灯里はメッセージを開いた。
伊藤からの返信はこうだった。
「金曜の午後、私は雅貴様とスターホテルのレストランでお客様にお会いします。長浜さん、ご都合がよろしければスーツをお持ちください」
「……?」
頭の中の疑問符が、今にも飛び出しそうだった。
白金雅貴……また私に会いたいってこと?
しかも場所はホテル!
それも、あのプライバシーが徹底した、いくら叫んだって誰にも届かない高級ホテル!
この人……一体何を考えてるの?
灯里は深く考えるのを避けた。
逃げているわけじゃない。
せっかくのチャンスを自分から遠ざけるつもりもない。
ただ、彼の気まぐれで予測不能な心の内がどうしても読めないだけ。
ただ仕事を頑張りたいだけで、余計な渦に巻き込まれるのはごめんだった。
少し考えた末、灯里は相手のやり方を真似することにした――
とりあえず返事はしない。
マンションの駐車場。
伊藤はスマホをしまい、ため息をついた。
「無理しなくていい」とは言われたが、どうにも雅貴様が本当に無関心だとは思えない。
社員の話では、長浜さんが自分から仕事を求めてきたこともあったようだし、二人の間に何か誤解があるのだろう。
だからこそ……今回は自分の判断で動いた。
顔を合わせれば、きっと話せるはずだ。
だが長浜さんも、なかなか頑固なようで……
車がマンションを出ていくと、道の向こうから高級車が走ってきて、すれ違った。
湊斗は車をスマイルズの外れに停めた。
電話も出ない、メッセージも無視。
苛立ちはもう限界に近い。
そのとき、調査を頼んでいたスマイルズの住人リストがスマホに届いた。
だが、まず彼が驚いたのは、灯里の名前ではなく、同じ棟の最上階に「白金雅貴」とはっきり記載されていたことだった。
あの白金家の?
白金雅貴が帰国したという噂は、前々から耳にしていた。
白金家は横浜でも一目置かれる大物一族で、家族が表に出ることはほとんどない。
雅貴とは付き合いがあるわけではないが、若いころのパーティーで何度か顔を合わせたことがある。
氷のように静かで、どこか人を寄せ付けない雰囲気の青年だった。
灯里が自分に隠れてここに部屋を買い、しかも白金雅貴と同じ棟に住んでいる――
何か関係があるのか?
それとも、ただの偶然?
再び、ゴルフ場で見かけたあの女性の後ろ姿を思い出す。
二時間後。
灯里は車でマンションを出た瞬間、路肩の目立つ高級車を見つけて、思わずブレーキを強く踏んだ。
湊斗は車の横で煙草を吸っていた。
白い煙が、彼の鋭い眉をさらに際立たせている。
険しい表情は、怒りを隠しきれていなかった。
灯里は頭をフル回転させ、車を停めるわずかな時間で対策を決めた。
車を降りて、先に彼の助手席のドアを開けて乗り込む。
先手を打つように、冷たい声で言った。
「なんでここにいるの? 私のこと、尾行してた?」
湊斗は煙草を持ったまま、ダッシュボードのスマホを取り上げ、彼女の膝の上に放り投げた。
「説明してくれ」
画面には、スマイルズの住人リストが表示されていた。
灯里は平然とスマホを拾い、さっと目を通すと、また無表情で返した。
「何年も働いて、自分のお金で自分の家を買っただけよ。何か問題ある?あんたのお金なんて全然使ってないが」
湊斗の目は鋭く、彼女の言葉に騙される様子はない。
「灯里、言葉遊びはやめてくれ。金の問題じゃない。なんのために家を買った? なぜ俺に黙ってた?」
「話す必要なんてなかったと思う。私は自分のものが欲しかっただけ。自分の名前だけが書いてある家が。そんなに悪いこと?」
灯里はまっすぐ湊斗を見つめた。
その瞳には一点の曇りもない。
かつて橘川家で財産目当てだと疑われ、結婚前に公正証書を書かされた屈辱が、今も記憶に焼き付いている。
湊斗は一瞬絶句し、次の瞬間、苦笑いを浮かべた。
「この何年、俺がケチったことあったか? お前にあげたジュエリーやバッグ、どれも家一軒分の価値はあるだろ?」
灯里は黙ったまま、答えなかった。
湊斗は乱暴に財布を取り出し、中のゴールドカードやブラックカードをむちゃくちゃに引き抜き、彼女の膝の上に投げつけた。
「家が欲しいなら、好きなだけ買えばいい。全部お前の名義で。飽きるまで買ってやる」
灯里は皮肉を込めて笑った。
「さすがは橘川社長、太っ腹ね」
お金のために、彼の裏切りを我慢して、無感情な金儲けマシンになればよかったのかもしれない。
――それも悪くない選択かもしれない。
だが、どうしても自分の人生をそんなふうに諦めきれなかった。
落ちた財布を拾い上げ、カードを一枚ずつ丁寧に戻した。
「今はいい。必要になったら、またお願いするわ」
財布を彼の膝に戻そうとした瞬間、湊斗が彼女の手を強く押さえた。
顔を近づけ、じっと見つめてくる。
「もしかして……もう俺を信じてないのか?」
今さら?
