つめた。
「これ……まさか毒でも入ってるんじゃないでしょうね?」
陽子は鼻で笑った。
「嫌なら飲まなければいい」
灯里はきっぱりと茶碗を置き、手元から遠ざけた。
「そうね、飲まない方が身のためだわ」
「……」
陽子は言い返せず、顔色を曇らせたが、すぐに皮肉を口にしようとした。
「やっぱり、育ちが……」
「もういい加減にして」
灯里はきっぱりと遮った。
「そんな使い古っ臭いセリフ、よく飽きずに言えるわね?本題だけ手短に頼むわ」
陽子は顔をひきつらせながら、怒りを抑えつつ分厚い契約書を突き出した。
「これにサインしなさい!」
灯里は契約書を手に取り、ページをめくりながら細かく目を通した。
補償金の話だけなら一枚で十分なのに、十数ページも無駄な文言と罠のような条項がぎっしり詰まっている。
一つ、特に目を引く一文があった。
「離婚前に異性と不適切な関係があった場合、本契約は無効とする」
一見、道理が通っているようで、よく考えると恐ろしい……
自分にやましいことはなくても、疑いをかけられれば終わりだ。
灯里は、陽子の底意地の悪さを見誤っていたと痛感した。
最後まで目を通し、無表情で契約書を置いた。
「この契約書は、弁護士と相談してから返事したいのですが、明日の昼まで待ってもらえます?」
「問題があれば直接言って。私が直してあげるわ」
「私が言えば直してくれるの?それなら、私が新しく書き直したら?」
「それはダメよ!私の書いたものにサインしなさい!」
陽子の顔はますます冷たくなる。
灯里は椅子にもたれて、余裕の態度を見せた。
「さっき直すって言ったのに、今度は絶対にダメって?どういうこと?」
陽子はきっぱりと言い放った。
「つまり、今日はサインしない限り帰れないってことよ!」
灯里は、表情を崩さなかった。
しばらく考えるふりをしてから答えた。
「じゃあ、ちょっと外で弁護士に電話するわ。大丈夫だと言われたら、その場でサインする」
そう言って契約書を持ち、席を立った。
部屋を出ると、灯里は一度も振り返らず、そのまま足早に廊下を離れた。
背筋を冷たいものが這う感覚が強くなる。
あの十数ページの中に隠された悪意が、彼女を強く警戒させていた。
茶室の中。
灯里が出ていくと、陽子はすぐさま電話をかけた。
「出て行ったわ。契約書も持って行った。夜亜、本当にこのお金を節約できるの?」
「心配しないで」
電話の向こうで、戸崎夜亜の甘ったるい声が、不気味な冷たさを帯びて響く。
「全部手はずは整えてあります。橘川家は一円も払わなくて済むし、彼女も二度とあなたを脅すことなんてできませんよ」
「さすが夜亜ね。あとは任せるわ」
「大丈夫、全部お任せください」
電話を切った陽子は、満足げにお茶を一口飲んだ。
明日の慈善パーティーで橘川家と戸崎家の縁談を発表できる――
そう思うと、胸が弾んだ。
灯里のことは……
まあ、夜亜が何をするつもりか知らないが、ちょっと痛い目を見るくらい、ちょうどいいだろう。
その頃――
戸崎夜亜は電話を切ると、目の奥に毒のような冷たい光を宿していた。
今夜が、灯里の命運が尽きる時だ。