灯里は、朝六時きっかりに両親の家を出た。
この時間、普段なら父は朝の散歩に出かけていて、母は台所で朝食の準備をしているのだが、今朝はまだ二人とも深い眠りの中だった。
昨夜、就寝したのは午前二時を回っていたのだから、無理もない。
灯里は冷蔵庫にメモを一枚残し、身支度を整えて家を後にした。
マンションを抜け出すのも、タクシーを拾うのも手慣れたものだった。
向かった先は、宮部清美の家。
玄関のドアが開くと、出迎えた清美は目の下に真っ黒なクマを作っていた。
「橘川湊斗ってまだ死んでない!?クソ野郎が……あいつの母も戸崎夜亜も、みんな同じ穴のムジナだよ!」
灯里の話を夜中に聞いて以来、清美の怒りは収まるどころかますます燃え上がっていた。今すぐにもあの連中をぶん殴りに行きたい勢いだ。
その友人とは対照的に、灯里は静かだった。
スリッパに履き替えながら、キッチンに向かう。
「冷蔵庫に何か残ってる? 朝ご飯、作るから。」
清美は呆れ顔でため息をついた。
「……よく食べる気になるね」
「そんな奴らのせいでお腹空かせてたまるか。ちゃんと食べて、元気つけてからやり返すの」
灯里は、今にも飛びかかりそうな清美をソファに押し戻した。
「ちょっと……」
清美は灯里の手首を掴み、その赤黒い痕に目をとめた。
ぞっとするような冷気が背筋を走る。
「まさか縛られてたの……? 本気で殺す気だったんじゃ……」
「そうだよ」
灯里の笑顔は、どこまでも冷たかった。
「最初から逃がす気なんてなかった」
「戸崎夜亜が悪女なのは分かる。でも、湊斗は――八年も一緒にいたのに? 新しい女と半年で、もう手のひら返し? 人間って、ここまで冷たくなれるわけ」
「新しい恋人のご機嫌取りのためなら、何だってするんじゃない?」
「でも、あんなに必死で灯里のこと探してたのに、あれも全部嘘だったの?」
灯里の目には、皮肉しか浮かばなかった。
「今夜、あの二人が婚約を発表するの知ってる?」
「は?」
清美は驚いて振り向く。
「あんたらまだ離婚してないよね!? まさか……! 離婚届のこと、最初から知ってたの?」
灯里は唇を噛みしめた。
「そうかもしれないと思ってる」
清美は一気に推理を巡らせる。
「じゃあ、最初から全部仕組まれてたってこと? 橘川陽子と戸崎夜亜があんたを油断させて、離婚届にサインさせて、金も払わずに追い出す。もしもごねたら、あの動画で脅して黙らせる。……あのクズ、そこまでやるなんて!」
灯里は沈黙したまま、考え込んだ。
本当に、そうだったのだろうか。
湊斗の態度や昨夜の夜亜の言葉を思い出すたび、心の中で疑問が膨らんでいく。
「清美、調べてほしいことがあるの」
清美の目は正義感で燃えていた。
「任せて! 何でもやるから!」
夜七時、ロイヤルホテルの宴会場。
クリスタルのシャンデリアが眩い光を放ち、弦楽の調べが会場を優雅に包む。
横浜の名士、実業家、社交界の面々が一堂に集まり、きらびやかな夜が始まる。
この慈善パーティーの主催は橘川陽子。
戸崎家も総出で参加し、会場は華やかな空気に包まれていた。
誰の目にも、二つの家の結びつきは明らかだった。
戸崎夜亜はずっと湊斗の腕に絡みつき、時折スマホを気にしている。
――あの連中、何やってる。
電話も出ないし、動画も送ってこない。
まさか失敗した?
いや、絶対そんなはずない。
ベッドまで連れ込んだのに……
まさか、死なせちゃって逃げた?
夜亜はつまらなそうに口を尖らせた。
死んだらつまらない。
生き地獄を味わわせるのが一番なのに。
その時、陽子がにこやかに近づいてきた。
「夜亜、おばさんが何人かご紹介したい方がいるの。一緒に来てちょうだい」
陽子は夜亜の手を取って、声を潜める。
「うまくいった? 離婚届、ちゃんとサインさせた?」
夜亜は一瞬だけ戸惑い、すぐに自信満々でうなずく。
「もちろんです。明日にはお届けします」
「さすが! 本当に頼もしいわ」
「えへへ、お役に立てて嬉しいです」
「もうすぐ呼び方も変わるわね」
「じゃあ……お母様、って呼んでいいですか?」
二人は微笑み合いながら、それぞれの思惑を隠していた。
夜亜の頭の中では、あの女はもう死んだも同然、離婚届なんてどうでもいいと思っていた。
湊斗は、何人もの来客に挨拶を済ませると、ひとりでバルコニーに向かった。
煙草に火をつけ、電話をかける。
「まだ実家にいる?……分かった」
煙草を揉み消し、考え込む。
再び会場に戻ると、夜亜が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「湊斗、見て見て! 陽子さまが出品したピンクダイヤのセット、すごく素敵なの! 田中夫人の指輪も気になるけど……」
「どれも素敵だな」
湊斗は心ここにあらずで、冊子を見流そうとしたが、ふとあるページで手が止まった。
ピンクダイヤのジュエリー
――見覚えがありすぎる。
「その冊子、貸してくれる?」
「うん!」
夜亜は嬉しそうに手渡した。
湊斗はピンクダイヤのページをじっと見つめ、眉間に深い皺を刻む。
間違いない。
これは去年の結婚記念日に、自分がイタリアまで行ってオーダーした世界に一つだけのセットだ。
なぜここに?
クローゼットの空っぽの棚が脳裏をよぎる。
「やっぱり私たち、好みが合うよね! あのセット、陽子さまには派手すぎると思うな――」
夜亜は無邪気に続けたが、湊斗の顔色がどんどん険しくなっていることに気づかなかった。
今すぐ陽子を問い詰めることもできず、湊斗はそのページを写真に撮って灯里に送ろうとしたが、すでにブロックされていた。
電話も通じない。
得体の知れない不安が広がっていく。
「ちょっと用事ができた。先に失礼する」
「へっ?」
夜亜は慌てて腕を掴む。
「今夜は大事な日なのに!」
「何が大事なんだ?」
その時、ステージの上で陽子がマイクを手に挨拶を始めた。
「オークションを始める前に、皆さまに素敵なお知らせがございます」
陽子は戸崎夫人と視線を交わし、興奮気味に声を弾ませる。
「私の息子、湊斗が戸崎家のお嬢様・夜亜さんと婚約することになりました! 今夜、私は一番素敵な宝石を落札し、お嫁さんへのプレゼントにいたします」
会場中が歓声と拍手に包まれる。
人々の視線が湊斗と夜亜に集中し、祝福の声が途切れない。
戸崎家も満面の笑み。
夜亜は感激のあまり涙を浮かべていた。
ただ一人、湊斗だけがその場に立ち尽くし、頭の中が真っ白になっていた。
――自分は、いつ婚約するなんて言った?
そのとき――
宴会場の入口に、ひとり静かに立つ人影。
深紅のシースルードレスが白い肌を際立たせ、艶やかな長い髪、凛としたメイクが彼女の美しさをより際立たせている。
高くすらりとした体つき、ゆらめく薄絹の裾と手首に巻かれた赤いリボンが静かに揺れる。
その美しさは、すべての宝石をかすませるほど。
そして、その姿には、湊斗さえも凍りつかせる冷たい気配があった。
「……灯里」