灯里はこの男が愚かで滑稽に思えた。
口元に明るくも冷めた笑みを浮かべる。
「信じるも信じないも、あんたが満足ならそれでいい」
強引に手を引き抜いた。
ちょうどその時、スマホが鳴った。
灯里は一瞬身を固くした――まさか、伊藤が返事がないから直接電話してきたのでは?
湊斗はその一瞬の緊張を見逃さず、再び鋭い視線を向けた。
「俺の電話は無視で、他の人のはちゃんと出るのか?」
灯里は仕方なくスマホを取り出す。
画面には「橘川夫人」と表示されていた。
彼の母親だ……
湊斗も画面を見て、警戒を解いた。
「出ていいよ」
灯里は、離婚の日が近づいてきて、義母がまた牽制に来たのだろうと察した。
電話を取り、わざとこう言った。
「今あなたの息子と一緒にいるけど、先に彼と話す?」
電話の向こうで、陽子は言いかけた言葉を飲み込み、
「いや、いいわ。前に気に入ったって言ってたバッグ、まだ欲しい?」
「欲しいです。ちょうど今、全部メンテに出していて、手元になくて」
「じゃあ取りに来て」
「ありがとうございます」
それだけで電話は終わった。
湊斗は疑わしそうに言う。
「いつからそんなに仲良くなったんだ?」
灯里は逆に聞き返す。
「仲が良い方がいいでしょ? あんた、お母さんと私が喧嘩してほしいの?」
「……」
この女は、いつも巧みに話を逸らす。
湊斗の怒りは、もうほとんど消えていた。
さっき住人リストを見せたとき、彼女は「白金雅貴」の名にも一切動じず、動揺した様子は全くなかった。
関心は自分に家を買ったこと、それだけ。
やはり同じ棟なのは、ただの偶然か。
彼女はちょっと拗ねて、こっそり自分の知らないことをしただけ。
自分の金で小さなマンションを買ったくらいで、まるで大きな反抗をした気でいる。
――可愛いもんだ。
「送っていく」
そう言ってエンジンをかける。
「でも、私の車は……」
「誰かに回送させる」
有無を言わせずドアロックをし、そのまま車を発進させた。
その後の数日間、灯里は極端に用心深くなり、一歩も家から出なかった。
そして、離婚が発覚したときの湊斗の反応を何度もシミュレーションした。
怒り狂うのは間違いない。
だからこそ、彼の怒りをまともに受けるつもりはなかった。
旅行に出てしまうのが一番のクッションになる。
冷静になるまで待って、しかも戸崎夜亜が名義を求めて騒ぎ出すはずだし、自分が「いい子」で静かに去れば、むしろ都合がいいはず。
「それとね」
宮部清美が電話で念を押す。
「あの人の母には注意して。最近、色々動いてるみたいだから」
「大丈夫よ」
灯里は自信たっぷりに答えた。
「離婚届に判を押すまでは、あの人のほうが私に気を遣うしかないわ」
陽子が外で噂を流しているのは知っている。
息子は灯里と別れて、戸崎家と縁組みする、と。
好きにさせておけばいい。
金曜の午後、灯里はアイスランド行きの航空券を予約したばかりだった。
陽子から電話が入る。
前回から三日ぶりだ。
「会って、協議書を書き直しましょう」
陽子の声は強引だった。
「それは弁護士同士で進めればいいんじゃないですか」
「灯里! あなた、150億円から225億円に増額したくせに、書類の訂正にも来られない? 今日は必ず来て。スターホテルで待ってる。人も少なくて静かだから」
スターホテル?
灯里は心臓が跳ねた。
すぐに伊藤のメッセージを思い出す。
白金雅貴も今日、スターホテルにいる――
なんで皆、同じ場所なんだろう。